交差する鎖

永月 慶

慌ただしい一日①

 有馬慎太郎の朝は早い。

朝四時に起床。町の川沿い15kmをランニングし五時過ぎには朝食をとる。

その後シャワーを浴びてクリーニングに出し忘れた所々シワの残るシャツに袖を通し始める。制服に袖を通すと香ばしい香りが鼻孔を掠めた。タバコの匂いに混じっていつも嗅ぎ慣れている匂いだ。準備が終われば、七時過ぎには家を出る。そのあとは八時前に、自宅より二駅先にある仕事場のカフェに向かい開店準備を始める。


 窓際に木製のテーブルと椅子を並べ、本日のランチが書かれた黒板を店の外の壁に掛け、オープン準備を終わらせる。

しの字のカウンター席の端っこに腰を据え、煙草に火を付ける。カフェのマスターはいつもパイプを蒸しており、中世ヨーロッパを彷彿とさせる店の内観にぴったりである。


 ここで働く前は、よくお客として来ており学生の時から落ち着きたい時に本や雑誌、パソコンを持参して時間を潰していた。

 僕は大学生の頃、就職活動に時間を割くことがなく毎日をそれとなく過ごしていた。周りの学生たちは、下ろしたてのスーツに袖を通し社会人になる為、毎日のように有名企業の説明会や就職セミナーへと足を運んでいた。


 四年間の大学生活では周囲に当たり障りない程よい距離を保ちつつ接して来た為か、大学には親しい仲の友人など居なく、僕は基本的にいつも一人で過ごしていた。

 就職活動が終盤に差し掛かる頃、必要単位の取得も卒業論文も終えて大学へ通う必要がなくなってしまい、大学のある高層ビルの密集したコンクリートジャングルへは足が向かなくなってしまった。


 僕の働いている街は極端な作りで、街の中心に線を縦に引き向かって東はオフィスや大学、デパートが立ち並ぶビル群で活気に満ちている。向かって西側は、下町の雰囲気が漂う背丈の低い民家や商店が並ぶ。学生達は、ボロくさい下町より日々進化していく活気のある街に興味があり、足が向いていた。ちなみに僕の通っていた大学も東の都会側にあるいくつもの校舎が立ち並ぶ有名校だった。

 僕はこの下町に魅了され大学の授業をさぼっては、よくふらつくこともしていた。

そんな下町の雰囲気により異質な雰囲気を出していたのが、マスターの喫茶店[cafe 箒星]である。


 この街にも下町の雰囲気にも合わない異国の建物の外観、店内から漂うコーヒー豆の香ばしい香りが鼻腔をつく。

コーヒーの知識はキリマンジャロやらブルーマウンテンなどの有名な銘柄を知る程度で、勿論味や香りの違いなど分からない。

しかし、このカフェから漂ってくる豆の燻された香りは、嗅いだことのない独特の世界が広がっていた。

思わず香りに釣られ、お店のドアを開けていた。入口から正面のカウンター席の端に座り、中世ヨーロッパ風な内装とレコードから流れるクラシックに聴き耳をたてる。

しばらく聴き呆けていると、カウンターの中でパイプを吹かしていたマスターが「お飲み物は?」と声を掛けてくれた。

ふと我に帰り

「あ、じゃあコーヒーで」と返事をした。

 お店のマスターはコクリと頷きコーヒーを淹れ始めた。徐々に豆の香ばしい香りがお店全体に充満していった。嗅いだ瞬間、鼻から脳へ脳から全身に突風のように衝撃が走るようだった。


「お待たせしました。」

マスターは見慣れたように放心状態の僕の前にコーヒーを置いた。

「あ、ありがとうございます。」

「温かいうちにどうぞ」


 コーヒーが喉を通ると先ほどの衝撃がまた走ってきた。香ばしさの中から味わい深いコクが舌の上を駆け巡った。

一杯のコーヒーでここまでの衝撃を味わえるとは、想定外のことだった。


 マスターの淹れたコーヒーのことを知りたいと思った。飛びすぎた話かもしれないが彼の淹れるコーヒーからは美味しさだけではない、何やら寂しげな感情や虚無感のようなものが感じられた。そんな気がした。


 それにコーヒーだけじゃない、仕草や表情といったマスターの出す独特な雰囲気に大人というものを感じた。そんなマスターに憧れてこの喫茶店でバイトを始めた。

身なり仕草もマスターに近づこうと、パイプを吸うことに決めた。しかし、普段無口なマスターからパイプはまだ早いとストップがかかり、それならまずはタバコからという感じで吸い始めた。

 初めのうちは、「若いもんが進んで体に悪いものを取るもんじゃあない。」と小言を言われもしたが、無理やり辞めさせるようなことはされなかったので、そのまま吸い続けている。


 店内は、世界各国の雑貨達があちこちに配置されている。席数は4席1組が9つにカウンター席が10席と小規模であるが、還暦をとうに過ぎたマスターには充分な広さだと言う。

普段は、バイトの僕が先に来て朝のオープン準備をする。それが終われば開店までの間タバコを2、3本嗜む。お楽しみが終わる頃マスターが出勤してくる。

「あ、マスターおはようございます。今日も美味しいコーヒーをよろしくお願いします。」

マスターはコートをハンガーにかけ、こちらを向いて静かに頷いた。

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