隣りの席の横尾くんに彼女ができないので私は、
谷川人鳥
春
横尾くんは語る、彼女をつくれないのではなくつくらないだけだと
一輪の花は百輪の花よりも華やかさを思わせると、川端康成は言った。
私はこの台詞がずいぶんと気に入っていて、国語の加藤先生が皆さんには好きな言葉がありますかとクラスに問い掛けた時、頭に思いつくものは他にはなかった。
だから心底うんざりしたものだ。
次の瞬間、加藤先生が自分の好きな言葉について隣りの席の子と語り合いましょうなどと言い出した時には。
この世界で最も自分の好きな言葉を教えたくない相手が、残念ながら今の私がいる席の左横に座っていたのである。
「それは川端康成の台詞だな。やれやれ。僕の統計では、純文学好きの女は十中八九不相応に異性への理想が高い、夢見がちな面食い女だと結論が出ているんだ」
ほらまた始まった。
今日も彼は頼んでもいないのに勝手に喋り出す。
無駄に長い前髪を気分よさそうに指で弾きながら、鬱陶しいニヤケ面をこちらに向けている。
「読書好きという輩というのは、男女関係なく揃いもそろって厄介な奴らばかりだ。現実よりも空想の世界に興味を持つなんて、どう考えてもロクな人間の思考回路ではない。思慮深く、ロマンチストな性格といえば聞こえはいいが、その実態はただの妄想癖の強い受け身人間にしか過ぎない」
彼は得意気に自分の机から太宰治の人間失格を取り出して、ひらひらと私の顔の前で揺らして見せる。
何かを批難するときに、その批難が自分自身にも当てはまれば当てはまるほど彼の舌はよく回る。
正直かなりの変人だと思う。
「ある日突然、白馬の王子様、或いは白ドレスのお姫様が目の前に現れると、どこか本気で信じているのさ。自分からその理想の相手を探すようなことは決してせず、ただ毎晩都合のよい夢に口角を緩ませるだけ。ひたすらに見つけ出して貰うのを待っている。全くもって愚かしいね。理想主義者は正真正銘の知性欠落者だよ」
憐れみに潤んだ視線で彼は私を見つめる。
ちょっとムカついたので消しカスを投げつけてやった。
彼の消しカスを投げつけられた時の驚いた表情が私はとても好きだった。
「と、とにかく、こういった理想主義者は本気で信じているんだ。自分にとっての運命の相手以外と恋人になるようなことは、夢に囚われ孤独に苛まれること以上に愚かなことだと。他者に厳しく、自分に妥協を許さない。本気で好きになった相手以外とは、決して手を取り合うべきではないと。そんな今時小学生でも抱かないような馬鹿げた貞操観念を持つのが、僕らのような読書好き、つまりは理想主義の空想主義者だとね」
僕らってなに。勝手に私と君を一緒にしないで。
私は文句をつけるが、まるで聞く耳を持つ様子はない。
「だから僕は妥協をしない。たしかにいまだに僕には恋人というものができたことはないが、それは僕が恋愛というもに過剰な期待をしているからに過ぎない。僕だって理想を捨て、快楽主義者に鞍替えすれば、いつだって彼女の一人や二人くらい簡単につくれるんだよ」
そうなんだ。よかったね。
私があからさまに気のない返事をしても、彼は嬉しそうに鼻の下を伸ばすだけ。
幸せそうで何よりだ。
「僕はね、彼女をつくれないのではなくて、つくらないだけなんだよ」
そしてやっと今日も彼――横尾くんのあまりにも捻くれた恋愛講座がひと段落したらしい。
いつもいつもよく喋る。
こんなに懇切丁寧に彼女の一人もまるでつくれない理由を毎日私に伝えていったいどうするつもりなのだろう。
ちなみに横尾くんの好きな言葉はなんなの?
そして私は彼のお気に入りの言葉も一応きいておく。
私は先生の指示には真面目に従うタイプなのだ。
「……一輪の花美しくあらば、我もまた生きてあらん」
彼は急に頬を赤らめて、そっぽを向きながらそう言った。
一輪の花美しくあらば、我もまた生きてあらん、それは川端康成の言葉で、私は思わず笑ってしまう。
まったくもう。しょうがないな。
隣りの席の横尾くんに彼女ができないので私は、きっと明日も仕方なく話し相手のいない彼に付き合ってあげるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます