第11話 炎に願いを

 国立がく博物館を出発したラクニルの生徒達がホテルに到着したのは午後五時頃だった。


 一泊の金額が即座に予想できない豪華なホテルだ。

 赤い絨毯が敷かれた広いフロントの至る所に置かれる装飾品。天井からぶら下がるシャンデリアが柔らかい光を放ち、何気ない調度品にすら高級感を与えている。金のない大学生や出張ビジネスマンが使う安宿とは文字通り格が違った。


 大理石で作られた受付前で点呼された後、教師から部屋ごとにカードキーを貰って一時的に解散。午後六時からは一階の宴会場で夕食の予定であり、それまでは自由時間となる。と言っても、たった一時間足らずではなにもできない。多くの生徒は荷物を置くために部屋へと向かっていった。


「私達も行こうか、それとも先にちょっと売店を覗いてみる?」

「ううん、今は大丈夫だよ」


 カードキーを受け取ったとおは、同じ部屋になったかたばねしょうが首を横に振ったのを確認してから歩き出す。


 少し離れた場所では、隣室に割り振られた一年A組の男子達が『なに!? 元々三人用の部屋だから布団が三組しかないだって!?』『こうなったら誰かが犠牲になるしかないでござるなあ!』『折角だしゲームで決めようよ、良い感じに時間もあるしさ』『受けて立とう、容赦はしない』と何やら楽しそうに騒いでいた。誰が貧乏クジを引くかは、わざわざ結果を確認するまでもない。


「……、」

「どうしたの、マキちゃん」

「へ?」


 何となくその様子を見ていると、歩きながらリュックサックを背負い直した片羽に声を掛けられた。


「……ううん、何でもないよ。ただ、仲が良いなって思って」

「だねー。霧沢君もすっかり馴染んじゃったよね、他の三人は去年からクラスが一緒だけど」

「本当よ、四月は天城家出身なんて言うから針のむしろだったのに……まったく、いつの間に」


 三台あるエレベーターの前には生徒の行列ができている。並ぶのが面倒であり、四階まで階段を使う事にする。

 どうやらこの階段はホテルの従業員も使うらしい。夕食や部屋の準備で忙しそうに走り回っている人達とすれ違った。


 唐突に。

 片羽が足を止めて振り返る。


 すれ違ったのは割烹着を着たお婆さんだった。手すりで体を支えてはいるが、それでも足取りはしっかりとしている。夕食の調理中なのだろう、空間に残った美味しそうな香りがふわりと空腹を刺激してきた。


「翔子、どうしたの?」

「ちょっとね……なんか、気配が」


 気配? と訊き返すも、割烹着を着たお婆さんを見ている片羽からの返答はない。ようやく視線を戻したと思っても、あどけない顔には疑問の色が濃く滲んでいた。


「もしかして、あの人も? だとしたら、あるいは……」

「翔子?」

「ごめんマキちゃん、部屋に行こう」


 片羽に促される格好で階段を上っていく。

 目的の四階は、今までの洋風な造りとは打って変わって和のテイストがこれでもかと詰め込まれていた。まるで政治家の先生方が大切な話をする時に使う高級日本料亭だ。石畳の通路の周りに敷かれた白い砂利に、しゅりの柱や壁細工。ベッドではなく敷布団で寝たいお客様のためにワンフロアだけ改造したのだろう。


「予想はしていたけど、すごく良い部屋ね」


 旅番組で良く見る和室である。

 敷き詰められた畳に、素朴な味わいのある土壁。段違いの棚に、木枠に嵌まった障子。くろうるしが塗られた座卓の上には茶器とお菓子が置かれている。初めて入ったはずなのに、何故か懐かしさを感じる不思議な部屋だった。


「やっぱり。マキちゃん、こっちの部屋に布団が一組多いよ。なんか二人用にしては部屋が広いと思ったんだよね」


 に腰を下ろして一息付いていると、襖を開けて頭を突っ込んだ片羽が布団の枚数を数えながら言った。

 ふと、学校からは男女三人ずつで参加するように言われていた事を思い出した。どうやらホテルの都合でそう言われていたらしい。


「男子達に気を遣うなんて翔子は優しいわね、くつろいでたらスッカリ忘れててたわ」

「だって、あのままじゃタカ君が布団なしで寝る事になっちゃうから。これくらいの事はしてあげないと」


 片羽は楽しげに携帯端末を操作する。布団争奪戦に敗れて頭を抱えている上柳に朗報を知らせているのだろう。


「ねえ翔子、ちょっと訊きたいんだけどさ」

「なに?」

「翔子と高澄君って、その……付き合ってるの?」

「ううん、まだだよ」


 即答。

 顔を赤くする訳でもなく、照れ隠しで誤魔化す訳でもなく、表情一つ変えずに答えた。だがその反応は、何か消化できない感情を無理やり押し殺したようにも見える。


「まだ、って事は……やっぱり?」

「うん、タカ君の事は好きだよ。ライクじゃなくてラブの方で」

「だったら、どうして? 翔子だって本当は……」


 足を崩して座った友人は、含羞はにかみながら胸の前で携帯端末をぎゅっと握り締めた。


「今は、ダメだから。タカ君は目標に向かって動き出して、私もそれを応援したんだよ。だったらをさせるべきじゃない。それにタカ君は心の準備ができてないだろうし、告白しても困らせちゃうだけだよ。だから、今はまだ……」


 噛み締めるように告げられた言葉。

 それが本心なのか、自分を納得させるための嘘なのか、遠江には分からない。


「そう言うマキちゃんこそ何か良い話はないの? ほら、霧沢君とか」

「もう、翔子までそんな事を……」


 昼間にホワイト・アロー号の甲板デッキでキャットにも同じ事を言われていた。形の良い眉を憮然としかめた遠江が、細い腕を組んで首を横に振る。


「ないわね、一切ないわ。今後そういう展開も有り得ない」

「えー、そうなの? なんか良い感じじゃん。マキちゃんだって、霧沢君と話す時は他の同級生クラスメイトに比べて楽しそうだし」

「それは翔子の見間違いよ。……まあ確かに、霧沢君は他の同級生クラスメイトとは違うけど、それって好意じゃなくて苦手意識って感じだし」


 底が見えない、理解できない、という不安要素は、かつて『裏側』の地獄を体験してきた遠江にとって脅威の対象でしかない。この感情が反転して恋愛に発展する可能性は紛れもなくゼロだ。


「そうなんだ、残念。霧沢君ならマキちゃんの相談相手になれるって思ったのに」

「無理よ、無理。言い合いになって終わるだけ。それに、何か相談するなら翔子に相手をしてもらいたいわ」

「うーん、私じゃ難しいと思うよ。多分、マキちゃんの求める答えを返せないし」

「そんな事ないって、どうしてそう思うの?」

「だって、私じゃマキちゃんが抱えている問題を想像できないんだもん」

「問題……?」

「マキちゃんがずっと秘密にしてる事だよ。多分、私達には話せない内容で」

「っ」


 さぁー、と。

 潮が引くように顔から血の気が消失していく想いになって、言葉を失った。


「一般論を言ったり同情してあげたりならできるけど、そんな薄っぺらい言葉が欲しい訳じゃないでしょ? 的確に助言したり、本当の意味で寄り添えるのは、同じ立場にいる人だけ。少なくとも一年A組でマキちゃんと対等なのは霧沢君だよ」

「どうして、それを……誰にも話した事なんてないのに……」

「気付かない訳がないよ、ずっと一緒にいるんだから。それに偶にさびしそうな顔もしてたし」

さびしい……私が?」

「うん、行きの船の中でもしてた。今だってなんか元気ないでしょ? いくらみんなから頼られたとしても、隣に誰もいないなら孤独と同じ。対等な立場で、自分と同じ目線から物事を考えてくれる人は絶対に必要だよ。傍で支えてくれる人がいないなら、胸を締め付けるさびしさを打ち消す事はできないんだから」

「——、」


 絶句した。


「(さびしい? 私は、本当にそんな事を……?)」


 言葉の矢が、心の中で最も脆い部分に深々と突き刺さる感覚。


 その感情を、素直に認める訳にはいかなかった。

 だって、認めてしまえば、やっとの想いで手に入れた『平和な日常』に馴染めていない事になるから。


 だけど、心のどこかでは納得している自分もいた。

 的を得ていると。

 さびしいという表現こそが、今の自分の弱さを表す最も的確な言葉なのだと。


 そして、何となく予想できた。


 多分、その言葉は。

 超自然現象オカルトえるのに、誰にも相談できず孤独を感じたという経験が元になっているのではないか?


「……ねえ、翔子」


 やっとの想いで絞り出した声は、弱々しく震えていた。


「分からない物、知らない事があるのって、怖くないの?」

「怖い? どうして」

「だって、何が起こるか分からないんだよ。命令の書かれた裏返しのカードを表にするのと同じ。準備はできないし、対策も立てられない。ただ無慈悲に理不尽な要求を突き付けられて、大切なモノを失うかもしれない。……私はね、自分の目の前に裏返しのカードが並べられている状況に不安を感じるの。胸が詰まって、苦しいくらいに」


 不安。

 得体の知れない霧沢直也の事だけではない。常識や価値観のズレを感じる学校生活に、迫りくる『裏側』の恐怖。それらは全て考えても、悩んでも、答えの出ない問題――分からない物、知らない事だ。


「翔子のには、私達にはえない世界が映ってる。綺麗な側面だけじゃない、思わず目を逸らしたくなる景色だってえてしまうんでしょ? だったら、私達より分からない事——裏側のカードが沢山並べられているはず。なのに、どうしてその不安を飲み込めるの? 何も感じていないように振る舞えるの?」

「珍しいね、マキちゃんがそんな後ろ向きなんて」

「後ろ向き……?」

「マキちゃんの言う通り、不安だって怖い事だって沢山あるよ。心霊現象オカルトっていう理不尽な暴力で怪我をした事だってあるし、誰にも相談できない苦しさも抱えてきた。える世界が広いからこそ、分からない物が多いからこそ、私には不安が沢山あるのかもしれない」


 でも、と片羽翔子は続けた。

 

「分からないから、知らないから、私達は理解しようとするんだよ。その不安はね、『自分の世界』という境界線を飛び越える理由になってくれる。まだ見た事のない景色に出会うためのキッカケ。カードに書かれた命令は、後ろ向きな内容ばかりじゃないんだから。マキちゃんだって、今までだってそうやって世界を広げてきたんでしょ?」

「……、」


 思い出す光景があった。

 それは、実験動物モルモット同然の扱いから抜け出すために、行き止まりな人生を破壊して明日を手に入れるために、研究所からの脱走を決意した瞬間。


 危険な決断だったはずだ。大切な物を失う可能性もあったはずだ。


 それでも一歩前に踏み出したのは、何故だ?

 自分の知らない世界を、この目で見てみたいと強く願ったからではないのか?


「分からない物も、知らない事も、あって当たり前なんだよ。だけど、そんな小さな弱さが『自分の世界』の枠組みを決める基準にはならない。立ち止まるための言い訳にはならない」


 様々な物がえる少女は、真っ直ぐに言い放つ。

 まるで、遠江真輝には見えない何かを知っているような口振りで。


「狭い世界で安心している内は、勝手な偏見で視界を曇らせている間は、多分ずっと怖いままだと思うよ。大切なのは知ろうとする想い。自分を守っている世界の壁を壊して、未開の地に踏み出していく勇気――それさえあれば、きっと私達に辿り着けない場所なんかないんだから」

「(ああ、そういう事か……)」


 何となく分かった事がある。

 どうして、かたばねしょうという少女に色々な物がえるのか。


 感受性が豊かだからではない。

 きっと、受け入れようとする心が広いのだ。


 超自然現象オカルトに対する素質や、芸術に関する才能はあったかもしれない。だが、それらは二の次。片羽翔子の瞳に映る景色が色彩豊かで、鼓膜を震わせる音の幅が広いのは、『自分の世界』の枠組みを決めずに知覚した全ての情報を受け入れようとしているからなのだろう。


 それこそが、強さ。

 特別な感覚を持った上で、それでも尚、前に進み続けた片羽翔子の矜持。


「(じゃあ、私は……?)」


 心を押し潰そうとする様々な戸惑い。今までは感覚の問題であり、慣れるまで時間が掛かるだけだと思っていた。


 だけど、本当にそうか?


 境遇の似ている霧沢直也——四月、全く味方のいない状態から始まったのに、気付けば友達を作って学園生活を満喫していた。そんな比べる対象が現れたせいで、いつまでも本当の意味で『普通の生活』に馴染めない自分の異質さが際立ってしまう。


 心のどこかでは怖がっているのではないか? 

 長い年月を掛けて培われた『自分の世界』の枠組みを破壊する事を。『裏側』で生き抜いてきた感覚を捨てて、欠伸あくびが出るほど平和な世界に染まる事を。


 結局。

 やっとの想いで手に入れた日常を受け入れていないのは、本当は自分自身なのではないか?


「それじゃ私、ちょっと出掛けるね」


 考え込む遠江を尻目に、荷物の整理を終わらせた片羽はいつも通りの調子で立ち上がった。


「え、今からどっか行くの?」

「うん、ちょっと調べたい事があってさ。多分このまま何もしないと周波数は合わないままだし、私の方から手を伸ばしてあげないと」


 夕食までには戻るねー、と言い残して片羽は部屋から去ってしまう。迷いのない足取り。引き留めようと言葉を掛ける隙すらなかった。

 残された遠江は座椅子に座ったまま背もたれに体重を預けて天井を見上げる。ライトブラウンの長髪が畳の上に垂れた。


「うーん、暇になってしまった」


 特にする事もないので、少し気になっていた障子を開けてみる。

 そこは椅子が一つだけ置かれた細長いフローリングのひろえんだ。大きな窓の向こうには、真っ赤な夕日の沈む太平洋が広がっている。窓を開けた途端、ふわーと入り込んできた茜色の南風が優しく頬を撫でた。夕食の準備をしているのか、出汁の良い匂いが鼻孔をくすぐる。


 木製の椅子に座り、夏服のスカートに手を入れた。

 取り出したのは安物のジッポライター。銀色の表面には薔薇で彩られたハートマークが描かれている。


さびしい、か……」


 キィン、と金属が鳴る涼しげな音。

 中指を弾いて蓋を開け、跳ね返ってきた勢いのまま着火筒フリント・ホイールを擦って点火する。ゆらゆらと波のように揺れるオレンジ色の炎を数秒見詰め、手首をスナップを利かせてカチンと蓋を閉じた。


 別に、隠れて煙草タバコを吸うために持っている訳ではない。

 これは、とある人の形見だった。

 実験動物モルモットの一匹として地獄で苦しんでいた少女に、光を示してくれた女性。


「いつまでも、これに頼る訳にもいかないんだけどさ」


 このジッポライターを握っているだけで不安だった気持ちが落ち着いていく気がする。錯覚かもしれないし、一時的な気の迷いかもしれない。それでも、いざという時に背中を押してくれるのは確かなのだ。


「……いつから、こんなに弱くなっちゃったんだろう」


 胸に走った疼痛を誤魔化すために、椅子に座ったまま両膝を抱える。こんな事で気落ちしていたら迫り来る『裏側』に対処できないのは分かっているのだが、心を奮い立てさせるだけの燃料を見つけられなかった。


 コン、コン、と。

 暗闇に飲まれかけた思考は、控えめなノックの音に掻き消された。


『上柳だ……えーと、予備の布団があるって聞いて来たんだけど』


 先ほど片羽が送った連絡に気が付いたのだろう。椅子から立ち上がり、ひろえんから出て部屋の扉を開けてあげる。


「悪いなマキ、開けてもらって……あれ、翔子は?」

「ちょっと前に出て行ったわよ、調べたい事があるって。悪かったわね、出てきたのが翔子じゃなくて私で」

「いや、そう言う意味じゃなくて」

「冗談よ、真に受けないで」


 そこで待ってて、と困惑する上柳に言い残し、遠江は襖から布団を一組取り出した。両手で抱えて、玄関の外で待つ上柳まで持っていく。


「……何してるの?」

「いやな」


 上柳は制服の内ポケットから取り出した携帯端末を操作して、高速で文字を打ち込んでいく。


「船の中で霧沢の知り合いって先輩と連絡先を交換したんだけど、その人から色々と聞かれててさ。質問に答えてるんだ。待たせて悪いな、布団を貰うよ……っと、サンキュー。助かった」

「お礼なら翔子に言ってあげて。私は微塵も気に掛けてなかったんだし」

「そっか、分かった。いつも助けられてばっかりだし、今度は何かお礼をしないとな」


 両手で布団を抱えて廊下を歩いて行く上柳の後ろ姿を見ていると、チクリと針に刺されたように胸が痛んだ。


 かたばねしょうかみやなぎたかすみ

 互いに全幅の信頼を寄せ、支え、補い合い、意図せずとも自然と隣を歩いて行ける。


 そんな二人の関係を、羨ましいと感じた。

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