大海人天皇崩御
六八六年九月九日。大海人天皇の病状が悪化した。讃良は関係者を大広間にとどめ、僧
金糸をあしらった絹の布団に大海人は目をつむって気持ちよさそうに眠っている。讃良と讃良は大海人を起こさないよう音を立てずに座る。
普段は人のざわめきで満ちている浄御原宮は、深夜のように静まり、ときどき鳥のさえずりが聞こえてくるほかは物音一つしない。風も吹かない部屋の中では完全に時が止まっていた。
気がつくと、簾を通ってきた日の光に目を射られていた。
日の光の強さがゆっくりと変わってゆくおかげで時間が過ぎてゆくことが感じられます。気づかないうちにお日様が低くなって、もう夕方ですか……
部屋に入ってきたときと同じように、大海人は安らかな顔で眠っている。讃良は、布団の中に手を入れて大海人の手を探った。
冷たい! さっき手を握ったときは温かかったのに。
讃良が慌てて金鐘を見ると、金鐘も布団の中に手を入れた。
讃良の体温が大海人に伝わって、大海人の手にぬくもりがもどったころ、金鐘が口を開いた。
「ご臨終です」
金鐘は手を合わせ、経を唱え始めた。
讃良も大海人の手をはなす。目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
大海人様は五六歳。お父様が四六で亡くなったから、長生きしたといえるでしょう。
大海人様は、白髪の中に少しだけ黒い筋が混じっている。眉も白い。額の皺は深く、頬はたるんでいる。目と口はしっかり閉じられているが、微笑んでいるようにも見える。静かに寝ているようで憂いや苦しみを感じることはできません。苦しまずに逝けて良かったと言うべきでしょうか。天寿を全うされたという満足感が感じられます。
目を閉じて横たわる大海人は何も答えない。金鐘の読経が部家の中から外へと静かに流れてゆく。
大海人様が亡くなったというのに、悲しいという感情が出てきません。泣かなければならないと思うのですが涙が出ません。一体どうしたと言うことでしょう。心の中には何もわいてきません。何かを失ったという感覚ありません。ただ、天皇という仰ぎ見る存在がなくなったという思いしかないのです。大海人様と体は合わせても、一緒に国を治めても、心は結びついていなかったからなのでしょうか。
私は十三の時に大海人様に嫁ぎました。娘というより何もわかっていない子供の頃です。大海人様が十三の子供をどんな気持ちで抱いたのか、今となってはわからないのですが、姉様の付録ぐらいに思っていたのかもしれません。
赤ん坊を背負い、幼い子供を何人も連れて歩く若い母親を見たことがあります。子供たちは、母親の名を呼びながら土手を走り回り、母親は危ないと子供を叱っていましたが、優しさと思いやりにあふれた声でした。子供たちは、父親の元に着くと「おとうちゃん」と言いながら父親にじゃれつき、父親は邪魔だと言いながらも、笑い声を上げていました。父親が小さい子供を肩車する横に、赤ん坊を背負った母親が寄り添って歩き、子供たちが手をつないで歩いていた姿を忘れることができません。仲の良い親子の姿ががうらやましかった。私には、草壁の手を引きながら大海人様と連れだって歩いた思い出がありません。私は皇后として、あかぎれなど無縁な恵まれた暮らしをしています。倭の民は、竪穴、茅葺きの小さな家に、粗末な衣、貧しい食事をしていますが、私よりも幸せなのかもしません。
私は大海人様にとって四番目の后でした。私の後に娶った后も六人います。十人の后に十七人の子供。大海人様はお父様と一緒で氏族から差し出される娘は拒まなかったから、もっと女がいたはずです。
大津宮から逃れて住んだ吉野では、あんなに私を求めてくださったのに、壬申の乱以降、大海人様が私の閨へ来てくださったことはありません。私が年を取ったからでしょうか。私が十人並みの器量しかないからなのでしょうか。大海人様が手を付ける女は、私よりも若くてかわいい娘ばかりでした。
私は大海人様の皇后でしたが、妻だったのでしょうか。
大海人様はお父様の
大海人の死を悼むように、烏の鳴き声が聞こえてきた。
横たわる大海人の姿をゆっくりと眺めたが、起き上がる様子はない。
カナカナというヒグラシの鳴き声が聞こえてきて、柔らかい西日が讃良たちを包む。
いつのまにか、金鐘の読経は終わり、金鐘は目を閉じて頭を下げていた。
大海人様が亡くなって一つの時代が終わりました。
大海人様には草壁を後継指名してくださいと何回も頼んだのに、何もしないまま亡くなってしまった。自分勝手なお方……。まだ、草壁は二五歳。天皇に即位できる年ではありません。あと五年、せめて三十になっていれば、私の力で天皇にできるのですが……。
弱気や遠慮はなしです。私は草壁を天皇にしなければならないのです。
讃良が立ち上がると、金鐘が目を開けた。
「大海人様のために、もう一度、読経をして下さい」
讃良は「畏まりました」という金鐘の返事を聞きながら部屋を出た。
浄御原宮の大広間には、大海人天皇の病状が悪化したという知らせを聞いた、后たち、草壁、大津などの子供たち、
讃良が部屋に入ると、人々は話すのをやめ、一斉に頭を下げた。
「本日より
讃良の言葉に、部屋のあちこちですすり泣きが始まった。
后や子供たち、群臣までもが泣いているのに、涙を流さないのは私だけなのでしょうか。悲しいと思わなければいけないのに、涙を流さなければいけないのに、ため息しか出てきません。
讃良は当直を指名して后や群臣たちを下がらせた。
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