第6話 楽市の町・加納
荷駄を載せた馬が、大樹村を出発する。
馬の両脇には俺のほかに、父ちゃんと母ちゃん、それに伊与がいた。
俺たち4人はこれから、父ちゃんの仕事――商いのために、村の外へと旅に出る。
大樹村は炭が名産である。その炭を、父ちゃんと母ちゃんが村を代表して市場へと持っていき、販売して銭にするというわけだ。
俺たちはあぜ道を歩いていき、山間を抜ける。
すると、草原が眼前に広がった。
戦国時代の尾張の空は、気のせいか、未来よりもずっと青く澄んでいる気がした。
「そういえば、なんで伊与も来ているのさ?」
「私は武士になる身だぞ。見聞を広める必要がある。だから義父様に頼んでついてきたのだ」
「伊与も昨日の戦いでは頑張った。弥五郎同様、一人前とみなしてもいいと思ったんだ」
「そうね。弥五郎が敵をひるませたとき、真っ先に小屋から飛び出したもの」
「おう、あれは息がぴったりだった。長年連れ添った夫婦のようだったぞ、わっはっは」
「そりゃ、ふたりはずっと一緒だもの。……そうね、伊与が弥五郎のお嫁さんになってくれたら、義母様はとても安心なのだけど――」
「ならないから」
伊与は、ぴしゃりと言った。
そんなにハッキリ言わなくても。
「私は嫁ではなく武士になる。それに弥五郎のことは守るべき弟だとしか思っていない」
「だから何度も言うけど、1日しか年上じゃないのに弟呼ばわりはやめろって」
「こちらも何度も言うが、1日とはいえ上は上だ。私のことは姉として敬い――」
「こらこら、喧嘩はやめなさい。……まったく、ふたりがもっと強くなって、力を合わせれば、シガル衆を倒すことだってできるだろうに……」
「義父様、それは本当か? 私と弥五郎ならば、シガル衆を倒せるか!?」
「あ。……いや、いまのはちょっとした言葉のアヤで……」
父ちゃんは、ちょっと困ったように笑みを浮かべてから、ふいに真顔になって、
「やつらは集団だ。本当に滅ぼそうと思ったら、ひとりやふたりの力では無理だ。いくら弥五郎や伊与が強くなっても、お前たちだけではシガル衆は倒せない」
「……もっと、仲間を増やせということか?」
「まあ、そうだ。侍を雇い、武器を揃えれば勝てるだろう。だがそうするには莫大な――」
「金がいる」
伊与が、父ちゃんのセリフを引き継ぐようにして言った。
「その通りだ。はるか遠くの堺という町は、まさにそういう状態になっているそうだ」
そうだ。この時代の堺は商業都市で、会合衆という商人集団が町を運営しているが、莫大な金を稼いでいる彼らは、その資金力を用いて浪人を雇って武器を揃え、町に対するいかなる権力の介入も許していない。
その結果、堺は一種の独立勢力となっているのだ。
「大名でさえ、堺には手出しできんそうだ。なぜなら、金の力で強くなっているからだ」
「では義父様。仮にシガル衆を倒すだけだとしたら、金はいくら必要になる?」
「また難しい質問を。――そうだな、腕っぷしが強く、信用もできる武士を50人、そこに鉄砲や刀槍を装備させ、 人分の食い扶持さえも揃えるとなると、ひとり100貫として――」
父ちゃんは、結論を出した。
「まず、5000貫」
「ご――5000貫だと!? 人足ひとりの1日の手当が、確か20文くらいで――」
「ちなみに、1000文が1貫だ」
「と、いうことは、ええと――」
「人足仕事で5000貫を稼ぐなら、毎日休まず働いて700年近くかかるということだ」
「ば、馬鹿な……」
伊与は唖然としている。
その横で、母ちゃんもあんぐりと口を開けていた。
かく言う俺も、すごい金額だと考えていた。……未来の価値に換算するとより分かる。
1貫が、 21世紀の日本だといくらになるか。これはハッキリとは分からない。戦国時代の日本が統一国家でないこともあって、地方によって物価があまりにバラバラで、推定しにくいからだ。
それでもあえて米の価格などから推測するなら、1貫はおおむね10万円から15万円といわれている。つまり5000貫は、5億円から7億5千万円にもなるわけだな。
すげえ金額だけど……まあ未来の日本でも、人間を何十人も雇用して使うとなったら、やっぱり億単位の資金が必要となるだろうしなあ。
「ものすごい金額だろう? ははは。……つまりだ。さっきはシガル衆を倒せるなんて言ったが、ありゃ軽口だった。そんなことは無理だ。日々を精一杯生きる。それが儂らの分際よ」
「…………」
伊与は、無言になった。現実を知ったからだろうか。
俺も、口を開かない。あまりにも大きい金額の話にただ呆然としている。
ただ、5000貫、という数字だけは強く脳裏に焼きついていた。
と、そのときである。ふいに、父ちゃんが叫んだ。
「おい、見えたぞ、あれが目的地だ。加納の町だ!」
尾張の隣国、美濃国。
その主城、稲葉山城の南方に位置する、加納の町――
「物を商うなら、ここだ」
と、父ちゃんが言う通り、この町は人の往来が激しい。
町の中はほとんどお祭りのようだ。
屋台のような出店はあるわ、あるいは地べたにござを敷いて、その上で物品を販売している者もいるわ、さらには「魚ァ、川魚ァ」と叫びながら、道端を歩く物売りもいるわ、賑やかなこと、この上なかった。
扱っている商品も、米や豆、酒、餅といった食べ物もあれば、古着や帯、反物、草履といった衣類もあり、刀や槍や弓矢を売っている店まである。またある人は土壁に、生乾きの布のようなものを貼り付けていた。なんだと思ってよく見てみると、それは布ではなくて、紙だった。紙を乾燥させているのである。
「なんでもあるな、この市場。面白いな!」
俺は思わず声をあげていた。
すると父ちゃんも、うんうんとうなずく。
「そうだろう、面白いだろう。儂らも、いつもここで炭を売っているのさ。儲かるぞ。炭1束につき60文にはなる。いま儂が持っているのは炭50束だから、合計で3貫だな」
「3貫も儲かるのか! ……しかし義父様。見たところ、みんな勝手にどんどん商売をやっているようだが……こんなことをして、座に目をつけられないのか?」
「いいさ。加納の町は楽市だからな」
「ラク……イチ?」
「楽市ってのは。座の特権が及ばず、税金もかからない自由営業領域のことだよ」
俺は横から、さらりと解説した。
「伊与の言う通り、ふつうの町だと『座』っていう商人の組合があって、そこに属さないと物の売買ができない。だけど楽市なら座に与さなくても商いができるのさ。座が市場を支配していた昔と違って、自由な商売を求める気運が、世の中に満ちみちてきたんだろうね」
この気運がより強くなっていき、やがて日本のあちこちに楽市が立ち並ぶ。
楽市といえば、織田信長独自の政策みたいに思われている。だけど楽市自体は、信長台頭以前からすでにあるのだ。
自由市場を求める気運は、やがて座そのものを否定する楽座政策に繋がる。最終的には織田信長が、安土城下において大規模な楽市楽座政策を行い、それで信長は楽市楽座の第一人者として歴史に名を残すことになるんだけど……まあそれはのちのお話。
「……弥五郎。お前、本当にいろいろ詳しくなったな」
「俺のこと、少しは見直した?」
「見直すどころか。……すごいと思っている。本当だ」
伊与の大きな瞳が、くりくりと動いた。
すると父ちゃんもニッコリと笑い、
「弥五郎の言う通りだ。この場所ならば、勝手に商いをやっていいのだ。というわけでさっそく商売を始めるぞ。弥五郎、伊与。馬から炭を下ろすのを手伝ってくれ」
「「はーい」」
俺と伊与は、馬に載っかっている炭を下ろそうとする。
と、そのときだ。
「おう、おう、おう!」
小男が突然、声をかけてきた。
「汝ら、炭売りか? 見たところ、村から直接炭を持ってきたって感じじゃのう」
「あ、はい。左様でございますが……?」
父ちゃんが、小男に対して答える。
――妙な顔をした男だった。
しわくちゃの顔がなんだかサルみたいで、出っ歯の口許などはネズミに似ている。
そんな面構えのせいで、なんだか老けて見えるんだけど、しかしよくよく見ると男はまだまだ少年だった。せいぜい10代半ばだ。
「それならば、安くて良い炭を持っておろう。どうじゃ? 良い炭ならば、100でも200でも――いやいや、たとえ100万の炭があろうとも、買い上げるつもりじゃがのう!」
「は、はあ……」
「おう、人をそんな、うさんくさそうな目で見るもんじゃないでよ。わしゃ、これでも怪しいもんじゃない。この猿顔は確かに怪しいがの!」
小男は、げらげら笑った。
町中に響くのではないかと思うほどの大声だ。
――そして彼は、名乗ったのだ。
「わしの名前は藤吉郎。尾張那古野の織田家に仕える小者での、薪炭奉行の下で働いておる。なにはともあれ、よろしくの!」
……藤吉郎?
藤吉郎って……ま、まさか、ひ、秀吉!?
俺は、思わず叫び出しそうになった。
――豊臣秀吉。
低い身分だったが、主君の織田信長によって見い出されて武将になり、最後は天下人にのし上がった、戦国一の出世頭。 戦国日本は、この男によって統一される。幼少時の名前は猿とも日吉丸とも伝わるが、確実な史料から見られる最初の名前は、木下藤吉郎秀吉――
ってことは、マジでこの人、秀吉なのか!?
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