静は探ってくる、まだ引退していないのかと



 リビングのソファーに寝転がる私は、穏やかな午後にまどろみをつついている。

 硝子のテーブルに置かれた英単語帳はまるで開く気にならない。

 元々わりとない方だったのだけど、九月に入ってから受験勉強へのモチベーションがまるでなくなってきていた。

 読書の秋、食欲の秋、睡眠の秋、怠惰の秋なんて言葉があるかどうかは知らないけれど、とにもかくにもやる気がでない。

 だからこんな日曜日の午後は、興味もないテレビチャンネルを無駄に回すくらいしか最近はしていなかった。



「あー、お姉ちゃん全然勉強してないじゃーん。サボリ?」



 ふいにリビングにジャージ姿の少女が入ってくる。

 ずぼらな私には濃すぎるスポドリをごくごくと飲むその少女は、私の唯一の妹であるしずかだった。


「お父さんたちはまだお出掛け中? ほんと仲良いねあの二人。日曜日に子供放っておいて、夫婦二人でデートとはいい御身分」


 キッチンに放置されていたバナナを手に取ると、静はもぐもぐと三時のおやつにしては遅すぎる軽食タイムを始めた。

 ここ最近いつも何かしら食べている印象のある静だけど、運動部に所属していることもあってか余計な脂肪がついている様子はまったくない。


「あ、そうだ。そういえばお姉ちゃんに聞きたいことあったんだよね」


 私にききたいこと? なに? 勉強のことならむり。そのことなら今なにも考えたくない。

 私たちの姉妹仲は、他のご家庭がどんな感じなのかは知らないけれど、それなりに良いほうだと思う。

 あえて姉妹二人でどこかに出かけることこそ、最近はめったになくなってきたけれど、基本的に顔を合わせればとりとめのない会話をだらだらとすることが多い。


「いや、勉強のことならむりって。ほんとにお姉ちゃん受験生? まあ、いいや。勉強のことじゃなくてさ、……お姉ちゃん、三年生の横尾俊平って人知ってる?」


 へっ!? よ、横尾俊平!?

 完全にオフモードで油断していた私は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

 なんで妹の口から横尾くんの名前が出てくるんだ。

 心臓が準備運動もせずにいきなり全力疾走したときみたいな高鳴りをしている。

 

「なにその情けない声? 知ってるの? 知ってるなら教えてよ、横尾俊平のこと。どんな人?」


 し、知ってるもなにも、一応クラスメイトだけど。それがなに? 

 なぜか乱調気味の呼吸を落ち着かせながら、私は妹の意図を読み取ろうと目を細める。

 

「え? もしかしてお姉ちゃんその人と仲悪い? 珍しいね。頭の中ゆるふわぱーまのお姉ちゃんがそんなぶっきらぼうな態度するの」


 おいこら。誰が頭の中ゆるふわぱーまだ。中も外も直毛ストレートだっての。

 私は別に仲が悪いわけではないとちゃんと訂正する。

 むしろ私と横尾くんは、どちらかといえば仲が良いはず。

 その、はずだ。

 少なくとも私の方は、今はそう思っている。


「クラスメイトの男子にサッカー部の奴がいるんだけどさ、そいつがなんかその横尾俊平って人のことが大好きらしくて。でもさ、夏でだいたい引退じゃん? で、その横尾俊平って人も引退しちゃったみたいなんだけど、その男子がめっちゃ落ち込んでて。横尾ロス? みたいな感じになってたから、どんな人なのかなーって」


 横尾ロス。なぜかその言葉が私の胸にチクリとした痛みを生み出す。

 だけどあのわりと口の悪いところのある横尾くんが、後輩にそんな慕われているなんて意外だ。

 まあでもああ見えて、けっこう面倒見がいいし、運動神経も良いからね。


「うーんでも、今度自分で見に行こうかな。お姉ちゃんと同じクラスならそっちの方が早そう。……あ、そういえばお姉ちゃんは演劇部まだ引退してないの?」


 私はまだだよ。十月の文化祭で引退。

 横尾くんと比べると、時々私は自分がいかにちっぽけな人間なのかと考えることがある。

 私が隣りからいなくなった今、横尾くんはどんな気持ちなんだろう。

 寂しい、なんて彼も、思うのだろうか。



「ふーん、そうなんだ。お姉ちゃんの引退講演、じゃあわたしも観に行くね」



 いいよ、来なくても。恥ずかしいし。

 私は苦笑しながら、そう返す。

 でも、来て欲しい人が頭に浮かばないかといえば、そんなこともなかった。

 



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