第十五章 カタルシス

 20マイレン(約32キロメートル)を駆け抜けたとき、馬が疲れ切っていることに気づいてマリア達は馬を止めて近くにあった町へ寄った。先の寄った町を出てからずいぶんと時間が経っているらしく、辺りはすっかり夜になっており、明かりすら無い小さな町では足下も見えず唯一見える明かりは宿屋の扉から零れるわずかな明かりだけだった。

 何とか宿にたどり着いて馬を宿の者に預け、宿の中へ駆け込み、部屋を開いているか尋ねると宿の主人はうさんくさい笑顔を浮かべながら開いていると答え、一泊に1マルクと答えた。ソロモンが思わず眉を潜めていると宿で働かされているであろう少女が主人より1クラフタ(約1.8メートル)離れたところで聞いていて何か言いたそうに口を開けば、宿の主人が一睨みした。少女は何も言えなくなり口を噤めば宿の主人はそれ以上、少女に何も言おうとはせずソロモンと再び向き直る。

 ソロモンは半ば仕方ないといった様子で1マルク銀貨を宿の主人に渡せば宿の主人は目を輝かせつつ、夕食はいかがですかと問いかけてきた。確かに、疲れていたし食事を取りたいことを告げれば宿の主人は食事代に50ペニヒを要求する。少女はやはり何か言いたげにマリア達と宿の主人のやりとりを聞きつつ、暖炉の中にたまった灰を火かき棒でかきだしている。

 マリアがぼんやりと自分より幼そうなその少女の方を見つめているとレジーに声をかけられ、椅子に座った。皆もすでに着席しており、食事が運ばれてくるのを待っていた。その間もマリアは、少女のことが気になってしまうのか少女の方をじっと見つめてしまう。


「気になりますか」


 ソロモンに問われ、マリアは誰のことを言っているのかすぐにわかればコクリと頷いて「うん」と宿の主人には聞こえないような小さな声で答える。すると、宿で働いている女がマリア達の前にスープやパンを運んできた。

 ベスビアナイト国では定番のカルトッフェルズッペ(ジャガイモのスープ)に食べやすいようにスライスされたヴァイスブロート(白い大型パン)が机の上へ置かれ、カルトッフェルズッペの香りがふわりと舞い上がる。良い香りだと思ったけれど、スプーンで一口すくってみれば冷たい部分もあって慌てて温め直したスープといった感じを受け、マリアは少し落胆してしまう。とりあえずも食事を終えて泊まる部屋へ少女が案内してくれた。

 案内されている最中、マリアはまじまじと少女を見つめる。明らかにみずぼらしい身なりで破れていたり、ほつれていたりしている上に常日頃から暖炉の掃除などをしているためか灰だらけになっている。靴も靴下も履いておらず、足は汚れていた。先ほど、食事を運んできた女性はそれなりの服を着てちゃんとした靴も履いていたというのに、この違いはどこで出るのだろうとマリアは疑問に思いながら少女をじっと見つめていた。


「ごめんなさい、本当なら案内の人が別にいるんですけど今日は休んでいて」


 どうやら、少女はマリアがじっと少女の方を見つめる理由を勘違いしているようであった。マリアは「いいや」と言ってから出来るだけ優しく言葉を紡いだ。


「君のことが気になってしまって。不躾ながらわたしに名を教えてはくれないか」


「ビアンカ……ビアンカと言います」


 控えめながら答えた少女ビアンカは、少しだけ頬を緩ませてマリアを見つめた。顔は煤で汚れていたけれど、その緩ませた頬はあたたかい笑みを浮かべており、可愛らしい年相応の無邪気な笑みにマリアには見えた。


「ビアンカというのか。よい名だな」


 マリアの言葉にビアンカは、くすぐったそうな表情を浮かべて頬にほんのりと赤みが差す。マリアはつられて笑みを浮かべると部屋についてしまったらしく、五つ部屋を示されて各部屋二つずつベッドがあることを告げ会釈をすればビアンカはパタパタと階段を駆け下りる。まだ仕事が残っているのだろう。

 マリア達はビアンカの背中を見送り終えた後、部屋を決めることにする。最初、王族であるマリアを一人部屋にしようと思ったが、もしもの時のためにとエリスが同部屋になった。それから、ソロモンは一人が良いと言い一人部屋でレジーとギルが同じ部屋。女同士であるクレアとジュリア、男同士と言うことでダミアンとクライドが同じ部屋という割り振りとなった。

 小さな宿であるし、客はマリア達以外はいないようだったので部屋の場所がばらばらにならずに済んだ。

 そのあとは、ソロモンが話があると言うことで一度、皆をマリアの部屋に集めた。周りに人がいないのを確認してから、ソロモンが口を開く。


「姫様、先ほど不思議に思うことはございませんでしたか」


「あのビアンカの身なりのことか?」


 マリアの言葉にソロモンは「それもですが」と言ってからお金のこともだと言葉を紡ぐ。


「このような民宿で1マルクもお金を取るなんて、ぼったくりもいいところですよ」


 告げてから、食事代に50ペニヒも高いとも告げる。マリアには、お金の物価というものがいまいちわからなくて目を瞬かせてしまう。ソロモンは、下女の月給が3マルクで考えるよう言った。マリアが首をもたげていると民宿ならば、6ペニヒぐらいで夕食は3ペニヒぐらいだと告げる。


「そうなのか」


「ええ、普通はそんなもんです。宿の主人は、こちらの身なりを見て金を持っていると判断してとんでもない高値で言ってきたのですよ」


 さして悔しげでも無さそうにソロモンが言えば、マリアはふと前にギルが麦酒に2マルク紙幣と50ペニヒ硬貨を払っているのを思い出して、疑問を口にすればすんなりと答えてくれた。


「あれはいいお酒ですから、そんなものだと思って下さい」


 ソロモンの言葉に納得してこくりと頷き、話の先を促すと言葉を続けた。


「普通の民では、1マルクなんてなかなか手に入れられない代物です。普段はペニヒを使います」


「なら、ソロモン。なんでわかっていて、そう言わないんだ」


 マリアがそう問いかければ、ソロモンは小さく笑うと疲れていて早く休みたかったと告げる。それから、民にお金が回るようにした方が良いのだと言った。


「そうなのか」


「ええ、そうです。お金は消えるのでは無く、巡回するものですから。お金を持っている者が使わなくては、世にお金が回らずお金の流れをせき止めてしまう」


 そう告げたソロモンの言葉は、やはり的確でマリアにもよく理解できた。ソロモンの言葉をかりるならばお金を持っている者がお金を使わないと民にもお金が回らず経済が悪くなってしまうのだろう。


「なるほど、ならばお金を使った方が景気は良くなると考えて良いのか」


「ええ、そうですね。これもいわゆる“経済学”ですよ」


 どこか面白そうにマリアは思わず身を乗り出してしまっていた。そんな様子のマリアをソロモンは苦笑いを浮かべてなだめると告げる。


「それから、姫様が気にしていらっしゃったあの少女、おそらく不当に働かされているように思われます」


 やはりと呟いてマリアは拳を作ると、顔を上げてソロモンに問いかけた。


「どうにかしてあの子を救い出せないだろうか」


 感情の読めない表情を浮かべてソロモンは、「やはり」と心の中だけで呟く。マリアの様子から薄々、そう言うのでは無いかと勘づいてはいたが、その嫌な勘は当たっては欲しくは無かった。けれど、見事に的中してしまいソロモンはめまいすら覚える。あの“悪知恵”だけは働きそうな宿の主人を説得して少女を引き取るなど到底、出来そうに無いと思ってしまうし、何よりただ一人の少女を救うなど貴族にばれれば王族に反発する勢力まで産まれそうだ。民からも何かしら、反発されるに違いない。否、もうすでにそれは避けられないかもしれない。それならば、救った相手が一人増えようとも関係の無いことだ。


「姫様、ひとつ確かめさせてはくれませんか」


 ソロモンは静かに問いかけてゆるやかに跪けば、マリアは驚きつつも頷き先を促す。


「なぜ、あの少女を救いたいと思うのですか」


 マリアは目を瞬かせる。ダミアンは怒気のこもった声色で「お前!」と、ソロモンにつかみかかろうとしたがエリスが止めた。あくまで主君に問いかけたのだから口をはさむなと、エリスは言いたげにダミアンを睨み付けた。それでもなお、何か言いたげにしていたが渋々と口を噤みマリアを見つめる。その視線を受けながら、マリアはまっすぐにソロモンを見据えて柔らかい表情を浮かべると言葉を紡いだ。


「わたしはわがままであるから、この目に映る全ての者を救いたいと望んでしまう。もちろん、ソロモンも。お主が望むのなら、いつだってお主を救ってみせるよ」


 出来ることはあまりないけれどとマリアは、さらに言葉を続ける。ソロモンの瞳は大きく見開かれ、次の瞬間には優しい視線に変わっていた。


「それは、またの機会にお願いするといたしましょう。今はあの少女を救うことを考えましょう」


 ソロモンは立ち上がると少女のことを救うためには、調べなくてはならないと言い、クレアならビアンカも話しやすいだろうと話をしてくるよう伝えれば喜んで引き受けて部屋を出て行く。それから、あとはクレアに任せようと皆はそれぞれの部屋へ戻っていった。

 マリアはベッドの上へ座ると、何やら考え込む。不思議に思ってエリスが、マリアに問いかけると意外な答えが返ってきた。


「ビアンカの事情も知らないで助け出すなんて言っちゃったけど、ビアンカにはビアンカの事情があるはずだよね」


 言うことも理解できるが、宿の主人に虐げられている少女がマリアの手を取らないと到底思えなかった。守人である贔屓目と言われても仕方が無いが、少なくともエリスには思えず、「確かにそうですが」と言って言葉を紡ぐ。


「あの少女が今の現状を良しとしているようには、僕には思えません」


 マリアの背中を押すように、エリスが言えば「ありがとう」と答えるとぎゅと手を握り締めたあと、ペンダントの石をしきりに押さえていた。

 自分の考えに自信が持てないときに、マリアのする仕草であることをエリスは知っていた。その仕草をしながら、誰にも聞こえない小さな声でレイヴァンの名を呼ぶことも。

 マリアの中でレイヴァンがどんな存在か分かってはいるけれども、やはり寂しく思ってしまう。そのとき扉がノックされてエリスが出ると、クレアが立っていた。どうやらビアンカから話を聞き出すことが出来たようなので三人は、ソロモンの部屋へ向かった。

 ソロモンに部屋の中へ入れてもらうと、クレアが小さな声で言葉を紡ぎ始める。宿の主人に聞かれるのを危惧してのことだろう。


「ビアンカのことですが、数年ほど前にこの宿に預けられたんだそうです。何でも、母親は産まれてすぐに亡くなって父親に連れられてきたとか」


 ソロモンがビアンカの父親のことを聞けば、クレアは首を横に振り「わからないそうです」と答えた。知り得たのはここまでのようだ。どうにかしてビアンカの父親のことを聞けないだろうかとマリアが考えていると、扉がノックされレジーが入ってくる。相変わらずの飄々とした顔にマリアは、ビアンカのことを話した。もしかしたら、“風”が何か教えてくれるかもしれないと期待を込める。けれども、レジーの口からはそんな答えは返ってこなかった。


「そうなると、ビアンカをこの宿から引き離すのは難しいね」


「そうだな」


 ソロモンは返してからマリアの方を見つめ、ビアンカの様子を伺ってみることにしようと提案してもう寝ることにした。

 それぞれの決めた部屋へ戻りベッドの中へ入ったけれど、マリアは寝付くことが出来ずとうとうベッドから抜け出して上着を羽織ると部屋を出た。エリスが起きていればマリアについて行ったであろうが、この日は疲れ果てておりぐっすりと眠り込んでしまっている。眠っている人を起こそうなどとは、考えないマリアであるので護衛も付けずに部屋を出たのだ。

 階段を下りて一階へ下りれば、階段下の小さなスペースに藁を敷き詰めてビアンカが眠っていた。相変わらずの身なりに先ほどよりもさらに煤汚れている素肌は、見ているこちらが見ていられないと思うほどだ。貧民街スラムで見た少女よりも見窄らしい身なりであるから、何かあるに違いないと誰もが思うであろう。けれど、彼女に手を差し伸べるほどの金を持っている人は現れず、皆が見て見ぬふりをしてきたのではなかろうか。上流階級の者がまず、このような民宿に泊まることなどないだろうし、泊まったとしてもビアンカを煙たがるかも知れない。

 思わずじっとマリアがビアンカを見つめていると、閉ざされていた瞼が開かれて、水宝玉アクアマリンの目がのぞく。


「すまない、起こしてしまったか」


 マリアが言えば、寝ぼけなまこであった瞳から冴えたように大きく目が見開かれて立ち上がった。ごめんなさいと謝られて、困りながらも落ち着くようにいい真夜中であるこをを告げる。ビアンカは目を瞬かせた後、ほっと息を吐き出した。


「はあ、良かった。寝過ごしたりしたら、おじさんに怒られるところだった」


 マリアが起こしてしまったことをもう一度謝ると、ビアンカは気にしていない旨を伝えてにこりと微笑む。笑顔に困惑の色をうかべてしまう。


「君は、いつもここで寝ているの?」


「うん、あたしの部屋は無いし、ベッドも無いから。それにここで寝るようにおじさんに言われているの」


「おじさんって、この宿の主人?」


 マリアが問いかけると、ビアンカはコクリと頷いて肌をさする。そういえば、ビアンカの服装は薄い布であるし、破けているから夜は凍えるのだろう。

 マリアは着ていた外套を脱いで、ビアンカにかけてやれば笑顔を浮かべて出来るだけ優しい言葉をかけた。


「さすがに夜は冷える。女の子が体を冷やしたら、いけないよ」


 呆然としてビアンカがマリアを見上げていると、背後からにゅと影が差す。揺らめいたかと思えば、影の主がマリアの肩を抱きしめる。青い瞳が見開かれたけれども、耳元で囁かれた声ですぐに誰かを理解した。


「王子様も夜中なんですから、体が冷えてしまわれますよ。それに共もつけずに部屋を出るなど危のうございます」


「ギル!」


 名を呼んで少しだけ振り返るとギルに肩を抱かれており、赤面しつつマリアは腕を優しくふりほどいた。


「宿の外へ出たわけでは無いのだから、いいではないか」


「いけません、何があるかわからないのですから」


 マリアの言葉にギルが返したとき、目を瞬かせていたビアンカが我に返ってぼそりと言葉を紡ぐ。


「王子様なのですか?」


 どきりとしてマリアがギルを睨んだけれど、なんてこと無い表情を浮かべて口元には笑みすら浮かべている。それから、ビアンカと目線を合わせると人差し指を立てて「秘密」と言った。仕草がビアンカから見れば、大人っぽくてどこか艶めかしく感じ、ぽうっと頬を赤く染めてしまう。その後、小さな声で「はい」と答えたあとにマリアからかりた外套をたたんで渡すと「これ、お返しします!」と言った。


「でも」


 言いよどんだマリアにビアンカは見つかったら怒られると言い、そのまま藁の上へ寝っ転がった。困ったように立ち尽くすマリアにギルが「寝ましょう」と言えば、マリアはしぶしぶと頷いて部屋へ戻ってベッドの上へ寝転んだ。うとうととまどろみの中へ誘われながらも頭の中では、ビアンカの笑顔が占領していた。



 窓から零れる春陽にあてられ、マリアの意識は覚醒してゆっくりと体を起こせば暖かな光をすぐ近くで感じる。もう一つのベッドを見れば、エリスはすでに起きているらしくベッドの上に寝具がきれいにたたまれていた。エリスらしいとくすりと笑った後、下へ降りようと部屋を後にすれば、そこでちょうど欠伸を噛み殺しているソロモンとばったり会い声をかけた。


「おはよう、ソロモン」


「おはようございます、ひめ……クリス様」


 ソロモンが珍しく言い間違えていたのが何だか楽しく、笑みを浮かべて下へ降りれば守人達はすでに起きて椅子に座っていた。


「みんな、やはり早いな」


 マリアが声をかけるとエリスが、駆け寄ってきて「習慣です」と答えた。良い習慣だなとマリアが口にした時、ビアンカがバケツいっぱいの水を汲んで宿へ戻ってきた。それを見たマリアはすかさず「これをどこまで運べば良い?」とバケツに手を伸ばしたがビアンカは首を横に振ってそれを拒絶する。


「お客様の手をかりたら、おじさんに怒られちゃう」


 言われればマリアも手を引っ込めるほか無く、「気をつけて」と言葉を紡げばビアンカは花を咲かせるように満面の笑みを浮かべてせっせとバケツの水を運んだ。けれど、宿の奧から聞こえてきたのは宿の主人の罵声を浴びせる声だった。


『水を持ってくるのにどれだけ時間をかけているんだ』


 マリアは思わず拳を握りしめると、手にエリスが自らの手を重ね合わせてこくりと小さく頷く。やがて、食事が運ばれてきてマリア達が食事をしていると宿の主人が現れて声をかけてきた。


「どうですかな、我が宿は。おくつろぎいただけましたか」


 マリアが思わず眉を潜めたが、ソロモンは宿の主人の視線をこちらへ向くように「ええ」と答え、どこか不敵な笑みを浮かべて見せた。


「夜は寒いですからなあ、どうも旅をしているとベッドが恋しい。ところで、あの少女はどうしてあのような格好を? 他の従業員はそれなりの格好をしているのように見受けられるのですが」


 宿の主人はつまらなそうに「父親から預かっているが、その父親が教育費も払わないから少女に働かせている」と告げる。宿の主人の言葉は理にかなっているようにも思われたが、マリアはどうも納得いかない。


「では、もう少しここに泊まっていってもよろしいですかな」


 マリアの意を汲んでソロモンが言えば、宿の主人は嬉しそうに奥の部屋へと入ってゆく。ソロモンはマリアの方を見つめて、満足するまでここにいましょうと言った。ありがとうと告げて、凛とした視線をソロモンに投げた。

 食事を終えた後、マリアがエリスを共に連れて外へ出るとビアンカが桶に水を張って洗濯物を洗っていた。近寄ってみれば、ビアンカの指はあかぎれしており見ているこちらが痛ましく思うほどだ。


「これでは痛むだろう、すぐに手当を」


「いえ、大丈夫です」


 マリアの言葉にビアンカが応えたとき、ビアンカのお腹から音が聞こえてきた。マリアがお腹空いているのかと問いかけるとビアンカは小さく頷いたのでエリスがカバンに入っていたカイザーゼンメル(王冠の形をしたパン)を渡せばビアンカはパッと笑みを浮かべて喜び、手を水で洗ったあとカイザーゼンメルを頬張る。


「もしかして、ろくに食事も与えて貰っていないのか」


 マリアが問いかけるとビアンカは小さな声で呟いた。


「仕方ないの、お父さんがおじさんにお金を渡していないって言ってたから」


 それを聞いてマリアは少し、考えた後にビアンカに「なら、わたしたちと一緒に来ないか」と問いかけてから今までのお金も全部支払うからと言葉を紡ぐ。ビアンカは驚いたように水宝玉アクアマリンの瞳を見開いて、その瞳に希望を宿していたがすぐに首を横に振る。


「お父さんが来てくれるまで、ここを離れられないから」


 そうか、と残念そうにマリアが呟いたとき。ビアンカは宿の主人に呼ばれて去って行った。その背を見つめていると、エリスが問いかける。


「これから、いかがいたしましょうか」


「そうだね、ビアンカはここを離れるつもりは無いのだし。無理に一緒に連れて行く必要は無い」


 答えたマリアの言葉は重い。頭では理解していても、納得はしていない様子のマリアをエリスはじっと見つめていれば、シーツを抱えたビアンカが外へ出てくる。そんなビアンカにソロモンが何やら声をかけて、しばし話した後、ビアンカはマリア達の元へ戻ってきた。


「お手伝いしましょう」


 エリスがビアンカに申し出るとやはり、首を横に振ったがエリスが問答無用でビアンカの仕事をしたためにビアンカはただ小さな声で「ありがとうございます」と言い、エリスと共にシーツを洗い始めた。マリアも手伝おうとしたけれど、それはエリスに止められて仕方なく宿へ戻れば、そこでは宿の主人とソロモンが何やら話し込んでいる。不思議に思いマリアは少し離れた席に座って二人の会話を聞くことにした。


「あの子の今まで貯まっている養育費を払ってくださればもちろん、連れて行かれてもかまいませんよ」


 宿の主人が言えば、ソロモンはいくらだと尋ねる。宿の主人は少し悩んだあとに350マルクと答えた。マリアにはお金の計算も出来ないし、物の相場というのもわからないのでよく分からないが下女の月給が3マルクという言葉を思い出して「高いんだなあ」ぐらいにしか感想を抱かなかった。

 ソロモンは机の上に100マルク紙幣を三枚と50マルク紙幣を一枚置けば、宿の主人はソロモンの財布を見て目の色が変わる。宿へ来たときもお金をかなり持っていると践んでいたが財布が分厚いのを見てとり、まだかなり金を持っていると考えたのだ。


「そういえば、あの子の薬代もかかっているんだった」


 ソロモンがオウム返しに呟くと宿の主人は、「ええ、そうです!」と大きく頷いて500マルクかかっているのだと告げる。


「一体、何の薬ですか」


「あの子、病気がちでねえ。よく風邪をこじらせるんですよ」


 宿の主人の言葉にソロモンがもっとよい服を着せた方が良いや食事を与えれば良いと告げれば、宿の主人は言葉に詰まり目を泳がせ始める。


「それに聞いた話では、2マイレン(約3.2キロメートル)先の川まで毎日、水くみへ行かせているとか」


 あんな薄着でそんなことをさせていれば風邪も引く、とソロモンは言った。もしや、先ほどソロモンがビアンカに聞いていたことはそのことか、とマリアは合点がいく。共にふつふつと胸の奥から何かがこみ上げてくる。

 宿の主人の言葉を聞いているとむかむかしてきて、マリアは宿の外へ出た。宿の裏手側から何やら音がするのが聞こえてきて、そちらへ足を向ける。恐る恐るといった調子でそこへいくと、従業員の女が火をたいて何やら紙を焼こうとしていた。何気なくマリアがそれを止めて、紙を見てみるとそれは手紙のようで文面には『今月分の養育費です』という言葉と共にビアンカの名前が書いてあり、これがビアンカの父親から宿の主人への手紙だというのが見て取れた。さらに地面に落ちている紙を拾い上げるとそれも、ビアンカの父親からのもので一番日付の近い物を見れば、そこにはビアンカの父親が勤めている会社の者からの手紙で『ビアンカの父親が亡くなった』ということと『うちで引き取りたいから連れてきて欲しい』という旨が書かれていた。


「お、お客様が見るようなものでは……」


 紙を奪い取ろうとする女を押しのけてマリアが、宿へ入れば宿の主人とソロモンが驚いたように見つめていたが、ソロモンの視線がマリアの持っている紙に移る。


「これは、どういうことなんですか」


 マリアが言って宿の主人に紙を見せたが、宿の主人は文字が読めないのか「それがどうかなさったのですか」と問いかけてくる。ソロモンは不敵な笑みを浮かべた後、文面を読み上げた。宿の主人は明らかに動揺して冷や汗を浮かべる。


「あなたはビアンカの父親から、お金を受け取っていないと言った。なのに、この紙には渡したと書いてある。どういうことなのか説明していただけますかな」


 ソロモンが問いかけると宿の主人は狼狽して口をパクパクさせているが、言葉になっていない。さらにマリアが宿の主人に最後に送られたと思われる手紙を見せ、ソロモンが読み上げたとき、ビアンカが宿に戻ってきた。


「お父さんが?」


「そうだったんだよ、ビアンカ。君はもうここにいる必要は無い。この手紙をくれた人の元へ行くべきだ」


 宿の主人は焦って机の上に出されていた100マルク紙幣を三枚と50マルク紙幣を取ろうとしたが、その前にソロモンが財布にしまい込むと告げた。


「そういうことなら、我々がお連れしましょう」


 マリアは大きく頷いてビアンカに手を差し伸べれば、ビアンカは飛びつく勢いでマリアの手を取った。そのとき、ビアンカは心のおりが消えていくような感覚を感じるとともに胸の奥が喜びで満ちる。

 マリアがそんな様子のビアンカを連れて外へ出れば、ソロモンも出て行こうとしたがその手前で宿の主人を振り返り、「お世話になりました」とだけ言って外へ出た。


「しかし、旅をするにはその格好はあまりに寒すぎる。……エリス」


 ソロモンが呼べばエリスがどこからか出てきて、ビアンカの服を見繕うように言われればこくりと頷くと近くの市場でピナフォアと白い靴下、それから可愛いリボンの柄がついているフォーマルシューズを買うとビアンカに着せた。それから、外套を着せると旅支度を終える。


「わあ、素敵な服。ありがとう」


 ビアンカが素直に言えばエリスは笑みを浮かべて「良かった」とだけ告げる。そのとき、どこかへ行っていた守人達も戻ってきて「用は済みましたかい」とギルが皆を代表して問いかけてきた。


「ああ、行こう。暗くなる前に」


 マリアの言葉で皆は、馬の準備を終えてまたがるとビアンカをエリスと同じ馬の上へ乗せ町から旅立った。少し駆けたところでこっそりとビアンカが町の方を振り返ったけれど、そこにはただ小さい寂れた町が広がるばかりで誰も立ってはいなかった。

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