私と死神とあれやこれ。

夏目泪

第1話-人間ごときが何勝手に死のうとしてくれちゃってんの?

 死神。それは死を司る存在として一般的に知られている。私もそういう認識だった。しかしながら、普段の生活において死神なんて存在を意識することはそうそうないわけで。

 これは、自らを死神と称する、とある男と私の出会いから始まる、私も結末を知らない物語。


 

 浴槽にブルーシートを敷き詰める。いつ発見されるかわからないので、後始末をしてくれる人へのせめてもの気遣いだ。できればまだきれいなうちに見つけてほしいものだが、一人暮らしだから誰がいつ見つけてくれるかなんてわからない。まだ寒い日が続いているから、数日は大丈夫だろう。というか大丈夫であってくれ。死んだあとのことなんて自分ではわからないとはいえ、ドロドロになった自分なんて想像したくない。

 風呂場の配水管にロープを括り付け、首にかける。首を吊るのにそんなに高さはいらない。バスタブの縁に腰掛けてふっと息をつく。さぁ、このままバスタブに滑り落ちれば仕上げは完了だ。

 どうしてこんなことをしているのだろう。上司はムカつくし、同僚にはイラつくし、彼氏いない歴イコール年齢だし、もう2か月くらいろくに眠れていない。朝、ベッドから身体を引きはがすようにして起き上がってどうにか出勤して、一日中続く頭痛に疲労感。そんな日々に、徐々に降り積もる存在への罪悪感。

 きっかけは些細なことだったと思う。ちょっとした書類の作成ミス。何気ない上司からの一言。同僚が群れて笑っているとき、自分を見ているような気がした。

「なんかもう、疲れたな」

 ふと呟いたら、自分がここにいることの意味がわからなくなった。仕事を終えるとホームセンターに寄って丈夫そうなロープを数メートルとビニールシートを買って誰も待つ人のいない暗い部屋に帰った。パチンとスイッチが軽い音を立て、青白い灯りが部屋を照らす。物の少ない生活感のない部屋はどことなく肌寒い。

 スーツを脱いでお気に入りのワンピースに着替え、化粧を直す。これから死のうというのに、いや、これから死のうというのだからこそ、綺麗にしたいのだ。

 軽く部屋を掃除して、不要な書類をシュレッダーにかける。部屋を見回しやり残したことがないか考える。

「もういいや」

 ぽつりと呟くと浴室に向かった。ホームセンターで買ったブルーシートを浴槽に丁寧に敷き詰める。配水管にロープを括り付け、どう首を吊るかシミュレーションする。浴槽にお尻が付かない程度にロープの長さを調整し終えると首にロープをかけた。

 バスタブの縁に腰掛けて数分、ぼんやりと浴室の天井を見上げる。ふうっと長く息をついて目を閉じ私はバスタブに滑り落ちた。ロープがきゅっと締まる。

 シャキン、と次の瞬間小気味よい音がしてバスタブの底に尻餅をつく。

「へ?」

 予想外のことに思わず変な声が出た。閉じていた目を恐る恐る開く。バスタブ横の洗い場に影が見えて思わずそちらを見る。

「人間ごときが何勝手に死のうとしてくれちゃってんの?仕事増やさないでくんない?」

 大きな植木鋏を持ってしゃがんだ黒いスーツの若い男が私に醒めた視線を投げて寄越す。そして植木鋏を床に置くと、私の首に絡むロープを面倒くさそうにほどきながらブツブツと何か呟いている。

 なんだこれ。人間ごときって。

「ほれ、口開いてんぞ。間抜けヅラ晒してないでとっとと立てよ」

 言われるがままにバスタブから出ると、男はブルーシートを丁寧に畳む。

「はい、これら没収ね」

 男は背中に斜め掛けにしていた黒い大きなドラムバッグにロープとブルーシートを仕舞うと、片手に植木鋏、もう片方の手で私の手首を掴むと浴室を出てリビングへと向かった。

「座れ」

 男はソファを指さし、顎をしゃくってみせる。有無を言わせぬ雰囲気に押され、何も言えずにソファに座ると男は私の正面に仁王立ちになって腕を組む。

 なんなの、この人。ってかどうやってうち入ってきたの。蔑むような眼差しが怖いんですけど。

「あの、どちら様…でしょうか」

 やっと口を開くと男は深くため息をついた。

「たかが人間ごときが余計な仕事増やしてくれちゃうとさ、こっちも迷惑なんだよね」

「す、すみません」

 たかが人間て。あんた何様なの。

「あのさ、どんな生き物にも寿命ってもんがあるのはわかるよね?」

 男の面倒くさそうな問いにおずおずと頷く。

「その決まっている寿命を勝手に縮められるとね、こっちも困るわけ。こんな勝手なことすんの、人間くらいよ?」

「えっと。ごめんなさい」

「謝ったら済むと思ってんの?担当地域でまだ死に時じゃない人間に死なれると査定に響くんだよ。死神にも都合ってもんがあるの」

 死神?今、死神って言った?

「んあ?なんだよ」

「死神ってなんかもっとこう」

 黒いフードとか被ってでっかい鎌持っているんじゃないんですか。どう見ても若いサラリーマン風なんですけど。ノーネクタイってまだクールビズには早いし。しかもさっき使っていたの植木鋏だし。

「イメージ古いんだよ。ってか貧相」

 あまりの言いように思わず額に青筋が引き攣るのがわかる。

 男は植木鋏をドラムバッグに仕舞う。バッグより植木鋏のほうが明らかに大きかったのに、それはなんの違和感もなく収納された。

「コーヒー」

 男がまた面倒くさそうに言う。

「はい?」

「客にコーヒーくらい出せよ」

「あ、はい」

 勝手に現れておいてコーヒー淹れろとかどんだけだ、こいつ。また顔が引き攣るのがわかるが、とりあえずキッチンに立って湯を沸かす。

「インスタントじゃなくてちゃんと淹れろよ」

 もはや脱力してしまう。ちゃんとコーヒー淹れるのなんて久しぶりだな、とふと思う。ドリッパーにペーパーとコーヒー粉をセットして丁寧にお湯を注ぐとキッチンにふんわりと芳香が立ちのぼる。二人分のコーヒーをカップに注ぎリビングのテーブルに置くと、いつの間にかソファに腰掛けていた男は一口啜って頷いてみせた。

 男が自分の隣をぽんぽんと無言で叩くので、おとなしく男の隣に座り私もコーヒーを飲む。

 あぁ、美味しい。そう思うのは久しぶりだった。一口、二口とコーヒーを黙って飲み続ける。昂ぶりと落ち込みの入り混じった気持ちが落ち着いていくのがわかる。

 私の隣にいる死神を自称する男がふいに私の頬を撫でた。

「泣いてんじゃねーよ」

 いつの間にか私の目からは涙が零れ落ちていた。それを自覚するともう、涙は止めようもなくただただ溢れては頬を伝っていった。

 男は溜め息をつくと私の頭を抱き寄せ、自分の肩に載せ私の髪を撫で始めた。

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