私は振りかえる、あれはお互いの名前を初めて知った日のこと



 秋が訪れて、私の隣りから横尾くんはいなくなった。

 いや、どちらかといえば、横尾くんの隣りから私がいなくなったと言った方が正しかもしれない。

 これまでに比べて、やけに緩慢と進む時計の針を眺めながら、私は灰色の景色から逃げるように思いを馳せる。

 私の意識が向かったのは、今から二年前。

 ちょうど二年前の秋を振りかえると、少しだけいま見ている世界に色がつくような気がしていた。



『それじゃあ、皆さん、新しい席に移動してください』



 中学一年生の秋。

 やっと中学生活に慣れてきた私は、席替えによって新しい席に移動する。

 たかが席替えといっても、されど席替え。

 クラスメイトたちの顔ぶれに変化はないけれど、それぞれが座る場所を変えると景色が変わって中々に新鮮な気持ちになった。


『もし視力とか、前の席の人の身長の問題で黒板が見えにくい人がいたら教えてくださいね』


 担任の加藤先生の優し気な言葉を耳に受けながら、移動を終えた私は左隣りの席に顔を向けてみる。

 私たちのクラスは班で男女の数が一緒になるように、どこも隣り合う席は男女の組み合わせになっている。

 個人的には小学生から仲の良い美咲と近くの席になりたかったけれど、残念ながら私の小さな願いは叶わなかったようだ。



『……ここか』



 そして、私より少し遅れて一人の少年が隣りの席にやってくる。

 クラスメイトなのでもちろん顔は知っているけれど、名前がぱっと思いつかない。

 これまで一度も話したことのない男子だ。

 私は人見知りというわけでもないのだけど、自ら進んで積極的に他人に喋りかけるタイプでもないので、わりと秋になってもまだまともに会話のしたことのないクラスメイトが何人かいた。


 どうしよう。挨拶とかした方がいいのかな。


 一応これから冬が訪れるまで隣りの席になることだし、会釈の一つか二つした方がいいのかと様子を窺っていたのだけど、隣りの席の少年は私のことを一切気にする様子なく、鞄から本を取り出すと中身を読み出してしまった。


『……ここは静かでいいな。むだに騒がしい奴がいなくてよかった』


 独り言のようなもの囁いたのを最後に、隣りの席の少年は読書に耽る。

 どうもあまり他人に干渉されたくない系統の人みたい。

 私はごきげんようの言葉を胸の中にしまい、私も机の整理をしようとする。


 ……あ。


 でもその時、私はあることに気づく。

 隣りの席の少年がブックカバーもつけずに読んでいる本、それが川端康成の山の音という本だったのだ。

 実は私もけっこう読書はする方だ。その中でも川端康成は私の大好きな小説家の一人だった。

 川端康成本人は最後に自殺してしまったり、徹底的な個人主義で友人の少ない人間だったと言われているけれど、意外にもこの人の本は明るくユーモラスなメッセージを含んでいることが多い。

 私は思わずまじまじと隣りの席の少年の横顔を見てしまう。

 自分以外に川端康成の小説を読む同級生を見るのは、彼が初めてだった。



『……なんだい? 僕はいま少し眉を寄せて、少し口をあけて、何かを考えている風だったかい?』



 すると私の視線に気づいたのか、少年は文字の羅列から目を上げて、横目を向ける。

 

 他の人には考えているように見えないかもしれないね。私には悲しんでいるようにも見えるよ。


 そして私は反射的にそんな言葉を返す。

 “尾形慎吾は少し眉を寄せ、少し口をあけて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるように見える。”

 これは川端康成の山の音の一番最初の文言だ。

 私が口にした台詞は、山の音を聴いたことのある私だから返せたものだった。


『……え? まさか君も川端を読むのかい? 驚いたな。君はあの辻村と仲の良い本田アイだろう?』


 隣りの席の少年は驚いたように目を丸々とさせて、今度は真っ直ぐと私の顔を見つめる。

 辻村というのは、私の親友の美咲のことだ。

 そういえば一つ前の席替えの時には、美咲の隣りにこの少年がいたような気がする。


 私の名前は本田アイじゃないよ。読み方が違う。

 それで君の名前はなんていうの?


 私の本名を微妙に間違えて覚えていた少年の認識を訂正する。

 やっと正面から見れた彼の顔は、意外にもけっこう可愛らしい印象を私に覚えさせた。



『ああ、なるほど。だからあいつが君のことを“メグ”って呼ぶのか。僕の名前は横尾俊平だ。これからしばらく、よろしく頼むよ。本田愛ほんだめぐみさん 』


 

 隣りの席の少年は納得したように、穏やかに微笑む。

 それは静かに秋が始まっていく、微熱の残る季節のこと。

 これが私と横尾くんとの出会いだった。


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