背中 Ⅰ



 "刀ってのはさー、美しすぎるんだよね"


 声が、聴こえる。

 あいつの声が。


 "刃が切っ先に向かうこの感じがさー、もうヤバいよねえ。ポドロさんなんか、イカした女の腰骨みたいに色っぽいって鼻息荒げてたし。"


 あれは、いつの頃だったろう。

 そうだ……あいつが、刀から異国の剣に、得物を変えると決意した日。


 "つーかイカした女の腰骨って何よ? まあでも色っぽいかどうかは知らんけど、綺麗だっちゅーのは分かる。うん、問題はそれよ。綺麗過ぎるんよね"




 開戦から16分。




 血、埃と石塊いしくれ、そして火薬の残骸が散り散りに舞う煙に咳き込みながら、黒髪は意識を取り戻した。

 まるで蜘蛛の巣にかかったみたいに、しばらく動けなかった。肉体はおろか、五感も機能していない。前後の記憶すらあやふやだ。

 えずきながらも深呼吸を繰り返していると、だんだん視界が晴れてきた。奥に佇むうっすらとした光が、壁の穴から差し込む月明かりだと気づく。

 感覚も次第に取り戻すにつれ、記憶もよみがえってきた。そうだ、自分はあの女に相討ちを強いられた。咄嗟に身体をぴたりと重ねてはみたものの、結果はこのザマ……いや、命があっただけでも幸運か……。


 そんな所感が、またたく間に一転する。

 一緒に爆発を浴びた副隊長のその後、そして伏兵への杞憂に慌てて上体を起こそうとした時、かつてない激痛が全身を駆け巡った。

 うめき声すら出せない程、肉体は限界を迎えていた。

 起き上がる気力すら持てない程に、苦痛に心を支配されていた。


 そういった弱気に拍車をかけるかのごとく、暗がりに慣れた視力と腹に感じた重量が、その正体を徐々に明らかにさせる。

 天井にこもった煙が青白く照らされた下に、副隊長の姿があった。黒髪のへそに右耳をつけながら、固まっている。

 彼女はとても軽かった。その理由が次第にあらわとなる。

 副隊長の腰から下は、どこにも見当たらなかった。腸にくるまれた背骨を剥き出しにしながら、今なお黒髪の腰に抱きついている。


 渇いたため息が、闇に溶けて沈んでいく。

 心が折れそうだった。

 立てる気がしない。

 気力が、まったく湧いてこない。

 この女と一緒にくたばっていた方がマシだと思うくらいに、身体が動くことを拒絶する。


 まぶたを閉ざそうとした時、あいつの言葉が、再び脳裏をよぎる──。


 "その点剣はさ、もうこれしかないってフォルムじゃん"


 月明かりがこぼれた剣身に、弱々しくも、確かな輝きが纏う。


 "両方の刃がさ、それぞれまっすぐ突き進んだ先に互いにぶつかって切っ先となる。もうコレ最高じゃん。たまんないじゃん。分かる? まだわっかんないかお前にはー"


 副隊長の胸を貫いた剣身は、あの頃と変わらず、まっすぐ伸びていた。


 "ヤダよ。いくらお前でもこれはやれないね。こいつは俺の宝物なんだから"


 あいつから受け継いだ剣をまじまじと見つめながら、黒髪は大きく息を吸い込み、奥歯を噛みしめた。


 "じゃあ、貸してやるよ。いいか? あげるんじゃなくて貸すだけだからな。いつか、必ず、返しに来いよ。借りパクすんなよ"




 わめき声が、石造りの室内をこだまする。

 重苦と臆病さを跳ね除けようとする叫喚が、もう一度、ズタズタになった肉体に、心の置き場を求める。

 副隊長の腕から抜け、起き上がるまで、黒髪は一生分の声を張り上げた。そのまま情け深い手つきで彼女のまぶたをおろし、すでに固くなった肉から、なるべく傷をつけないよう、一気に剣を引き抜いた。


 フラフラよろめきながらも何とか建物を出ると、回復した五感が、新たな痛みを主に知らせた。

 まず焼けるような痛みを発したのは、左首から顎にかけた箇所だった。悶えながらさすると、文字通り焼けていた。

 そよ風が切り刻むように肌を撫でる。呼吸のたびに左腹が割れるように唸り、節々の骨が軋む。肉は、もはやどこが痛いのかも分からないくらいどこもかしこも痛い。左目だけを閉じると、右上が泥で濁ったみたいにぼやけている。


 それでも、黒髪は倒れない。まだ半ば朦朧とする意識のまま、剣の鞘を探す。

 被爆地点から少し歩いたところに、鞘を付けた帯剣ベルトを握る遺体を見つけた。こちらも死後硬直で引き剥がすのに苦労したが、黒髪はこれ以上傷をつけようとはしなかった。

 ようやくベルトを取り戻した時、重ね着していた白い半袖がはだけ落ちた。七分袖の黒の肌着も、ところどころ破れていることに気づく。

 ハッ、としては慌てて懐をまさぐる黒髪。物心ついた頃から肌見離さず持ち歩いていたものは、あちこち血で汚れてはいるもののちゃんとそこにあった。

「……くそっ」

 ページが無事だったことにホッとする自分が、ひどく滑稽で、腹立たしくて、それでいて胸につきまとうやわらかな困惑に、感情を上手く整理できずにいた。

「アホか……俺は……」

 ヤコイ? イルーシャ? 

 神? 人種? 正義?

 そんなの知ったことか。くだらない名詞に振り回されて生きるのはまっぴらごめんだ。

 それなのに……。そんな接続詞に、黒髪は思い詰める。

 どうして、こんなちっぽけなもんに執着してしまうのだろうか。

 いっそのこと、燃えちまってくれてたら、どんなに楽だろう。

 何度痛みを乗り越えれば、たどり着けるのだろう。

 いつの間にか背負っちまったあらゆるものを、さっぱりと捨てて、どこかに行けたら、どれだけ……。

 激痛が、否応無しに、意志を曇らせる。

 それでも、折れなかった剣に、再び心が奮わされる。

 まっすぐであってくれる、この剣に、己と、これまでが重なっていく──。


 それはまるで、技量を損なわぬために練習を欠かさない奏者みたいに。

 それはまるで、鳥が翼にたくわえた、羽根の一枚一枚みたいに。

 母が絶痛を経て産んだ、赤子みたいに……。

 どんなに苦しくても、うんざりしても、手放せない存在になってしまったのだと、気づいてしまったから。


 今にも泣き出しそうな顔で吹き出しながら、黒髪は折れた肋を包むように、帯剣ベルトを腹に縛り付けた。にわか作りの応急処置だが、ほんのわずかに呼吸が楽になった。

 そこで、黒髪はふと気づいた。

 副隊長に外側から抱え締められていた左腕……その先端である、左手の中指と薬指の第一関節から先が、欠けていた。熱と埃で固まって、黒ずんでいる。

 ゆっくりと、拳をつくってみた。動かすと鈍い痛みが頭に広がり、握るとキリキリと血液が刻むように左半身を巡る──。


 問題ない、と黒髪は涼しい顔で踏み出した。

 この剣はまだ、折れずに、ここにある。

 黒髪は落ちていた別の長剣を見つけると、破いた肌着で左手にキツく縛り付けた。

 これなら、まだ使い道がある。

 まだ走れる。

 まだ、戦える。

「もうすぐだ……イズナ」







 ──メスガキ。

 お前を越えさせたものは、なんだ?

 お前の捨てられないものは、なんだった?


 柄にもなく、知りたくなっちまった。

 俺にも、みせろよ。

 相棒あいつだけに視せるってのは、不公平ずるいだろ。


 さあ、行こうか。

 肉体おまえは、俺だ。

 細胞おまえは、俺そのものだ。

 必死についてこい。

 イズナを追いかけた、あの頃のように。




 雲の割れ目から、月明かりが差し込む。

 その方角へ、黒髪が押し出されるように駆けていく。

 いまだはっきりしない意識の中、ただひたすら、無我夢中に、駆けていく。

 あの頃のように。





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