神は神の子らを愛す

跳ね馬

chapter Ⅰ 黒髪と茶髪

誰がために死はある



 息を吹きかけられたタンポポの種のように、四肢が飛び散る。残骸は瞬く間に土の一部と化し、屍の山を築いていく。

 マブトゥールの初陣は、そんなかたちで幕を開けた。両軍、千を超える兵士たちのぶつかり合い。肌が裂けるほどの叫喚、地が割れるほどの突撃は、丘上から眺めていた彼の心を大きく震わせた。

 息が上手く吸えなかった。生者が強制的に死者へと変えられる光景は、想像よりも遥かに容赦がなかった。これまで見聞きしてきたものは、19年の人生は、まるで曇ったガラスを通して眺めていたのかと感じてしまうほどに。

 戦場ここは、すべてが違っていた。

 たまらず口元を押さえるマブトゥール。安全な本陣にいると分かっていても、凄惨な景色に圧倒される。血渋き、四散する臓物。理性のたがを外しては飢えた獣のように涎を撒き散らし、言葉にならない雄叫びを唱え武器を振り回す兵たち……。そんな有無を言わさぬ現実に、胃の中が乱暴にかき混ぜられてしまう。

 これが、戦場。

 胃を空っぽにすると、革の水筒を差し出された。くれたのはマブトゥールと同じ銀の甲冑プレートアーマーに包まれた、二回り年上の男。肩当ガルドブレイスには盾の紋章が刻印されている。

 男はヘルムの面部を上下に開き、穏やかな顔を見せてから声をかけた。

「いかがですかな、マブトゥール様。これが戦場の空気というものです」

 気遣ってくれるこの男は、師の部下。つまりマブトゥールのお目付け役のようなものだ。中尉とは名ばかりの未熟者を見守るためにあてがわれた。

 マブトゥールは水の礼すら忘れ、前線の殺し合いに声を震わせる。

「せ、戦況は?」

「強いて言えば五分五分ですかな。まだ開戦して間もありませぬゆえ」

「だ、だいぶ押されてるように見えますが。すでに数百人は討たれているし」

「ははは、戦の始まりというものは毎度このようなものです。そのために前線を傭兵ようへいで固めているのですから」

 言葉通り、軍の前線に配置されている多くは雇われの者たちだ。甲冑はおろか胴鎧キュイラス籠手ガントレットといった軽装備すら満足にしていない。

 男は夕食のメニューでも告げる口調で続ける。

「将の仕事は戦に勝つことですが、そのためには策略を用いねばなりませぬ。策略とは、いかに兵を使うか。それは、兵をどこでどう死なせるかと同義にございます」

「主にその汚れ役を担うのが、傭兵や下級兵……」

「需要と供給というやつですな。されど我が国は報酬リターンに恵まれていると言えるでしょう。人種や身分を問わずこれだけの兵を集められたのは、ひとえに女王陛下の聡明かつ寛大な御心の賜物にございましょう」

 もう一度前線を眺めてから、マブトゥールはこう口にした。

「……最も公平な不条理」

「は?」

「先生が前に仰っていました。戦場とは、世の営みを偽りなく映す場所なのだと」

「たしかに。死だけは誰にでも平等ですからな」

 男が離れても、マブトゥールはしばらく前線を眺めていた。そこには正義も悪もなかった。生き残るために本能に従う者たちの姿が、人には見えなかった。違う生き物に見えたから、正義や悪でくくれるような場所とは思えなかった。

 どんな言葉で表したらいいのか、マブトゥールには分からない。分かったのは、胃液と共に込み上げる恐怖と嫌悪。それに呑み込まれてしまいそうになる、己のちっぽけさ。

 "彼"を目にしたのは、そんなときだった。

「……え?」

 開戦から押され気味だった前線が、ある一ヶ所を基点に、徐々に盛り返していた。針を刺すように敵陣に穴を空け、その空白に侵入した後続の兵たちが方々へと展開していく。溝は瞬時に広がり、左右へ波及しては敵軍を押し込んでいった。

 その穴を空けていた者、つまり先陣を切って敵兵を討っていく者を遠眼鏡で捉えたとき、マブトゥールは心を奪われた。

 彼は同年代の青年だった。重ね着シャツとパンツ姿に長剣ロングソードを一本握った出で立ちは、俊敏な線こそうかがわせるものの、矢槍が飛び交う前線では裸一貫も同じに見えた。

 されど外傷は見当たらなければ、返り血すら数えるばかり。敵は今なお彼を討とうと、剣や槍や鉄槌ハンマーで四方八方から襲いかかるが、どれも捉えることはできない。

 それどころか、痛みに顔を歪めたのは敵兵のほうだ。手首、膝、首。それぞれの場所から鮮血を散らしながら、将棋倒しのように倒れていく。歯を食い縛りもう一度武器を手にしたときには、すでに青年の姿はなく、間近で傍観していた者すらも、彼が何をしたのか分からなかった。

 遠くにいたマブトゥールには見えていた。青年が軽やかなステップと柳のような柔軟さで攻撃をかわし、すかさず死角から剣を放ったのを。相手の防具に応じて目標を変え、露出した部位を正確に狙ったのを。

 物心ついた頃から鍛練を怠らなかったマブトゥールも初めて目にする技量に、息をするのも忘れて見入ってしまう。だが何より目を引かれたのは──。

「くろかみ……?」

 その容姿。眉と耳にかかるその髪は穢れを知らない艶やかな黒色で、無垢な顔立ちに相応しいその瞳は、何物にも染まらない黒を携えていた。そして──。

「す、すごい……」

 無駄のない動き。時計のごとく正確なタイミングから繰り出される剣筋。そして、雪崩のような敵群を前にしても一歩も引かず、ひたすら斬り進んでいくその揺るぎない意志が現れた姿勢に、マブトゥールは心の底から嘆息を漏らした。

 吐いてしまうほどに目を背けたかった場所は、いつしか眺める者を魅了させる芸術画のような光景へと変わっていた。

 その中心にいたのが、黒髪の青年。

 その背中は、マブトゥールがずっと夢描いてきた姿でもあった。恐れず、屈しず、何物にも染まらない、圧倒的な前進。前に、前に、前に。それこそ、磨き上げられた剣のように。

「美しい……」


 大地が揺れている。魂の咆哮はやまない。矢が剣が、人馬の四肢が、あちこちから飛び交う。命が命を喰らい、生が死を生み出す。

 それが、戦場。

 ここに、正義はない。マブトゥールはそう悟る。博愛も、尊厳も、ここには存在しない。

 あるのは勝者と敗者。いつの世も敗者は屍へと変化を強いられ、勝者がそれを踏み砕く。

 それが、現実。まごうことなき、世界。

 黒髪の青年は、今日もまた敗者を生み出す。食うために、得るために、生きるために、命を喰らう。生が死をつくり、死が生を支える。

 それが、戦乱の世。


 ザンブロア国の名家出身であるマブトゥール。彼はこの日、初めてその世界に足を踏み入れた。

 ここからいくつもの想いが、彼にりをかけ、壮大な物語へと紡いでいく。その中でも特に太い一本となるのが、黒髪の青年だった。





━━━━━━━━━━



【ザンブロア王国歴━━736年晩春━━】



 大陸のほぼ中央に位置する国、ザンブロア。つい数年前まで老人のようにひっそりと過ごしてきたこの国は、今たいそうな熱気に包まれている。進軍前夜セレモニーの余熱だけが、理由ではないのだろう。この日多くの民が、祖国の繁栄を確信していた。

「女王陛下ばんざーい! ルー様ばんざーい!」

 城下のそこかしこから、そんな歓声が上がっている。騒いでいるのはきまって、戦に参加しない者たちだ。いつの世にも、無責任という名の旗を掲げて煽る者はいる。

 そして、彼らに糸をくくりつけている者も。

 酒場はどこも満席だった。城に近い店ほど上品で、赤茶色の髪の客が優雅にグラスを鳴らす。ザンブロア人だ。

 対して郊外に行くほど野蛮な声が聞こえ、様々な色の髪が見てとれる。戦の前金を酒に変えてしまう彼らは、傭兵と呼ばれる人種だ。その日暮らしの渡世人。忠義を持たない彼らは、いつだって利害に従う。値段によっては命を棄て、また奪うことさえいとわない。

 黒髪の青年が飲んでいたのも、そんな騒がしい店だ。あれから3ヶ月。彼は17歳になった。

 その対面に座るのは、彼と同じ年頃と体格の茶髪の男。安物の布切れを頭から何枚もかぶったような服装で、むしゃむしゃと揚げた豚足にかぶりついている。

「──明日は何時出発だっけ?」

 骨を溶かすくらい丁寧に肉を食べ終えると、茶髪はそう尋ねた。声にいくらか幼さが滲むのは、まだ18歳だからではなく、陽気な性根の表れだろう。

「昼過ぎとか言ってたな」と答える黒髪は対照的に、石像のようにクールだ。

「ずいぶんゆっくりだねぇ」

「お前が言ってたアレが原因かもな」

「ああ、国のお偉いさん方が揉めてるって噂? なんかキナ臭そうだよねぇ、今回の遠征」

「貰えるものさえ貰えればなんでもいいけどな」

「キミは相変わらずなんだから」

 茶髪がおかわりを持ってきた店員を口説いている間、黒髪は隅の席に目を向けていた。葬式の帰りかと思うくらいに暗く沈んだ若者たち。髪色が示すように、彼らは初陣を控えたザンブロアの兵士だ。グラスを持つ手がいくつか震えている。

「あ~あ、フラれちゃった」

 ナンパに失敗した茶髪は、髪型が地味だったのかなと思っては銀筒の髪留めを外し、クセっ毛の長髪をほぐした。色々と試行錯誤するも、結局は普段の髪型におちつく。前と横の髪を後ろで結い、大きな二重を露にする。気に入ってるわけじゃなく、こうしないとオデコが痒くなるのだ。

「ん、なに見てんの?」

「いったい何人死ぬんだろうな」と黒髪はつまらなそうな顔でグラスを傾けた。

 茶髪も視線を向けてみるが、興味の対象には至らなかったようだ。かじった肉を噛みながら皮肉混じりに批評する。

「俺のお母ちゃんが生前こう言ってたよ。幸せってのは己に見合った生き方をすることだって。若者特有の承認欲求は分からんでもないけど、ザンブロアは景気良いんだからもっと割に合う仕事すればいいのにね。怖いんなら金持ちの靴でも磨けばいいし、身体鍛えたいんなら銀山でツルハシ振り回してりゃいいのよ」

「そういや後金と出来高はすべて銀貨だったか」

「太っ腹だよねぇ。ま、この国は海辺で塩造りするみたいに銀が採れるからなんだろうけど」

「内訳は?」

「この前のランパーダ戦のときとほとんど同じじゃない? あ、でも騎兵は結構値上がりしてた気がする。騎兵殺すのが得意なキミには好都合だね」

「上から見下ろされるのが苦手なだけさ」

 入り口のほうで歓迎の声が上がる。現れたのは肌が焼けて体躯のがっしりした、頭髪の寂しい中年。彼は二人に気づくと、笑顔で手を上げながらやって来た。

「よお、やっぱりお前らも来てたんだな。配属は誰の隊だ?」

 茶髪がこめかみを押しながら答える。

「え~っと、たしかマブトゥールって言ったかな?」

「おお、そいつはアタリだよ。たしかどっかの名家のボンボンだから、無茶な突撃はしないだろうよ」

「あんたは?」

「俺は第三左翼の前線、サイラスの部隊だ」

「あのサディストかぁ、あんたも災難だね」

「ホントだよ、まったく。俺たち傭兵にとっちゃ部隊は仕方ないにしても、できればお前らと一緒が良かったぜ。くっついてりゃ生き残れるからなぁ」

「なんとかなるよ、あんたは運がいいから」

「そうなることを祈ってるよ。まぁ、なんだ。今回の遠征が終わったら一緒に飲もうぜ」

 男が仲間の席に戻るのを見届けると、茶髪は首を振りながら言った。

「あのおっさん、今回は無理かもねぇ。イカれた指揮官の部隊に入れられたのが運のツキだ」

「誰の部隊でも一緒だよ。結局、最後にモノを言うのは自分の腕っぷしだ。誰かに助けてもらおうなんて奴は救われねぇ。それは別に戦場に限ったことでもないしな」

 茶髪はニヤニヤして見ている。

「なんだ?」

「いやね、キミらしいと思ってね」

 口角を上げることも眉を寄せることもなく、黒髪も茶髪を見つめる。短い視線の合致。茶髪と知り合って3年、いまだに彼のすべてを知るどころか分からないことのほうが多いが、それは黒髪にとって大きな問題ではなかった。

「お前も人の肉まで平らげちまうところは相変わらずみたいだな」

「だって、ここの豚足チョー旨いんだもん! あ、そこの魅力的なお尻のお姉さ~ん、おかわりおくんなまし!」

 重要なのは、お互いの隣にお互いがいること。無意識にではあるが、二人はそれを理解していた。



 中立主義であったザンブロアが軍事政策に重きを置くようになったのは、つい最近のことだ。5年前に先代の王が崩御ほうぎょし、王位継承権を持つ第一王女が即位すると、300年続いた中立と信仰の国は大きな転換を迎えることとなる。



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