アナタのそばに付喪神を

湯煙

第1話 万年筆(その一)

 そろそろ三十代に差し掛かろうとする、彼の机の上には一本の万年筆が置かれていた。

 

 その万年筆のグリップ部分は銀のメッキで被覆されていて、新品とは違う少し深みのある光沢が年代を感じさせる。

 日頃、筆記にはボールペンを使用する彼だが、特別な時だけはこの万年筆を使う。

 履歴書、婚姻届、子供の名前を考えるとき……、彼にとって特別な書類や文字を書くときは万年筆を使ってきた。

 最後に使ったのは、初めての出産後、実家で過ごしている妻の体調を伺う手紙を書いたとき。


 万年筆を使えば、気持ちが伝わりやすい……なんてことはない。

 しかし、気持ちを特に込めたい時、彼は万年筆を使用した。

 紙の表面を削るように……実際に削っているわけではないが……文字を記す感触が、文字に気持ちを込めているように思えるからと……。


 その万年筆は彼の父の遺品だった。


 子供の頃、万年筆で文字を書く父の姿が印象的でよく覚えている。

 いや、自宅で見かける父は、机に向かっている姿が多く、静かに食事するところと物を書いている様子しか覚えていない。

 だが、鉛筆やシャープペンシル、ボールペンなどの安い筆記用具しか使えない、まだ幼い彼にとっては、万年筆は大人の筆記用具であり、尊敬する父の象徴だった。


 彼がまだ小学四年のとき、彼の父は亡くなった。

 そのとき、一つ年上の姉や三歳下の妹は遺品から何も欲しがらなかった。

 女の子の目を惹くような遺品が無かったということもあるけれど、無口で、自室で過ごしてばかりの父にあまり良い印象が無かったからかもしれない。

 だが、彼は父の愛用していた万年筆を欲しいと母に伝え、そして譲り受けた。


 父の死後、母の実家へ引っ越した。

 母の実家は、比較的経済的に余裕があり、彼ら三人の子供と母の生活を助けてくれた。

 そして彼らは成長後、それぞれ独立し、結婚した。


 その万年筆で家族への手紙を書くことは、姉や妹とは違い、父を尊敬していた彼の、父への思いを代弁する行為。また、微かに香るインクの匂いが、家族への気持ちを伝える際に彼にとっては必要な空気だった。


 だが、長年使用してきたせいか軸が折れてしまい、現在、妻への二度目の手紙を書けずにいる。


 ――修理に出し、戻ってくるまで手紙を出すのを待つ? いや、妻が心配なのに、万年筆を理由に体調を確認しないというのはおかしいし間違っているな。

 この一本に拘らず、もう一本用意するか……。


 目の前の万年筆は、別に特別なモノではないことは判っている

 父が購入した当時でも、さほど高級品ではないことも知っている。

 最新の万年筆を購入した方が、もしかしたら書き味だっていいかもしれない。


 合理的に考えれば、この万年筆に拘るのはおかしいのだろうな――


 たかが万年筆だ。

 書いた文字に気持ちがこもるなんてことも、彼の妄想にすぎないことも判っていた。


 父の遺品とはいえ、拘る自分が彼自身でもおかしくて、つい口元に笑みを浮かべた。


「思い入れってそういうモノだよね。きっと……」


 背後から聞き覚えのない子供の声がした。

 振り返ると、見覚えのない小学生くらいの子供が、デスクライトだけが灯る、薄暗い部屋の扉近くに立っている。


「君は誰だい? そしてどうしてそこに居るのかな?」


 この家には、彼以外誰も居ないはずだ。

 妻と生まれたばかりの子供は、妻の実家に居るのだから、彼だけのはずなのだ。


「僕は、付喪神コーディネーターだよ。ちぎるといいます。怖がらなくていいよ。悪さなんかしないからね」


 背格好はトレーナーと短パン姿の子供。

 ぷくっとした頬が子供らしく、また、笑みを浮かべた細い目からは確かに危険を感じさせなかった。


 だけど奇妙なことに、”一家に一人、付喪神”と赤字で書かれたタスキをかけている。

 彼を刺激しないようにと配慮しているのか、扉近くに立ち距離をとったまま彼に近づこうとはしない。


「その付喪神コーディネーターさんが、何か用かい? 突然の来客にしても、いきなり私の部屋に入ってくるのは感心しないね」

「怒って僕を外へ放り出そうとしないでくれてありがとう」


 付喪神コーディネーターと名乗った子供は、ぺこんと頭を下げる。


「あなたはその万年筆に何か強い思い入れがあるようですね。そして、壊れて困ってる様子と感じましたが違いますか?」


 顔をあげ、万年筆を指さしてちぎるは話を続けた。


「凄いね。その通りだ。よく判ったね」

「一応、神ですので、そのくらいは……」

「この万年筆は父の遺品でね。私にとっては大事なモノなんだ」

「あのぉ……それを修理したら……あなたがその万年筆と別れるとき、つまり、あなたが亡くなった時ということになるのですが……その万年筆を付喪神にしてもいいですか?」


 少し言いづらそうに言うちぎるは男の子のように見える。

 付喪神に性別があるのか彼には判らなかったけれど、生まれたばかりの我が子も五歳か六歳に成長したら、こんな感じなのかなと彼は想像した。 

 

「この万年筆が付喪神になると、どういうことになるんだい?」

「付喪神になると、まず、意思を持ちます。そして全日本付喪神協会の一員として、付喪神として生きることになります。力尽くでメチャクチャに壊されない限り永遠に……」

「ねえ? 付喪神って確か人にいたずらするんじゃなかったかな?」


 ゆっくりと目を開いて、ちぎるは落ち着いた声で返答する。

 この辺りの様子は、子供とは思えない知的さを彼は感じた。


「よくご存じですね。昔はそうでした。でも今は違いますよ」

「今はどういうことをしているんだい?」

「……実は、神として何ができるか探している最中なんです。今でもできることは、モノに込められた想いや、モノが見てきた持ち主のことが判るくらいなので……」


 ”やっぱり、特別な力もないのに、こんな交渉は無理なんだよ……”とブツブツ言いながら、ちぎるはハァアとため息をつき凹んでいる。

 どうやらこのような交渉を何度も繰り返してきたようだと彼は判った。

 そして全て断られてきたのだろうと、クスッと笑ってしまった。


 ――確かに大事な万年筆だが、私が亡くなった後まで残しておくほど価値があるものとは思えない。付喪神とやらにしてもいいけれど……あ、そうだ――

 

「この万年筆が見た……亡き父のことが君には判るのかい?」

「ええ、まあ、その万年筆が見た範囲ならだいたい判ります」


 彼は少し考えてから答えた。


「判った。じゃあ、こうしよう。亡き父のことで判ることを全て私に教えてくれないか? 教えてくれるなら、私が死んだ後、そして人に悪さをしないというなら、この万年筆を付喪神にしてもいいよ。約束? 契約? そういうものが必要かい?」


「いえ、そういうものは必要はありません。お許しをいただけたら……付喪ベビーと僕達が呼んでいる霊をその万年筆に憑依させます。もちろんあなたが生存中はこれまでと何も変わるところはありません。普通に使ってください。そうだ! 良いこともあるんですよ? インクがなくなるのは仕方ないですけれど、今のように壊れることはなくなります。多少壊れたくらいなら付喪ベビーが自動修復しますので」


 付喪神を増やしたいというちぎるの気持ちが、懸命に話す様子から彼には伝わってきた。


「よし、じゃあ、この万年筆が付喪神になることを認めるよ。父のことはいつ教えてくれるんだい?」

「これからすぐにお教えします。その万年筆を貸していただけますか?」


 彼は机の上から万年筆を取り、男の子に手渡した。

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