横尾くんは蹴る、夏の終わりと
世の中、うまくいくことの方が少ない。
額をつたう汗がこれほど重く感じるなんて。
燦燦と夏の陽光が照りつけるスタジアムの電光掲示板。
そこに表示されているのは2対0。
県大会の決勝ということもあって、案外スタジアムの席は埋まっているけれど、明らかに私たちとは違う学校の制服を着た生徒の方が多い。
おそらく応援席にいる生徒の七割くらいは、私たち四中サッカー部の決勝の相手であるトーコーの生徒なんだと思う。
「うーん、中々難しいわね」
「……そうですね。防戦一方って感じです」
私の隣りでは美咲が難しい顔で、ハーフタイムで空っぽになっている芝を眺めている。
弟がサッカー部に所属しているらしい渡辺さんも、不安そうな顔色だ。
試合の半分がちょうど終わった今、四中は二点差をつけられて負けているところだった。
「やっぱりトーコーは強いね。横尾の動きは悪くないけど、そもそも横尾までボールがほとんど運べてない」
「だめじゃーん。ね、ね、慎吾がサッカーやってたら、余裕で勝てるよね?」
「まさか。試合にも出れないと思うよ」
「そうかなー? ゆーまでも出れてるくらいだし、余裕だと思うけど」
私たちと並ぶような感じで、青山くんと鈴井さんも席に座っている。
横尾くんと一緒に試合に出ている木下くんと鈴井さんが付き合っているらしく、その関係で顔を出しにきたみたいだ。
青山くんは顔が広く、サッカー部に沢山友人がいるみたいなので、その応援らしい。
「あ、後半、始まるみたいよ」
美咲の声につられて、自然と立ち上がってしまう。
キャプテンマークをつけた木下くんを先頭に、四中サッカー部がピッチに足を踏み入れる。
胸がとくん、とくんと鼓動を大袈裟に主張する。
一番最後に姿を見せたのは背番号10をつけた華奢な少年。
空を仰ぐその少年の背中にはYOKOOと書かれている。
――そして、一瞬、私と視線が合致する。
もしかしたら、それは自意識過剰な気のせいかもしれない。
でも、横尾くんの口角が優しくつり上がっているのは見間違いじゃない気がした。
耳を劈くようなホイッスルと同時に、向こうチームがピッチの中央に置いてあったボールを蹴る。
点差は二点差。
まだ勝負はわからない。
「いけーっ! そこだー! やれ! やれ! 潰せ潰せーっ!」
観戦しているスポーツが私とは違うんじゃないかと疑ってしまうような、美咲の野蛮な声援。
それでも地力の差は歴然で、向こうのチームの細かなパスワークに木下くん達はずっと翻弄され続けている。
相手のミスから時々ボールを奪い、その瞬間、横尾くんが相手陣内に広がる大きなスペースに走り込むけれど、彼の足下にボールは届かない。
「あぁ、これはまずいな」
青山くんがポツリと平坦な言葉を漏らす。
私たちのゴール前で、向こうのチームの選手が一人倒れ込む。
ピィー、と悲鳴のような音が空を突き刺す。
「え? なになに? なにが起きたの? 誰か寧々に教えて?」
「たぶんペナルティキックだと思います。自陣のゴール前で反則をしてしまうと、ゴールキーパーと一対一のシュートチャンスが与えられるんですよ」
不思議そうな顔をする鈴井さんに対して、渡辺さんが丁寧に状況を説明してくれる。
どうやら私たち四中チームの一人が、相手選手の足を引っかけてしまったようだ。
渡辺さんが教えてくれた通りに、さっきまで倒れていた選手がボールをセットして、そこには一切の邪魔が入らない。
「……外せっ!」
響き渡る歓声。
美咲の願いは通じず、無慈悲にも電光掲示板のスコアが3対0に変化する。
四中のチームも皆が項垂れていて、重苦しい雰囲気に満ちているのがよくわかる。
でも、まだ顔を上げている人が一人だけいた。
私の胸がきゅっと締め付けられ、心の奥が熱くなる。
「勝つぞ」
それは空耳だったかもしれない。
だけど私にはたしかに聴こえたんだ。
ボールを脇に抱えて、頭を垂れる木下くんの背中を強く一度叩いた後、その人はピッチの真ん中に堂々と立つ。
笛がまた鳴る。横尾くんがボールを蹴る。
刻々と残された時間が減っていく。
それでも横尾くんは走り続ける。
顔を歪めながら、汗を飛ばしながら、またそれでも必死にボールを追う。
「あ」
それは誰の漏らした声だったのだろう。
ゆっくりと、ボールが誰もいないところに転がっていく。
先に触れたのは、四中サッカー部のキャプテンマークをつけた背の高い少年、木下くんだ。
木下くんは後ろを振り向くと、ろくに前も見ずにすぐボールを大きく蹴り出す。
真っ青な空を縫うように、ボールが飛んでいく。
ほぼ全員の足が止まり、不思議なほどの静寂が満ちる。
でも、やっぱり、その人は、彼だけは走っていた。
ぴたりと、音もなく、彼はボールを足につけ、鳥のように軽やかにピッチを舞う。
重力から解放されたかのように、飛び立っていく。
もう誰も、彼を止めることはできない。
きっともう、彼の夏は終わってしまう。でもそれでいいんだ。
夏の終わりと一緒に、彼は、横尾くんはボールを蹴る。
横尾くんの足下から離れていくボールは誰の手にも触れられず、そのままネットを揺らす。
瞳が涙で滲む。
この涙がどんな感情から溢れ出たものかは、今の私にはわからない。
横尾くんが空を見上げている。
彼にはこの夏空がどんな風に見えているのだろう。
夏が終われば、すぐに秋が訪れる。
また一つ季節が移りゆく予感の中で、私はチームメイトにもみくちゃにされる横尾くんのことを遠くから見つめていた。
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