あの方に仕える幸運と不運

えいる

第1話「最近の苦労」

基本的にツイてない人生なのは自分だって認めざるをえないほどの不運ぶりだが、それでもあの方の部下になれたことは幸運だったと思う。


……いや逆に運が悪いのか?


……。まあ色々苦労しているのは確かだ。


一番最近では、隣国の学院という教育機関に興味を示され、すばらしい手腕で隣国の大使と繋ぎをつけて、向こうがあの方を留学生として招致するよう仕向け、お父上たる皇帝陛下の署名があれば明日にでも出立できる状態にしてしまわれた。


あの方が俺に『一度はそのような環境で過ごすのも面白いだろうな』とおっしゃった日から、わずか一月という異例な早さである。


その間俺はあの方の指示で目まぐるしいほどの忙しさで死んでいた。


あの方はご自身が非常に優秀であられるため、その部下への要求もかなり高度を極める。俺は平均よりも少々できるという具合であるので、あの方の振る仕事は全力でやりとげなければ合格ラインに達することもできない。その上次々と仕事が積まれていくので、あのときは本当に死ぬのではないかと戦々恐々していた。


具体的に何をしたかといえば、まず隣国の大使の経歴、趣味、家族友人関係などの身辺調査をし、徹夜で書き上げた報告書を一読されたあの方に大使との席を設けよと命じられた。


これまでの経験から、席を設けるとはあの方の地位で大使を呼びつけろという意味ではなく、大使のスケジュールを大きく変えずにあの方が接触できる機会をつくれということだと判断した。


大使の予定は先の調査で既に明らかになっていたから、俺はそのうちであの方がごく訪れても不思議ではない魔術研究所での視察に機会をつくることにした。


他の皇子殿下と同じように王都に程近いキノビス領の領主たるあの方は、前々から自領の発展のために研究所へよくいらっしゃる。その訪問が大使の視察と同じ日であってもおかしくないだろう。


あの方が魔術研究所に行くのは、目をかけていらっしゃる魔術師の研究の進捗を聞くためだ。出不精な魔術師はそうでもしなければ一年以上かけて論文を書いて王宮に送りつけるような緩慢な人間であって、直接あの方がお話することで希望に沿った研究になるから政務の間を縫って出向かれている。


しかしつい先日あの方が行ったばかりであったため、政務の調整と研究所側への根回しは俺の仕事となり、反りのあわない魔術師には渋面が貼りついていた。俺も負けじと隈の消えない顔で笑ってやった。


そうして整った場であの方はごく自然に大使の訪問に驚きつつ、よい機会にと両国の魔術研究や教育を比較する討論に花を咲かせた。俺がそろそろ……と声をかける頃には大使はすっかりあの方の才覚に惚れ、ぜひ今度お目通りをと申し出るほどだった。相変わらずの見事なお手前であった。


帰りの馬車であの方に俺が退出を促したタイミングをお褒めいただいたが、その前に次の算段を聞いていた俺には馬の尻を叩く鞭のようなものであった。


大使の話す学院にますます興味をひかれたあの方は実際に行ってみなくてはわからないなと言い出したのだ。つまりそのように整えろと俺に命じた。


さすがに隣国につてなどない。困った俺は大使の側近から話をつけた。これはあの方の他の指示を受けながら、大使との面会日程をすりあわせる場でぽろりとこぼす程度でよかった。視察に同行していた彼も会話に少し混ざり、あの方の優秀さを感じたと前のめり気味に語ってくれた。


そんな流れで例え話のように『もしあの方がそちらへ留学なさりたいとおっしゃったら……』と振れば、現実にも力をかしてくれそうな方々を並びあげて我が国と隣国の平和な夢物語を繰り広げた。彼の話では大使の弟である学院の理事長、側近の友人という優れた魔術師、さらには学院の発展に熱心な王女殿下とそうそうな面が揃った。


『もしそんな幸運があれば、私も尽力させていただきます』とのありがたい言葉をもらったので、素直に甘えさせていただいた。『ではそうなりましたらお力添えをよろしくお願いします』と俺が答えたので彼は留学など話の種で冗談だと思ったのだろう。


しかしあの方は冗談はおっしゃらない。冗談だと受けとりたくなるようなことを美しい微笑みで実現させるお方だ。その後行われた大使との面会は何の障害もなく終わり、あの方はご自身の望みを叶えるための駒をまた一つ手にした。


さて、まだ俺の仕事は終わらない。何としてでもあの方に学院へお出でいただきたいと思った大使との実際に行く想定の調整。側近の友人という魔術師からの推薦をもらうために、魔術研究所の魔術師に日頃の研究やあの方の支援をまとめた手紙を書くよう催促し、それを側近につなぐ。あの方が留学なさる間に領地の政務を監督する者の配置、予定していた諸々の会議や慰留訪問などに代理または延期の手続きを方々にした。そして本当にあの方が留学されるときに必要な人員の抜擢、持ち出す荷の選定・馬車の手配、あの方の従者の出国許可の申請……など数え上げればきりがない。


大使の弟や王女殿下はあの方ご自身で何かしらの方法で口説き落としたとか。どちらも隣国をおいそれと離れることのできないお立場であるので、手紙なり贈り物なりでやり取りしたのだと思うが、たった一週間で両名の署名の入った正式でごく格式高い推薦状を手にしておられた。


どのような手腕であればそんなことが可能になるのか分からない。直接顔を合わせるまでもなく隣国の要人二人を動かすお力は俺の理解を超えている。


人智の及ばない能力の高さにおののく俺にあの方は最後に、これまでの報告書提出とあの方の出国許可の申し立て、そして皇帝陛下へ謁見を願い出るようお命じになった。これまでの膨大な仕事量を思えばどうとでもない。すべてあの方の望み通りに行けばしばらく休暇をとるつもりであるので、最後のひとふんばりと書類を揃えあの方の謁見日を迎えた。


いつもの定期的な謁見であれば、応接間に通されて俺も同席の栄誉をたまわるのだが、今回はことが大事であるので陛下の執務室で行われた。さすがに一国の機密情報が集まるような執務室には入らず、部屋前の近衛と並んで待機していた。


事実、俺がそこで待っていなければならない合理的な理由はなかったのだが、あの方が『話の流れ次第だけど、おまえを呼ぶかもしれない』とおっしゃったのですぐ分かるところにいた。隣の体格立派な近衛にあの方のせいでできたクマを心配され、内心でじんわり泣いていたところ、涼やかな声で主が俺を呼ぶ。


すみやかに入室申し上げれば、通常運転のあの方(つまりはにこにこと美しい微笑みを浮かべていらっしゃるが何を考えておられるか凡人には分からないご様子)とひどくお疲れになったご様子の皇帝陛下がいらっしゃった。陛下は俺の書いた報告書を指して、この内容は事実か、また実行するにあたる問題がないかとお尋ねになった。


残念ながら陛下の期待なさっていた返答はできず、自分で確認した事実で何の不備もなくあの方のご不在の間の予定も滞りなく行われると奏上申し上げた。そしてここからは私見ではありますが、と断りを入れてこの度は殿下が本当に遊学なさる前の下見という名目の短期間のご訪問になさるべきと提言した。


あの方のお望みかられ出した俺のでしゃばりを、あの方は面白がるようにお黙りになって聞いてらした。これはここ数年に学んだことだが、あの方はある基準を持って無茶なことをしでかし、その基準が満たされれば当初のご希望と違う結果でも満足されるようだ。


今回は隣国の学院を実際に見る機会が得られれば、あの方の妥協点に達するだろうと予測した。事実あの方から留学したときに叶えたいことをその他にお聞きした覚えがなかった。だから陛下のご心労と俺自身の苦労を鑑かんがみて、あらかじめ数週間のご不在のつもりで準備していたのだ。


さて、俺の提言を受け陛下はあの方の出国許可書に印を押された。そして主従ともに退出となったが、最後に『くれぐれも突飛な行動は慎むように』とありがたいお言葉を頂戴した。しかしあの方の顔を見た限りその程度の苦言は意にも介さないらしかった。



善は急げとばかりに整ったあの方の出立日、あの方のお見送りが終われば俺はようやくの休暇である。俺がこの外遊に同行しないと知ったあの方は、そうかと一言おっしゃっただけだった。まぁあの方の優秀さを思えば凡人の必死の努力も微々たるものなのだろう。


今まさにあの方が馬車に乗り込まれるというとき、何か忘れ物でもしたというように戻って俺のところにいらっしゃった。俺はあの方の部下として働きだしてから久しぶりの休暇に心を飛ばしていたため反応が遅れた。


「何か忘れていると思ったら、おまえに言い忘れていた」


その日もあの方は美しくあられたが、次に浮かべられた笑顔は非常にきらきらしくまた俺の心臓をひゅっと小さくするような威力があった。


「私はおまえの献身を買っている。これからもずっと私の下で仕えてくれないか」


後ろであの方の攻撃にやられた侍女などが倒れる音が聞こえたが、当の本人様に応対する俺は振り向く余裕もなく混乱していた。なぜ今このタイミングでそんな話を俺ごときにする?


『もちろん報酬は今より弾もう。帰ってきたら返事を聞くから考えておけ』とあの方は俺の回復も待たずに馬車に乗ってしまわれた。見送りに出た下々はおおわらわに馬車の後を追いかけ、動けない俺は一人残された。




……本当に幸運なのか、これ?

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