エヴェレットに終焉を
葉月+(まいかぜ)
End to EVE(本編:第一部完結済)
001 はじまりの赤
青みがかった銀の髪を、吹いてもいない風にそよがせる、美貌の魔女。
突如として、私の前に現れた。私の理想の具現が、いつかの私が思い描いた『イヴ』そのままの顔で不敵に笑う。
「さぁ、新しい物語をはじめよう――」
それは、あまりに甘美な末期の夢。
――に、なるはずだった。
「まずは、お前から大事なものを盗んでいった不届き者を懲らしめてやらないとな」
柳のよう嫋やかな細腕へ、大して力を込める素振りも見せず。降り積もった雪に埋もれる私の体を引き起こし、両手に抱えてふわりと跳ねた。
華奢な少女の体躯に似つかわしくない、圧倒的な
「寒くはないか?」
街を一望できるほどの高さにまで一息で跳び上がり、やけにゆっくりと落ちながら。何かを探すよう遠くへ向けられていた血色の眼差しが、最後の最後に私を捉える。
「だいじょうぶ……へいき」
ついさっきまで雪に埋もれていたのだから、体はすっかり冷え切っているはずなのに。不思議と寒くはない。
私が感じているがままを素直に答えて返せば、どこからともなく取り出された厚手のストールが、自ら巻きつくよう体を包んだ。
「用がすんだら、どこかの温泉にでも入って温まろうな」
人一人抱えているにしてはあまりに軽い着地の瞬間。気遣わしげに囁いたイヴの腕が、いっそう強く私の体を抱き寄せる。
そして。
「見つけた」
獲物に狙いを定めた肉食獣さながら、酷薄に牙を剥いて笑った。
「逃がすか――!」
唐突に支えを失ったかのよう、ガクンッと勢いを増した落下の末。
四度目の跳躍は、それまでと違い風を切るよう鋭いもので。私という荷物を抱えたまま、イヴは一足飛びに何十という家々の屋根を越えていく。
私にとって見慣れた街から、見知らぬ街へ。風さえ置き去りにする勢いで駆け抜けた先。
次にイヴが下り立ったのは、どこかの公園じみた林の中で。点々と明かりの灯された街路灯に照らされ、周囲の闇から切り離されたその場所では、見るからに化物然とした異形と、抜き身の刀を握る和装の青年とが対峙していた。
「新手か……?」
異形に対して、手にした武器を油断なく構えながら。とても一般人とは思えない、均整のとれた体つきと恵まれた容貌を兼ね備えた青年は、私たちの姿を視界の端に捉えながら、さも訝しげに呟いてみせる。
私共々、慎重に出方を探るような視線を向けられたイヴはといえば。そんな青年のことなど一顧だにしないまま、何故か逃げ腰の異形をひたと見据えていた。
「今更悔いたところで遅い」
私の体を片手に抱え直したイヴがパチンッとその指を弾き鳴らせば、じりじりと後退りをはじめていた異形の体は、その場に縫いとめられたよう動かなくなる。
「この程度の力もはねつけられない。吹けば飛ぶようなバケモノの分際で、よくもこの子に傷を付けてくれたな」
針金じみた太さの体毛にびっしりと覆われた体は獣のようでいて、二本の後ろ足でしっかりと地面を踏みしめて立つ姿は人同然。
そんな異形の、地面に届くほどだらりと長い腕に備わった鋭い爪――血で染めたかのよう毒々しく赤い、十枚の凶器――が、見えていないわけもないだろうに。イヴは私を連れたまま、異形の間合いへ躊躇いもせず踏み込んでいく。
「私の母から奪ったものを返してもらおう」
無造作に突き出されたその手の平は――ずぶり、と――なんの抵抗もなく、異形の腹部へ沈み込んだ。
そして、絶叫が迸る。
「うるさい」
もしもその身に自由があったなら。きっとイヴの腕を払いのけ、地面をのた打ち回っていたに違いない。
そんな異形の姿が容易く想像できるほど切羽詰まった悲鳴さえ、イヴは心底煩わしげに発した一言でもって、あっけなく封じ込めてしまう。
びりびりと大気を震わせるほどだった異形の叫び声がぴたりと止んでから、暫くの間。深夜の公園には、イヴが異形の腹の中を文字通りに手探る、聞くに堪えない水音だけが響き続けた。
それは、それをされている異形にとっては永遠にも等しい時間だったに違いない。
けれど実際は、ほんの十秒も経たないうち。イヴが異形の腹から引き抜いた手の平には、どくりどくりと規則正しく脈を打つ、一人分の心臓が乗せられていた。
「嗚呼――」
みるからに安堵したよう、ほっと息を吐いてから。緩みかけた表情を引き締めて。イヴは異形の腹から取り戻した肉の塊を、はらりと解けたストールの下――無残に喰い荒らされた、私の胸元――へと押し込める。
すると。あるべきものがあるべき場所へと戻って、ようやく。見るも無残な胸の傷はみるみる塞がりはじめ……ゆっくりと十も数える頃には、綺麗さっぱり、跡形もなくなっていた。
「ねぇイヴ、さむい……」
一度は奪われた心臓が戻ってきた途端、失われていた感覚の多くも戻ってきて。引き裂かれた服の隙間から入り込んでくる外気の冷たさに震えはじめた私の体を、ようやく、なんの憂いもなく破顔したイヴは改めてストールに包み込む。
「もう大丈夫だ」
そのまま、甘えつく猫のようすりすりと頬を寄せられているうちに。長いこと霞がかったようだった頭も、じわじわと正常な思考を取り戻していって。そのうちはたと、我に返った。私の視線は吸い込まれるよう、私たちの傍らで未だ動けずにいる異形へと向かう。
「これ……」
今でも――あるいは、今だからこそ――鮮明に思い出すことができた。
イヴによって身動きをとれなくされた異形。その爪、その口元を赤黒く汚す血の由来。
この異形が私へ与えた、筆舌に尽くしがたい苦痛と、恐怖を。
「どうする、の?」
「生かしておく価値があるとでも?」
私の中でぞろりと鎌首をもたげたどす黒い感情を、まるでわかりきったような顔で。あまつさえ肯定するかのよう、酷薄に微笑んでさえ見せる。
イヴは私の頭をひと撫ですると、その視線を――ひっそりと気配を殺しながら、成り行きを見守っていた――和装の青年へと差し向けた。
「――おい、そこの」
不躾に投げかける言葉は、私に向けるものほど温かくも、異形へ向けるものほど冷たくもない。
「残りはくれてやる」
そう言って、高慢な女を絵に描いたような仕草で顎をしゃくって見せさえした。
そんなイヴの態度を無礼なものと思うような感性の持ち主は、どうやらこの場に私一人しかいなかったらしく。見ず知らずの相手に対してそれはあんまりだろうと肝を冷やした私が戦々恐々見つめる先で、和装の青年は鮮やかな金の双眸を、ただただ不思議そうに瞬かせるばかり。
「いいのか?」
「どれほど腹に据えかねていようと、私にはこいつを殺せないからな」
「そういうことなら……ありがたく」
二人の間で、話はあっけないほど簡単について。異形との距離をすたすたと詰めていった青年は、案山子のよう微動だにしない異形の体を、その手に握る刀で一刀のもとに斬り捨てた。
「――よしっ」
それで、用はすんだとばかり。いそいそと私を抱え直したイヴは、パチンッと指をひと鳴らし。
次の瞬間。私を抱えたイヴは明らかに、深夜の公園ではない場所に立っていた。
「逃げられた……!」
私とイヴが立ち去った、その後で。深夜の公園に一人残された青年が、愕然と声を上げたことなど知る由もない。
◆ ◇ ◆
「ここ、どこ……?」
気密性の高い部屋の扉を閉めた時に似た、ふっ……と空気の閉じる気配がして。一度は闇に閉ざされた視界を、すぐさま灯された照明の眩い輝きが眩ませる。
「お前が母君とよく行く家族風呂があるだろう。あそこの、予約できない露天の方だ」
周囲の明るさに目が慣れるのを待ってから。視線を巡らせてみたその場所は、確かに、何度か利用したことのある貸切温泉の脱衣所とよく似た作りをしていた。
「それって、現在進行形で不法侵入なんじゃ……」
「後始末はちゃんとしておくから、心配するな」
半畳ほどの靴脱場へ私を下ろしたイヴは、思わせぶりにパチンッと指をひと鳴らし。
露見する心配がないならまぁいいか……と、あっさり板張りの脱衣所へ上がってしまえるくらには。私は私で、法令遵守にそこまで神経質な
「――カオル」
出入口の脇。ちょうど私の肩くらいの高さに取りつけられた機械へイヴが手をかざすと――チャリンッ――本当は、受付で利用料と引き換えに貰うコインの落ちる音がして。湯船のある脱衣所の外から、ばしゃばしゃと勢いづいた水音が聞こえはじめる。
「どうせもう着られないんだ。縁起の悪い服は、さっさと処分してしまおうな」
私を腕から下ろしても、絶対に離そうとしなかった手を引いて。引っ張り戻した私の体を、腕の中へ囲い込むよう壁へと押しつけた。イヴはもっともらしいことを言いながら、私の体から巻きつけていたストールと、もう服とも呼べないような状態のシャツを、一枚ずつ丁寧に剥ぎ取っていく。
足元に落とされたストールはそのまま。一方で、イヴの手でその背後――私の正面――へと投げ捨てられた血塗れのシャツは、床へと落ちるより早く空中で青白い炎に焼かれ、灰の一つも残さなかった。
「イヴ?」
私が燃え上がるシャツに気を取られているうち。腰を落としたイヴは壁に押しつけた体をそのまま僅かに持ち上げて、私の一糸まとわぬ胸元へ、ぴたりと耳を押し当ててくる。
「少しだけ……」
普段は意識することもない、心臓の鼓動を聞かれているのだと気がついて。私は、自然と腕の中に収まっているイヴの頭を抱きしめた。
「ちゃんと動いてる?」
「あぁ」
それから少しして、顔を上げたイヴは無邪気な笑顔を満面にたたえていて。両手に持ち上げた私ごと、その場でくるりくるりと数回転。
「ちゃんと生きてる」
幼い子供のように振り回された私は、なんとなく生ぬるい視線を、喜色満面のイヴへと向けてしまう。
「よかったね」
照れ隠し、というやつだった。
◆ ◇ ◆
特筆すべきことのない、いたって健全な入浴を終えて。イヴがパチンッと指を弾き鳴らせば、あら不思議。瞬き一つする間に周囲の景色は一変して。次の瞬間、私たちはなんともお手軽な帰宅を果たしていた。
「私は後始末をしてくるから、先に布団を温めておいてくれ」
何故か同衾前提の科白を、私の耳元でやたらと婀娜っぽく囁いたイヴは、返事も待たずに――パチンッ――指をもうひと鳴らし。その姿をふつりと掻き消してしまう。
「まぁ……いいんだけどね、別に」
ぽかぽかと体を温める温泉効果が残っているうちに。手早く寝支度を整え、潜り込んだベッドには先客がいて。普段は抱き枕代わりにしている特大サイズのぬいぐるみを、私はやむを得ずベッドの外へと投げ出した。
◆ ◇ ◆
「――なんだ、お前が追い出されたのか」
少しして。なんの前触れもなく、部屋の中へ直接戻ってきたイヴは、ソファへ居場所を移したぬいぐるみに――何故か優越感たっぷりの表情で――声をかけてから、いそいそと私の隣に潜り込んでくる。
「さすがに狭いな」
「このベッド、シングルだし」
「もう少し下がれるか?」
「んー……」
二人してごそごそと収まりのいい場所を探して。結局、今日のところはお互いに抱き合って眠るような形に落ち着いた。
ベッドのサイズと布団の都合で、それ以外の選択肢がなかったとも言う。
「おやすみ」
「おやすみ、イヴ。……目覚まし鳴ったら起こしてね」
「あぁ」
二人の間に隙間を作らないよう、しっかりと回された腕の中。目を閉じた私は、とくりとくりと聞こえてくる鼓動の音を子守唄代わりに、深い眠りへ落ちていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます