男の娘は漢になれるのか?
水樹 皓
吸血鬼(♀)の主食は男性ホルモンだそうです
吸血鬼=変態?(前編)
「――はぁ、はぁ、はぁ……今日はこのくらいにしておくか」
まだ朝露の残る住宅街。その一角に立つ築50年のオンボロアパートの前から、少年のものとも少女のものともとれる、中性的な声が聞こえてくる。
「あらあら、夏樹ちゃん。今日も頑張ってるねぇ」
「あっ、大家さん。おはようございます!」
「おはよう。はい、これどうぞ」
「これはどうも。本当にいつもありがとうございます」
オンボロアパートの前。
人の良さそうな老婆――大家さんから水を受け取るのは、高校2年生の少年、
――つまり普通に可愛い男の娘と言うわけである。
「確か、今日からまた学校が始まるんだったかねぇ?」
今日は9月1日。日本の多くの学校では、長い長い夏休みが終了し、今日から始業することだろう。
夏樹の通う高校も例に漏れず今日から始業であり、これから軽くシャワーを浴びて高校へと出発するところだ。夏樹がこの事を伝えると、大家さんは少し寂しそうな笑みを見せた。
「大家さん……」
このアパートに住んでいるのは学校に通う若者のみであるため、学校が始まると昼間は必然的にもぬけの殻となってしまう。
アパートの1部屋は6畳1間と決して広くはない。しかしアパートそのものは普通の家より大きい。これからまた殆どの時間、この大きな建物の中に大家さんは1人きり。夏樹はその光景を想像して、自分の事のように沈痛な気持ちになる。しかし、ここで自分までもが悲しそうな態度を見せては、大家さんを困らせてしまう。そう思った夏樹は……。
「ぼ、俺、この夏休みで少し筋肉ついたんだ! ほらっ!」
無理やり元気な声を出し、汗でその身に貼り付くスポーツ用のタンクトップを、バッと勢い良く捲り上げた。
あらわになったのは、まるで雪のように綺麗なお腹。その一切毛の生えていないきめ細かい肌だけを見れば、どこぞの雑誌の美少女モデルのお腹にも劣らない。しかし残念かな。美少女モデル並みのそのお腹は、ほんの少しだけ割れていた。
「おや? おやおやまあまあ!」
それを見た大家さんは、眼鏡を突き破らんが如く目を大きく飛び出させた。先程までの寂しげな表情はどこへやら。大家さんはしばらくジロジロと真剣な面持ちで夏樹のお腹を観察し。
「立派になったの。亡くなったお爺さんのお腹の面影を感じるぞい!」
「ほ、本当ですかっ!?」
「ああ、本当だとも。一時期鍛錬を辞めてしもうた時はどうなる事かと思っておったが……」
「あ、あの時はご心配おかけました」
「いや、よいよい。ワシもまたこうしてお爺さんの事を話せるようになって良かったわい」
去年の丁度今頃。その頃の夏樹は、同い年の天才格闘家の少年を目標として日々鍛錬を積んでいた。その少年は夏樹と同じく女の子の様な見た目でありながら、果敢にも己よりも図体の大きな漢に挑み、いくつもの勝利を積み重ねるその姿が世間の注目を浴びていた。夏樹がそんな彼に親近感を抱き、憧れを抱くようになったのは必然であったのだろう。
しかしある日突然、その天才格闘家の少年がスカートをはき、まるで可憐な少女のような恰好で人前に登場し、世間を驚かせるという出来事があった。その後、少年は何も言うことなく静かに世間から姿を消していった。それにショックを受けた夏樹は、真の漢とは一体何なのだと悩み、苦悩する事となった……。
目標を見失い、灰色の日々を送っていたそんなある日の事だ。ひょんな出来事から大家さんの旦那さんが昔ボディビルダーをやっていた事を知った夏樹。更に大家さんの支えも加わり、彼を新たな目標として無事再出発する事ができていた。夏樹の部屋の壁には、そのお爺さんの現役時代のマッスルボディーがデカデカと貼られていたりする。
「まだまだお爺さんには及ばんが、このまま鍛錬を続けてゆけば、いずれはお爺さんを超える腹直筋が完成するかもしれんぞい!」
「おお! ありがとうございます! 僕、頑張るよっ!」
「ああ。浪速の防災頭巾と呼ばれたお爺さんを超える、立派な漢になるんじゃぞ!」
2人は手を取り合い、元気にキャッキャと飛び跳ねる。
まるで本当のお婆ちゃんと孫娘が仲良くしているようにしか見えない和やかな光景。度々繰り広げられているこの光景は、通勤途中のサラリーマン達の荒んだ心を癒やしていたが、その事を当人たちは知る由もない。
「――あ。そろそろ部屋に戻らないと」
「おお。学校じゃったな。鍛錬も大事じゃが、勉学もしっかりと頑張るんじゃぞ」
「うん! じゃあ、またね〜」
しばらく癒やしの波動を生み出していた2人であったが、夏樹が学校へ行く準備をするために、ここで部屋へ戻ることとなった。
このアパートは木造2階建てで、1・2階各3部屋ずつの合計6部屋ある。大家さんの部屋は1階の右端。一方の夏樹の部屋は2階の左端にあるため、大家さんが部屋に入るのを見届けた後、外付けの階段を登って自室の前まで歩を進めた。
自室の前まで辿り着いた夏樹は、半パンから取り出した鍵をドアノブに差し込む。
「――っ!?」
そこで違和感に気づいた。鍵が回らない――つまり、開いていたのだ。
鍵は確かにかけておいた。一人暮らしをする際”都会には変な人も多いから、鍵は必ず締める事!”と家族全員から耳が痛くなるほど聞かされたので、忘れることは絶対にあり得ない。夏樹はそんな奴返り討ちにすると言ったりもしたのだが、”絶対に駄目ッ! 夏樹ちゃんが汚されちゃう!”とよく分からない注意を受けた。
何はともあれ、鍵が開いているのは事実だ。締めたはずの鍵が開いている。ここから真っ先に考えつくものは……泥棒だろう。
夏樹は一瞬、大家さん、もしくは他の部屋の誰かに相談すべきかとも考えたのだが、つい先程の大家さんとの会話が頭を過ぎった。
――立派な漢になるんじゃぞ!
立派な漢。それは夏樹の夢であり、目標だ。
この女の子のような身体から、幼い頃はまだしも、もう立派に成長期を迎えた現在でさえ女の子に間違えられる事は日常茶飯事。自分の事を男だと知っているはずの家族でさえも、冗談半分で時折女の子のように接してくる始末。
そんな日常が積み重なり、夏樹に漢らしくなりたいという思いを強く抱かせた。
……立派な漢なら、泥棒くらい1人で何とかするよな!
夏樹は鍛錬を終えたばかりのまだ冷めきっていない頭でその考えに行きつくと、ここに住み始めてから約一年。今までで一番力強くドアを押し開き、全力で部屋へと飛び込んだ!
ローリングッ!
ローリングッッ!
立ち上がるッッッ!
「泥棒めッ! 覚悟しろ……あれ?」
素早い動きで部屋へと突入した夏樹。立ち上がりつつ6畳1間の小さな部屋を見渡すも、人っ子1人見当たらない。――と。
『もうっ! いったいな〜。何だよこの馬鹿力はっ!』
首をひねる夏樹の耳に、後方からハスキーな声が届いた。夏樹はその声に一瞬心臓をはねさせるも、直ぐに気合を入れバッと勢い良く振り向いた。……直後、目を大きく見開き唖然と棒立ちになった。
「部屋の中も男臭いトレーニング器具ばっかだし。……ここには可愛い男の娘が住んでいるっていうのは嘘だったのか? ま、まさかあの気持ち悪い写真の男が住んでいるとか……? クソッ姉上め。後で覚えておけ……よ?」
振り向いた夏樹の目には、顔を押さえて床に座り込む少年の姿が映っていた。少年の方も一拍遅れて夏樹の存在に気付いた様子。夏樹のくりっと真ん丸な瞳と視線が合うと同時、口を半開きにしたまま固まった。
「へ、変態?」
先に硬直から溶けた夏樹が口にしたこの言葉。それは正に、玄関でうずくまる侵入者の少年を如実に表していた。
今もなおフリーズしたまま夏樹を見上げているこの少年。やや青白くも整った顔つきは中性的ではあるが、夏樹が可愛いというのに対し、少年には凛々しいという言葉が似合うだろう。背丈は夏樹よりも大きいため、見た目ではいくつか年上のようにも見える。更にその短く切りそろえられた銀色の髪は、1本1本がサラサラと揺れている。……ただ、それだけなら珍しいというだけで、変態というわけではない。
……問題なのはそのすらっとした身体を隠す服装だ。それはつまり、真っ裸の上に黒のマントのみというものだった。変態。以上。QED.
その綺麗な銀髪からゆっくりと下に視線をおろしていた夏樹。胸元に差し掛かったところで、下に何も着ていない事がわかった。しかしその時は”変態”という言葉を出すに留める事ができた。続けて目線を下げ、おヘソよりも更に下。そこには……無かったのだ。男にはあるはずのモノが、無かったのだ。
「へ? ……き、きっ――」
家族以外のソコを始めて見た夏樹。そこでとうとう、既に赤くしていた顔を更に真っ赤に染め、声変わりしていない甲高い声で――。
「きゃ――」
「お、落ち着け! 騒ぐなっ!」
悲鳴を上げかけたその刹那。件の変態――否、少年――否、少女が目にも止まらぬ速さで夏樹に飛びかかり、床に押し倒すと共にその小さな口を片手で塞いだ。
『ムーッ! ムーッ!!』
「だから騒ぐなって!」
馬乗りされた夏樹は全力でもがくも、ビクともしない。少女は飛びかかった拍子にマントが脱げたようで、今は完全な素っ裸だ。夏樹の目にはその平らな胸まではっきりと見えてしまい、恥ずかしさから上手く力がでない。そして、やがて体力が底を尽き、肩を上下させて抵抗する力を弱めてしまった。
対する少女は、力果てぐったりと涙目で見上げてくる夏樹をしばらく無言で見下ろし……。
「……も、もしかして君がこの部屋の住人――
やがて口にしたその声は、どこか興奮の色を含んでいた。その凛々しい顔は変わらずクールフェイスなのだが、若干その頬が桜色に染まっているようにも見える。
問いかけられた夏樹は、しかし最後の意地とキッと少女の顔を睨み返した。……ただ、涙目で気丈に振る舞うその姿には相手を威嚇する威力は皆無であり、強いて上げるなら萌える要素しか含んでおらず……。
「ハァハァ。な、ナツキきゅん……ハァハァ」
――今だっ!
「うわっ!」
自分の世界に入っていた変態は、夏樹に身体を押された事でこちらの世界に帰ってきた。素っ頓狂な声を上げつつ尻もちをつき、顔を上げたところで部屋の奥へと後ずさる夏樹に気づく。
「き、君はやはり
「へ、変態に名乗る名など無いっ! 出でけえ!」
「うっ!」
涙目を釣り上げた夏樹が発した震えた声。それを聞いた変態は、胸を押さえてうずくまった。
「え? お、おい。……あの…………大丈夫……ですか?」
急にうずくまった変態に、夏樹は警戒しつつも心配の色を含んだ声をかける。しかし、変態はうずくまったまま反応を返さない。
しばらく様子を見るもやはり変態はビクともしない。やがて警戒より心配が勝った夏樹は、恐る恐る這い寄り、その陶器のような肩に手を触れ――。
「君こそボクが求めていた人間だっ!」
「うわっ!」
「お願いだ! ボクに血を吸わせてくれッ!」
後数センチで手が触れようかというその時。ガバッと身を起こした変態は、逆に夏樹の小さな両肩を掴むと、どこか必死さを含んだ大声で叫んだ。
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