霧中の金貨
叩いて渡るほうの石橋
霧中の金貨
私ね、と婚約者である彼女は僕の胸の内で話し始めた。フィギュアスケートの選手がリンクを滑るようにスムーズに、かつ艶やかに唇が動くのを僕は黙って見守る。
「好きよ、あなたのこと」
簡潔なメッセージが僕の耳まで届けられ、熱のこもる声は言葉の配達を続ける。
「あなたの全てが好きなの。嫌な部分なんてひとつたりともない。好きって気持ちを、好きって言葉でしか表せない自分を憎むくらいよ。でもね、それくらいに好きなの。ずっと、ずっとこうしてあなたに抱かれていたいわ」
彼女の温かで小さな息が僕をくすぐるけれど、それが快い。
「もしも時間を止められるとしたらあなたはどうする?私なら今すぐに止めるわ。だって、あなたと離れたくないもの。それにあなたの温もりを永遠に感じられるし。いつまでも、このままでいたいのよ」
僕は言う。時を止めてしまったら温かさを感じることもできないんじゃないか、と。
「そうね、確かにそうだわ。正確に自分の表現したいことを伝えるのってやっぱり難しいのね」
彼女は少しの間眉間にしわを寄せて考え込んだあと、何かを見つけたのか、はっきりとした口調になって再び話し出す。
「つまり私は死にたいのかもしれないわ。幸せなままで、脈打つ心臓をぴたりと静止させてしまうの。最新の記憶を今のこの瞬間だけで染めたままにするのよ。どう?この世で一番幸溢れる行為だと思わない?」
だんだんと高ぶってきていたその声は少しずつ落ち着きを取り戻す。
「だけど、死ぬのは怖いのよ。だから時間を止めるというのが、私には都合良く当てはまった言い回しのように思えたのかもしれないわね」
なるほど、と僕が応えるのに被せるようにして彼女は囁く。
「私があなたをどれほどに好きか、わかってもらえたかしら」
冷え込む朝のバス停。僕は昨夜交わした彼女との会話を思い出しながら仕事場へのバスを待っていた。曇り空が不快な光を目に侵入させてくる。それならばと目蓋を閉じて、本格的に思考を深く沈ませて行く。
わかってもらえたかしら、と言った彼女がさらに続けた言葉を僕は間違いのないよう一言一句丁寧に、記憶の大洋から引き揚げ紡ぎ直した。
「だけれどね、あなたのことが、あなたの全てが好きなのに、具体的にそれを言葉にするとなると易々とはできないのよ」
この一言が僕を寝かさなかった。それは、まるで釣り針が脳味噌に引っ掛かっているような感覚。それが今になってしっかりと違和感の形を成していた。
底無しの思考の沼に身を委ね続ける。しかし僕は違和感の正体に指の一本も触れることができていないようだった。
バスに乗り体を揺らしながらも答えは未知数であり続け、このまま仕事をしても身が入らない、ひとつしかない頭が妙な浮遊感から解放されないのでは弱ってしまうなと思った。
バスが止まり乗客が増えるのを何となく見つめていた。
そのとき急に、唐突に走ったのは頭を鈍器で殴られたような強い衝撃。それに吹き飛ばされぬよう耐えて目線を前にやると、乗り込んできた幼い少女がぬいぐるみと会話する様が眼前で鮮やかに強調されていた。
少女は何か違和感の答えに近いものを持っている。不審者ではないかと怪しまれるくらいに少女から目を離すことなく、必死に考え、考え抜き、それからなぜ少女に釘付けになったのか合点がいった僕は、早速バスを降りて婚約者のところへと歩き出していた。
彼女は僕に理想像を、プロジェクションマッピングのように映し出しているだけだったのだ。そうして僕という壁に映したい物が綺麗に浮き上がった部分だけを彼女は認めている。嫌いなところがないのではない、局所について見ぬふりをしているだけだ。
僕は、彼女のぬいぐるみなのだ。
それでいて、当然と言うべきか彼女は僕のぬいぐるみなのだ。彼女だけではない、嫌いな上司も可愛がっている後輩も。友人も、皆が。
しかし関わる者全てがぬいぐるみではいけないのである。何故なら、ぬいぐるみとは結婚ができないから。結婚は人間と人間で行うものだから。
僕の意識は彼女に面する。
僕の人形にしてはいけない、彼女だけは。一日がかりで、いや何日かけてでも中の綿を跡形もなく全部引きずり出してやる。その空いた穴には、体液にまみれた内蔵をひとつずつ埋め込んでやる。
そして僕は今までよりもきつく、「人間の」彼女を抱き締めてやるのだ。
太陽が雲の隙間から顔を覗かせていた。
霧中の金貨 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi
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