青色が世界を殺すまで

淡波綴里

1

 机にこびりついた油が紙に貼りついた。マグの底に沈んだ濃い茶埃を喉に流し飲む。

 朝御飯に残したりんごを左手で片付けてから、やっと筆を止める。

 周りの音がほとんど聞こえなくなってからまだ三十分ほどしか経っていない。息をしているのかも分からなくなる、あの瞬間を、私はしばらく思い出せていない。


 優しさや、愛おしさだけで好きになれるようになる時など私には訪れない。

 傷つけ合うことでしか深められない。未だ。

 先月、いや先々月くらいから、傷つけたくないと思い始めた。私には相手の特長が、むしろ肌に合わない。長所を毒づいてまでこの相手と時間を共有できるかというとできない。

 ただそれだけだ、と片付けるほど落ち着いていないがそれ以上を考えることは無駄なのだろうとは思っている。

 恋人が特別なものでないことは薄々勘づいていて始めた。だというのに私は大事に大事にと、魔女のように心の中で唱え続けていた。そのまま疲れて終いである。

 「好きだ」と言われても嬉しくなかった。口の持つ力の恐ろしさや無意味さを思い起こしたからなのか、必要とされることを喜ぶ自分を見たくなかったからなのかは判断がつかない。ただ嘘など簡単につけることは確かだ。

 「寂しい」と言われた時の衝撃は、自分が病であることを医者に告げられる診察室で感じたものより、さらに大きなものだった。驚き慄いて、思わず携帯の画面にうわぁ、と叫んだ。手から飛んだ携帯がベッドに落ちてよかったと思う。

 理解できないと、共感することは難しかった。私の理解の先に共感は存在していた。

 友人とも理解はできるが共感はできないとよく言い合う。ものさしは一つではないと心にとめてきたつもりだ。相手のまめに連絡を取り合うところや、不意に好きだと言って微笑むところ、デートの約束も場所も考えようと試みるところ、まるで私が大切なもののように扱うところを批判することは、ますます憚られる。

 寝つきの良さには自信があった。しかし思考が止まらずついに週の半分、入眠できない状態になった。あまりの経験不足から不安が押し寄せ、ついに精神科にかかった。

 初めての精神科。二十歳にして精神科デビュー。

 「よくあるんですよ、あなたくらいの年齢だと。大学生でしょう。いいんですよ昼夜逆転したって、怠けたって。過去は振り返らないで。すごく苦しかったでしょうけど、もう取り返せない。前を向いていきましょう。これからいいことがたくさんあるんですよ」

 とても的確なアドバイスだった。おそらくそれでこそ腹が立ったのだと思う。私は少量の睡眠薬の処方を断り、領収書を自動販売機横のごみ箱に捨てた。三千円を捨てたことも悔しかったのである。過去にアイデンティティもどきを求めるのは、いい加減面白くないと言われ、舞台でスベる芸人の気分を味わった。

 過去の自分を褒めたたえ、少し誇りに思いながら、今の自分を叱咤激励しながら前進してゆくしかないのだ。

 長所が合わないとはなんと嘆かわしい事なのでしょうと伝えるほかない。もはや、伝えるのはこの世の不思議や神秘についてなのかもしれない。

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