3月8日「電脳の忍び」
一日一作@ととり
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「この曲、すごく好きな曲なの」そういって渡された一枚のメモリースティック、それがすべてのはじまりだった。渡辺京太郎はある商社で営業の仕事をしていた、今日は夜遅くまで顧客の管理情報を入力していたのだが、間違いに気づき慌てて修正していた。その作業は深夜に及び、彼は終電をあきらめて徹夜することにした。それで思い出したのである。田中真琴に渡されたメモリースティックを。真琴は仕事で知り合った、取引先の事務の女性である。スレンダーな美人でちょっと好みのタイプだった。だからというわけではないが、何か気分を変えたくて、彼はメモリースティックを会社のパソコンに差し込んだ。そこから、記憶されているファイルを開き、真琴の一押しの曲を再生した。アコースティックギターが印象的な今流行の曲。女性ボーカルの声もポップながら哀愁を感じさせ、渡辺京太郎はなんだかセンチメンタルな気分になった、こんな気分は久しぶりだった。曲を聴き終わると彼はメモリースティックを外した。今度真琴をレストランに誘ってみようと思っていた。
それから一週間後、渡辺京太郎は真琴に会っていた。彼女は昇格が決まったという。「私、会社を興すのが夢なの」「サイバーセキュリティって知ってる?」「会社のコンピューターには外部から色んな人や物が入ってくる、もちろん正しいルートで入ってくる正しい情報なら問題ないの」「問題は悪意のある人が悪いものを持ち込む場合があるってこと」「例えば、お城に忍び込む忍者みたいに」「それは様々な方法で侵入が試みられる」ワイングラスを回しながら真琴は妖しく笑った。「そういう脅威からコンピューターを守る会社を興したいのよ」
翌日、彼は会社をクビになった。
会社の重要機密をライバル会社に開示し報酬を得たという内容だった。渡辺京太郎には全く身に覚えのないことだった。何かの間違いだといっても、彼のパソコンの彼のメールソフトから機密情報を入れたファイルがライバル会社に送られていた。弁解も虚しく、彼は無職の身になった。
再就職はうまくいかなかった。当たり前の話である、情報漏洩で会社をクビになった者など、他の会社も怖くて雇えない。彼は学生がするような飲食店のアルバイトをして暮らした。5年住んだ高級マンションを引き払い、安い賃貸を探した。
ある日である。渡辺京太郎がアルバイト先で牛丼を運んでいると、昔の営業仲間が声をかけてきた「俺は渡辺がそんなことするはずないって思っていたよ」そう笑う西条弦は相変わらず屈託がない。懐かしさで仕事が終わると西条に連絡を取り一緒に飲んだ。聞くと西条は渡辺が働いていた会社を辞し、今は別の会社に働いているという。サイバーセキュリティの会社だという。「社長がえらい美人でな」と西条は鼻の下を長くした。「それでいて頭が良くて、やる気に溢れてるんだ。まだ小さい会社だが、俺はデカくなると思う」渡辺は目を輝かせて語る西条に酷く嫉妬心を感じた。「なあ、提案なんだが、お前、俺の会社を紹介してやるといったら、どうする?」渡辺は目を輝かした。「本当か?就職できるのか?」「ああ、俺が社長に直々にいってみる、お前は凄腕の営業マンだったし、こんなとこで埋もれるのは惜しいもんな」渡辺には西条が突然神様のように見えた。「西条、恩に着る。俺、誠心誠意働くよ」
西条の会社は都心のさるオフィスにあった。社員は5名、社長はなんとあの田中真琴だった。渡辺は驚いた。「おひさしぶりね、渡辺さん」黒のジャケットにグレーのタイトスカート、ストッキングにつつまれた美しい脚の先には黒のハイヒール。金のピアスをきらめかせて真琴は嫣然と笑った。「時間があまりないの、一つだけいわせて。前の会社のような給料は出せない、でも倍働いてもらう。できるかしら?」「もちろんです」渡辺は胸を張った。
西条にオフィスを案内され、残る4名の仕事仲間を紹介された。プログラミングの大西と今川、事務の佐藤、営業の増沢、そして営業部長の西条「いま大きなプロジェクトが進行していてね、5人でも回りきらないんだ」「君にはいろいろ学んでもらう」「わかった」そう渡辺京太郎が答えると、西条はオフィスからいったん離れ、ビルの中の自動販売機で缶コーヒーを飲んだ。「僕たちの会社はね」「いわば忍者組織なんだ」「様々な会社に雇われ、そこでセキュリティを任される。表向きのセキュリティだけじゃない、裏側が大事なんだ」「組織も外部もまだ気づいてないセキュリティの穴を見つけるのが基本的な仕事だ」「ただ、君もすぐ気づくと思うが、僕たちには別の側面がある」「別の会社のコンピューターにハッキングしてそこの情報を盗み出す」「それをライバルの会社に売る」「聞いたことのある手口だろう?」
渡辺は気づいた。あのメモリースティック、音楽データに紛れて何かが入っていたのではないか。「よく考えるんだ」「お前はうちの社長にはめられた。しかしお前の能力に惚れてのことだ」「大手の会社なら引き抜きも自在かもしれない。だが、うちのような弱小企業にただ来いというのは、お前にとってもリスクが大きい」渡辺は気づくとコーヒーの缶を握りつぶしていた「だからといって、人の人生設計を狂わせていいのか」「まあ、落ち着け、ここは考えどころだ」「過去にとらわれて、チャンスをふいにして、牛丼屋のバイトで終わるか」
「生まれ変わった気持ちでこの会社で一からやりなおすか」西条は屈託のない笑顔を作った。だがその目は笑っていない。「お前は生粋の営業マンだと思う、会社組織の中でしか生きれない人間だ」「いいか?あの社長がお前に惚れてるんだぞ?」「お前も社長のために働いてみないか」
「わかった」渡辺はすべてを承知した。俺を正社員で雇ってくれる会社なんて、この先もう出てこないかもしれない。俺さえ考えを変えれば、西条の言う通りこれは大きなチャンスなのかもしれない。その日の午後から渡辺はオフィスに座った。
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