鋼と鬼と邪悪な神
あかさや
第1話
冷たい雨と風が押し寄せる暗い森の中を二人の男たちは進んでいた。
現在もなお続く独裁政権、朝鮮労働党の権力者のみが肥え太り栄え、多くの市民が貧困と抑圧に喘ぐ国家――北朝鮮から逃げてきた者たち――いわゆる脱北者であった。
「くそっ!」
冷たい雨と風に身体を打たれながら、その中の一人の男が悪態をついた。まだ二十歳を過ぎたばかりの若い青年だ。
「そう怒るな。まだ失敗したというわけではないだろう?」
悪態をついた男に、彼よりひと回りほど年かさの男がたしなめる。
「しかし、こんなところで立ち往生してたんじゃ……」
「見つかる、か? 確かに何日も留まっていたらそうなるだろう。しかし、俺たちの貧弱な船でこの嵐の中、日本まで航海するのは無茶だ。俺たちみたいな男しかいないならそれでもいいのかもしれないが、女も子供もいる。そんなことをするわけにはいかない」
「とは言っても、絶対に失敗できない。もし、見つかって強制送還されることになったら……」
想像するまでもなく、待っているのは死――仮に殺されなかったとしても収容所に収監され、死ぬまで強制労働をさせられるだろう。どちらにしても悲惨なことに変わりはない。
「言うな。そうならないために、時間をかけて入念に計画を立てたんだろうが」
この脱出計画を立てたのは何年も前だ。当局に気取られないようにしながらプランを立て、普段通りの生活をしつつ、日本で暮らしている親族と連絡を取り、彼らのツテを利用して、日本で暮らす外国人としての身分を取得する――そのためには首尾よく脱出するほかに、日本の海上保安庁に見つからないようにしなければならなかった。
日本政府は信用できない。かつて北朝鮮から、中国の日本大使館に逃げ込んだ同胞がそのまま強制送還されたことがある。現在の祖国の実情がどのようなものか知っていながら、だ。
亡命したそいつがそのあとどうなったのかは知らないが、処刑されたか、生きているのなら文字通りに口を封じられたうえでどこかの収容所で強制労働されているだろう。
だから、祖国の実情を知り、現在の北朝鮮に対してあまりいい感情を持っていない同胞に助けを求めたのだ。
何年も時間をかけたことで、それは成功した。そして今日、寝静まった深夜に家族を連れて偽装した漁船に乗って逃げ出したのだ。
だが、首尾よく脱出し、日本の領海に入ったところで時化に襲われ、貧弱な船ではこのまま航海するのは危険だと判断して、やむを得ず近くにあったこの島へ時化が収まるまで停泊することにした。
停泊した島は暗い森に閉ざされた無人島だった。
明るくなるころに時化は収まっているだろう。その頃にはかなりの数の漁船が日本から出ているはずだ。その中に混じって日本へ密入国を果たす。日本に入りさえすればいい。そうすれば祖国で接触を図った親族と連絡を取ることができる。そうすれば、いくらかましな生活ができるようになるはずだ――
「おい。なんか建物があるぞ」
その声を聞いて視線を前に向けると、暗く閉ざされた森の中にぽっかりと開けた場所があり、そこには確かに洋風の館がある。二人はその洋館に向かって歩を進めていく。石造りの、時代がかった洋館だ。
「こんなところに誰かが住んでるのか?」
「いや、違うだろうな。恐らく何十年も放置されているようだ」
そう言われてみると、確かにその通りだ。石造りだからわかりにくいが、壁はかなり風化して、草やつたがからみつき、窓ガラスもすべて割れている。その窓から見える中は廃墟そのものだ。ここに誰か住んでいるのなら恐らく幽霊かその類だけだろう。人間は住んでいない。
「幽霊でもいそうな場所だが、夜が明けるまで雨風を凌ぐくらいは問題ないだろう。俺は船に戻って、若い奴を何人かこっちに連れてくる」
「ああ」
もともと小さな漁船に無理矢理大人数を押し込んだため、船は現在すし詰め状態になっている。北朝鮮を脱出してそのまま日本に到着できたならそれでも構わなかっただろうが、夜が明けるまで停泊するとなったらそうはいかない。
まだ小さい子供もいるのだ。
一人残った男は中を確かめるべく、洋館の扉に手をかけた。男が扉を引くと、木製の扉は飴細工かなにかのように外れてしまった。ぼろぼろの扉を投げ捨て、洋館の中に足を踏み入れる。
手に持った明かりで中を照らしてみると、長いあいだ雨風にさらされ、かなり風化しているが、何十年も放置されているわりには状態はいいといえるだろう。
だが――
妙な胸騒ぎがする。
なんだろうこれは――表現しようのない異質な気配を感じる。まさかここは本当に幽霊屋敷なのだろうか?
「――――」
その音を耳にしてはっとまわりを見渡した。まわりに広がっているのは雨風にさらされ、雑草が生い茂る空間だけだ。なにもない。なにもないはずだが――
「――――」
また聞こえた。
なにを言っていたのかまったくわからないが、確かになにか聞こえてきた。少なくとも中国語でも日本語でも英語でもない。一体なんだこの場所は。男の背筋に嫌な感触の怖気が走る。もしかして本当に幽霊屋敷だというのか――
「――――」
またしても聞こえた。相変わらずなにを言っているのかわからない。だが、この声は自分を呼んでいる――そんな気がした。
本能的に危険を感じていたが、足はそれに反して奥へと進んでしまう。
どうなっているんだ――男はいま自分の身に起こっている得体のしれない現象に心の底から恐怖した。
やけに自分の足音が大きく聞こえてくる。そこに混じる、自分を呼ぶ〈何者〉かの声。どうして、なんと言っているのか理解できないのに、自分を呼んでいるというのがわかるだろう。なにがどうなっている。ここに来るのはまずい――
だが、どういうわけか身体の自由が利かない。自分の意思に反して、足は奥へ奥へと踏み込んでいく。
「――――」
頭の中に響く声はさらに大きくなってくる。しかし、それがなにを言っているのかはまったくわからない。
引き返したい、そう思ったが、身体は自分の言うことを聞いてくれなかった。自分の身体が、どういうわけか自分の制御から外れてしまっている。
異様な気配はさらに強まっていた。まわりになにがあるのか、自分がなにをしているのか、なにを考えているのかもわからなくなってしまうほど強く、激しく、そして濃密に。
気がついたら、地下へ向かう階段を降りていた。石造りの階段を降りたその先には牢獄のような鉄の扉がある。やはり自分の意思に反して手が動き、鉄の扉に手をかけて引いた。
ずっしりと重く、嫌な音を響かせて開いた扉の先には――
牢獄のような空間の中に――
――理解できないほど異様な空間が広がっていた。
すべての壁が見たこともない面妖な文字で埋め尽くされ、ところどころにまるで用途がわからないぼろぼろになったオブジェが多数見られる。なにに使ったのか想像したくないが、小動物の骨のようなものも落ちていた。
なにがどうなっているのだ。なんだ、この場所は。
目の前に広がる自身の理解を超えた空間に心の底から恐怖する。
だが――
何故か、どうしようもないほどにこの異様さに心を惹かれている。
なにが――
「――――」
声が聞こえる。自分のことを呼ぶ声だ。それは何度聞いても、なにを言っているのかわからない。でも、なにが言いたいのかは理解できる。
扉の先に歩を進めていく。
甲高い響く自分の足音がやけに大きい。
牢獄のような、異様な空間の一番奥に鎮座されている本が目に入る。
分厚く重そうで、禍々しい装丁のなされた本
あれだ――男は確信した。
「――――」
声が聞こえる。やはり自分を呼んでいるのだ。
本を手に取る。触れると、ずっしりとした重さと同時に雷撃のような感覚が身体の中を疾走した。頭からつま先まで表現しきれないほどの快感に満たされているようだ。
この瞬間、自分は生まれ変わったのだ、そんな感覚を抱くほど、その本に触れたときの衝撃はすさまじいものだった。
ああ、素晴らしい。なんて素晴らしいんだ。
「――――」
またなにか聞こえてくる。やっぱりなにを言っているのかわからない。
しかし、こいつがなにを言いたいのか、なにを求めているのか、簡単に理解できる。
こいつはここから出たいのだ。そう言っている。間違いない。それはそうだろう。こんな廃墟に長い時間、放置されていたのだから。
これがあれば、なんだってできる。抑圧された国家で抑圧された生活をする必要などなくなる。
いや、違う。これがあれば人間の社会などという矮小なものはどうにでもできるはずだ。間違いない。これは想像に絶するほどの力を持っているのだ――
とてつもなく大きな歓喜から身体の奥の奥から湧き出して、むせかえってしまいそうなほど濃密な幸福感に包まれている。
大きすぎる歓喜と幸福感のせいか、笑いが止まらない。
自分は選ばれたのだ。この世界でもっとも素晴らしく、究極の存在に。
「――――」
また声が聞こえてくる。相変わらずなんと言っているのかわからない。だが、こいつはいま喜んでいるに違いないはずだ。
「おい。なにやってるんだ?」
背後から声が聞こえる。振り返ると、先ほど船に戻った男が訝しげにこちらを見ている。何人か若い男を引き連れてこちらに戻ってきたようだ。
「この廃墟の中がどうなってるのか調べただけだ。崩れそうなところがあったら危ないだろ?」
そうだ。お前らが気にする必要などない。自分はこいつに選ばれ、お前らは選ばれていない。ただそれだけでしかない。お前らと違って俺はこの先の幸福を約束されているのだ――
「そうか。それならいいが――まだ日本まで距離があるんだ。少し横になった方がいい」
「ああ。そうだな。それがいい。こんなところではなにもできないからな」
重い本を脇に抱えて、歩き出す。
「――――」
またなにか聞こえてくる。喜んでいるようだ。なにを言ってるのかわからなくても、それは強く伝わってくる。
こいつをここから出さなければならない。それがこいつに選ばれた自分に与えられた使命なのだ――
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