第3話-拾う側の身にもなれよ。
久しぶりにゆっくりと眠れた朝は、いつもよりは身体が軽い気がした。怠いことに変わりはないが、少しだけマシか。
「仕事行きたくないな」
着替えながら呟くと、肩が急に重くなる。メイクを終えリビングに向かうとテーブルの上にはノートの切れ端があった。丁寧な文字で病院名と電話番号がいくつか記されている。
「昨日のあれ、本当だったんだ」
紙を手に取りしばらく茫然と眺める。
「あ、もう出なきゃ」
慌てて紙を畳むとスーツのポケットに突っ込み、パンプスを引っかけ、私は部屋を飛び出した。
駅のホームで並んで列車が来るのを待っていると、空は晴れているのに何故か妙に暗い気がした。列車がホームに滑り込んでくるのを見て、思わずため息をつく。どう見てもすでに満員のこの列車に、力づくで乗らなきゃいけないのか。正面突破は無理なので、背中を向けすでに乗っている人々を押し込むように列車に乗り込むと私の目の前で列車のドアが閉まった。
いつもの見慣れた車窓からの景色はビルばかりで味気がない。景色を見ることを諦めてドアにかけた自分の手を見る。もう長いこと手入れをしていないので若干爪が欠けていた。そういえばあの死神の手って綺麗だったな、とふと思い出す。節のないすっと伸びた長い指。
急にお尻に違和感を覚え私は現実に引き戻された。明らかにこれ故意に触ってるだろ。他人様の尻勝手に触ってんじゃねーよと心の中で抗議するが、ぎゅうぎゅう詰めの列車の中では振り返ることすらままならない。数駅の間耐え、やっと目的の駅に着くとすぐに列車から飛び出す。
「なんだよ」
身動きもままならない満員電車で痴漢に遭って、なんでこんな思いをしてまで出勤しなきゃいけないんだよ。会社に行ったって同僚の足手まといになるだけだし。
「4番ホームに列車が到着します。白線の内側まで下がってお待ちください」
無機質な女の声のアナウンスが聞こえた。階段に向かいかけた足が止まる。つと踵を返しホームに引かれた白線を踏む。いっそこのまま。
もう一歩足を踏み出そうとした、その瞬間。襟首を掴まれ息が詰まる。
「人間ごときが何勝手に死のうとしてくれちゃってんの?仕事増やさないでくんない?」
振り返ると、黒いスーツのあの男が醒めた表情で蔑みの視線を投げて寄越した。私の襟首を掴んだまま、白線の内側までぐいっと引っ張る。男に引っ張られてホームの内側まで数歩歩くとやっと彼は私の襟首を離した。けほっと軽く咳き込むと男は私の背中をさすりながら言う。
「だからさ、死に時じゃない人間に勝手に死なれるとこっちも困るって昨日言ったじゃん。学習能力ないんですかテメーは」
男は私の手首を掴み駅のベンチへと引っ張っていく。引かれるままついていき、並んでベンチに座った。
「列車に飛び込んだらどんだけの人に迷惑かけるかわかってんの?遺族に損害賠償請求いくよ?しかも死体なんて惨いよ?拾う側の身にもなれよ」
「そっちの心配かよ!」
思わず突っ込むと男はぺしりと私の頭を軽く叩く。
「あんまり大きな声出すなよ。俺のこと見えてんのお前だけだし。不審者扱いされるよ?」
思わずがっくりと肩を落とす。
「昨日のメモ、ちゃんと持ってる?」
無言でポケットから折りたたんだ紙を取り出して見せると男は仏頂面で頷いてみせる。
「とりあえず休み取れ。有休くらいあんだろが。そんでもって病院予約しろ」
「わかったわよ。でも上司に相談しなきゃ」
「おう、とっとと行け。余計なこと考えないで有休もぎ取れ」
頷いておかないと解放されなさそうなので、男に向かって頷いてみせる。そして余計に重くなった肩を落としながら私は会社に向かった。
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