大津皇子の評価
岡宮の門に、藤原不比等と柿本人麻呂が控えていた。
「命により、輿を返してしまいましたが、よろしかったでしょうか」
「朝夕はまだ寒いですが、良い陽気になってきました。今日はお日様が照っていますから、輿に揺られるよりも、景色を見ながら歩いて帰りたいと思います。見なさい、三輪山に霞がかかって風情を出しています。柿本臣は何と詠みますか」
讃良を先頭に不比等と人麻呂、志斐が続き、少し遅れて荷物持ちの舎人と采女が従う。
冬枯れで細くなった飛鳥川は優しく流れ、土手の日だまりには蕗の薹が顔を出し、ネコヤナギは白い毛に覆われた花を用意していた。
暖かくなった風が衣の裾をくすぐる。
人麻呂は、「春の陽気に誘われて」と歌を詠んだ。
いにしへの 人の
人麻呂は「即興ですので、お恥ずかしい限りです」と謙遜する。
さすがに歌の上手と言われていることだけはあります。赤ん坊を見て幸せになっている私の気分をよく詠んでくれました。私や藤原臣では、柿本臣のように、すらすらと詠むことはできません。
さて。
「大津の評判について聞かせて下さい」
不比等と人麻呂は一礼し、讃良の横に並んで歩く。
「大津皇子様は、お若いですが、見識と道理を踏まえていらっしゃいます。多くの者たちが皇子様の話を肯いて聞いています」
「度量が広く、武を好み剣を良く操られます。性格はのびのびとして、自由に振る舞い、法度には縛られないようにしていらっしゃるようで、重要な事柄を外されることはありません」
藤原臣も柿本臣も大津のことを褒めすぎです。
「群臣たちの評判はどのようですか」
「皇子様でありながら、人を見下すようなところがなく、人士を厚くもてなしていらっしゃいますので多くの者がお屋敷に出入りしています」
「柿本臣は大津の屋敷へ行ったことがありますか」
「歌会に呼ばれたことがあります。屋敷の庭はきれいに整えられ、塀に沿って白梅が多く植えられていました。小さいながらも築山があり、四季の花を植えて楽しまれているご様子です。大津様は幼少より和歌、漢詩に親しまれていらっしゃいます。特に漢詩は
「どのような人が集まっているのですか」
「主立った者だけでも三十人ほどはいました。同年代の者は少なく、群臣の方々、私のような、年のいった大舎人が来ています。
「人臣のままでいては身を全うできないとは、天皇に即位すべきという意味でしょうか」
人麻呂は「はい」と答える。
「即位を勧められた大津や、集まっていた者たちの反応はいかがでしたか」
「大津皇子様は、『自分は天皇の器ではない』とおっしゃっていましたが、まんざらではない様子でした。宴席にいた者のほとんども大津様を持ち上げていました」
「大津が天皇に色気を出しているとは、ゆゆしいことです。舎人や采女の評判はどうですか」
讃良の問いに志斐が答える。
「采女たちの粗相も笑ってお許しになりますので、人気は上々と聞いています。剣を振り馬に乗る姿に若い采女の中には懸想して、歌を贈る者もいるらしいです。
草壁だって馬に乗り剣を振るうことくらいはできるが、草壁は馬術や剣術よりも漢籍の方が好きのようです。草壁も皇子であることを笠に着て威張るようなことはしないので、采女や舎人の評判は悪くないはずですが。欲を言えば、草壁はもう少し活発であってほしい。
藤原臣たちは、私に遠慮して言葉を選んでいるにもかかわらず大津を誉めています。
「大海人様は、この前から大津を朝議に参加させています。政については大小にかかわらず私に相談してくださるのに、大津の件だけは何の相談もありませんでした。大津も良い年になったのでぶらぶらさせておくことはできないと大海人様はおっしゃいますが、大海人様が大津を朝議に参加させたお心はどのあたりにあると考えますか」
「
「藤原臣は朝議での大津をどのように見ましたか」
「私は用を仰せつかるために部屋の隅に控えているだけですが、大津様は堂々と自分の意見をおっしゃい、若いながら立派に見えます。大津様と私は同年代ではありますが、とてもまねできそうにありません。大津様の貫禄はすでに三十を超えています」
「草壁については?」
「草壁様も自分の説をおっしゃいますが、年配者に遠慮して見えるようです」
「大海人様は、草壁と大津を比べられていると思いますか」
不比等と人麻呂は「畏れながら」と肯いた。
「お二人は年が一つしか離れていませんし、大津様の母様は皇后様の
同格?
草壁と大津は絶対に同格ではありません。草壁が第一、大津は二番目なのです。
「大海人様は吉野の盟約で、草壁を継嗣であるとおっしゃいました。大海人様が大津を選ぶ理由はないと考えますが」
「誠に遺憾ながら、天皇様はすべての皇子様に対して、同じ母より生まれたものとして扱うとおっしゃいました。天皇様にとって優秀な皇子様ならばどなたでも等しく思われているのでしょう。大津様を朝議に加えられたのも、皇子様の能力を評価してのことであると思われます」
「大海人様はどうして第一皇子である草壁と他の皇子を同じに扱うのですか」
「天皇様は御自分が創ってきた国を守り発展させてくれる皇子様を選びたいのです。国があっての皇室であり子供であると考えなのです」
「藤原臣は草壁が国を発展させることができないと考えているのですか」
讃良のきつい言葉に、不比等は身を縮めて「めっそうもありません」と答えた。
藤原臣の言うことが全く理解できません。国があっても、草壁が天皇でなければ意味がなのです。草壁以外の誰かが天皇になることなど許されません。
「草壁が天皇になって、大津は草壁を助けてやってくれるでしょうか」
「草壁様と大津様は幼い頃から兄弟として育っていますので、今は仲が良いようです。しかし、大津様は草壁様と同格であると思ってらっしゃるでしょうから、必ずしも草壁様に従うとは思われません。大津様の御気性から考えると、将来に本人や近習が野心を起こすことも十分あるでしょう」
お父様は、
大海人様もお父様に協力して、百済戦争で活躍したり
藤原臣が言うように、二人が同格であれば、大津は草壁に従う必要性を感じないでしょう。二人が対立すれば、大津の不満がたまり、草壁を追い落とそうとするかもしれません。お父様や大海人様の例があるように、今の草壁と大津は仲がよいからといって将来まで続くものではありません。大津が自ら動いたり、周りの者たちが担ぎ出すかも知れません。天皇になれる人間が二人いてはいけないのです。
「大津は天皇の器であると思いますか」
不機嫌そうに言う讃良の質問に、しばらく不比等と人麻呂は答えなかった。
一行は飛鳥川に沿ってゆっくりと歩いて行く。
川の流れは軽快な音を立てているが、一行の間には気まずい沈黙が流れた。
しばらくして、不比等が
「畏れながら、天皇様に即位されるとしても、群臣たちは反対しないでしょう」
と答えた。
藤原臣の言い方では、大津が次の天皇になることが決まっているみたいではないですか。大津は、群臣たちに次の天皇であると思われているのというのですか。大津が天皇になり、草壁が臣下になることなどあってはなりません。
「第一皇子の草壁を追い越してでもですか」
「先の大王様は、大友皇子様の歳能を高く評価され、順を違えたために大乱を起こす元になりました。再び乱を起こさないためにも順を違えることはなりません」
「柿本臣の言うとおりです。大津をこのままにしておくことはできません。良き策はないでしょうか」
浄御原宮に着くと、志斐は
二月の冷たい風が三人を包む。晴れていた空は、いつの間にか鉛色の雲に覆われ雨を降らそうとしている。
讃良は自室に不比等と人麻呂を連れて入った。
人麻呂が提案する。
「大津様は頻繁に宴を開いています。草壁様も大津様に対抗して宴や歌の会を開き、与する人を増やしてはいかがでしょうか」
「柿本臣が言うことはもっともですが、時間がかかりそうです」
不比等も提案する。
「私は大津様謀反の噂を流そうと考えています」
讃良と人麻呂は不比等を見つめた
「藤原殿。謀反とは穏やかではないし、人を陥れることは王道に反するのではないか」
「柿本殿の言われるとおり、人を陥れることは卑怯なことであると私も考えます。しかし、朝議で天皇様が大津様をご覧になる様子。皇族方、群臣様たちの評価を考えますと、柿本殿のように正攻法をとっている余裕はありません」
「皆が大津を推すというのですか」
不比等は頭を下げた。
藤原臣の言い方からすると、事態は私が思っていたよりも、はるかに進んでいるようです。大海人様が、大津を朝議に呼ぶようになったのは、後継指名をするための布石なのかもしれません。
「藤原殿は有間皇子様の変を再現しようというのですか」
有間の変はお父様が起こした事変でした。
お父様が隙を見せるために、お婆さまを誘って紀の湯へ出かけたときに、政から身を遠ざけていた有間に、
謀反の発覚から有間の処刑まで数日という手際の良さ。事変を利用して反対派を一掃し、赤兄は事変を契機に出世するなど、当時から有間の変は、お父様が仕組んだものと皆が考えていました。お父様は、有間の変以外にも、
幼かった私は、お父様も有間も大王家の人間なのだから仲良くすればいい。骨肉の争いを行う一族は醜いと感じ、人を陥れたお父様を、汚くて冷酷だと罵りました。
今は、お父様の考えていたことが分かるような気がします。甘い感傷に浸ることは許されません。草壁が天皇になる障害は除かねばならないのです。
「
藤原臣に任せるとしても、私の企てであることには変わりありません。
草壁のためならば、私が汚れ役になるつもりです。草壁を浄御原宮の主にするために、私は何でもします。
私は人を陥れる卑怯な人間になろうとしている。しかも、幼い頃からめんどうを見ているお姉様の子供を陥れようとしている。人として正しいのでしょうか。
部屋はすっかり暗くなり、采女が灯してくれた燭の光に、讃良の影が大きく揺れた。
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