第28話 空かない席
《高等部二年生 六月》
※ 前回のあらすじ
突如として襲ってきた柊グループの戦闘員を突破するため、霧沢直也が訓練刀を抜く。
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それは、鮮烈な記憶だった。
ここは
縁にわずかなガラス片が残った窓からは午後の明るい陽射しが差し込んでいるが、荒れ果てた部屋の端に背を預けて座り込んだ井之上までは届かない。風に運ばれてきた砂埃が堆積しているのだろう。床に手を付けるとザラザラした感触が返ってきた。
目の前で行われているのは、たった二人の男女による蹂躙だ。落ち着いた物腰の女子生徒と、
だが、唐突に踏み入ってきた侵入者に対して、全く抵抗することができなかった。人間が耳元に飛んできた羽虫を追い払うよりも簡単に、井之上を始めとした数人の
「(白い、
全身から白い
青、緑、黄、橙、赤、紫、黒、の順で上昇していく
高等部の制服を着た女子生徒は、気を失って動けなくなった
「ショージュン君、この部屋にいる人で全員?」
「はい、
「記憶はどうしたの?」
「前回と同じく思い込ませましたよ、存在しない
二人が何を話しているのか全く理解できなかった。
本当なら今すぐ逃げ出したいのだが、白い
「(……結局、俺はいつも流されてばかりだったな)」
学校生活にも、界力術にも、全く興味を抱けなかった。その内に同じような思考を持った連中と遊ぶようになり、最終的には
だからと言って、この結末に後悔がある訳ではなかった。守るべきプライドもなければ、実現させたい目標だってない。決断を他人に任せ、事を荒立てないように立ち回り、ただ大きな流れに乗るだけ。将来など知った事ではなく、可能な限り『今』を楽にするための選択を繰り返す。最も苦労しない生き方で辿り着いたのは、誰にも誇れない排水溝の底だった。
「さて、お前が最後だ」
足下に転がっていた
なのに。
ガクガクガクガクッ!! と井之上の体は震えていた。
男子生徒が近づいてくる度に胃が絞り上げられる。全身を締め付けるのはナイフを持った殺人鬼に追い詰められたような恐怖感。それが放たれる威圧感に由来する感情だと気付くのには少しだけ時間が掛った。
「……お前は、何者なんだ?」
思わず、口から言葉が漏れた。
「何が目的で、こんな事をしてんだよ?」
「どうして、そんな事を訊く?」
「さあな、自分でも解らない。他人に流されて生きてきたのに、頼るべき他人がいなくなっちまった。そのせいで、少しは自主性が芽生えたのかもしれない」
死に瀕した兵士が、恐怖を紛らわせるため冗談を口にするように、
「アンタには人様を傷付けてでも成し遂げたい何かがあるんだろ? 無為に時間を過ごしてきた俺からすれば、アンタの行動は異次元なんだ。意味が解らない。どんな目的があったら、そこまで本気になれるのか聞いてみたくなったのさ」
「……、」
路傍の石でも眺める色のない眼差しを向けられる。
この男子生徒には、井之上の事を名前を持った個人と認識できていないのかもしれない。二束三文で遣い潰される消耗品、街を歩けば当たるようなその他大勢の内の一人。きっと、こういう超然とした人間が上に立って群衆を率いていくのだろうと思った。
「……どうせ、お前には理解できない」
それは男子生徒にとって誤差。
話したところで影響がないと確信した上での気まぐれだった。
「俺達は、寺嶋家に喧嘩を売るつもりだ。全ての理不尽の根源であるヤツらの喉元に、被害者を代表して牙を突き立ててやる」
「――ハッ!!」
思わず笑いが溢れ出した。
その言葉は荒唐無稽で、とても信じられるものではなかった。年端もいかない子どもが将来は大統領になると宣言するようなもの。まともに取り合う気にはなれない――そう、本来なら。
「(すげぇな、こいつ!)」
ぞわぞわっ、と。
得も言われぬ感覚で、全身が
感情を映さない
「初めて見たよ、そんな夢物語を真顔で宣言する大馬鹿野郎は……けど、どうせ流されるならデカい流れの方が面白いか。――なあ、俺をアンタの駒として使ってくれないか?」
この冷酷な悪魔に心を差し出せば、きっと自分一人では辿り着けなかったゴールへと連れて行ってくれる――心を衝き動かすのは、そんな強烈な予感。
「要らなくなったら捨ててもらって構わない、捨て駒として使うのだって受け入れる! こんなクソみたいな場所に居ても何にもならないんだ。同じように時間を無為に過ごすなら、何かの礎になって野垂れ死にたい。今までは違ったけどよ、一回ぐらい決めたっていいだろ――自分の意志で自分の進むべき道ってヤツを!!」
宣教師に教えを説かれて救いを見出した民衆のような眼差しで、雪の降る夜からやって来たと思わせる静かな少年を見詰めた。
「俺の青春を、お前が使ってくれ」
× × ×
「偶に、自信をなくすんだ……俺の選択は本当に正しいのかって」
少し前を歩く
「自信を持てよ、ショージュン。お前はいつだって正しい選択をしてる」
「ありがとうゴウキ……お前はいつも、俺を肯定してくれるよな」
ふっ、と力ない藤郷の視線が何かを求めるよう隣に向けられた。
誰もいないはずの空間。
でも、藤郷の隣には今もまだ誰がいるのかを、井之上は知っていた。
「(アキラ、お前は今もまだ……っ)」
強烈な怒りで頭に血が集まり、奥歯で熱い感情を噛み潰す。
出会った時から、
何か努力や特別な事をするわけでもなく、ただ当たり前のような顔をして藤郷将潤の隣に立っていた。実際に行動を共にしている時だけではない。別々に動いている時でさえ、心の片隅にはいつだってその存在が常駐していた。ハッキリと決別を言い渡した今でさえも、そこが空席になる気配はない。
二人にどんな過去があったのかは知らない。藤郷が
きっと、何かあるのだろう。
井之上にとって
「ショージュン、アキラと逃げていった風紀委員は放っておいてもいいのか?」
「問題はないよ。
酷薄な笑みを浮かべた藤郷が、舞台役者のように両手を大きく広げて勝ち誇る。
「『第一校区の秘密』を守るために動き出しそうな連中は、全て柊グループの力を使って行動を制限してある。寺嶋家も、第一校区の生徒会も政治的に拘束してやった。あの場面に『
劣化して岩肌のようにボコボコだったアスファルトの道路は、いつの間にか雑草が生える砂利道に変わっていた。更に進むと、今度は広大な草原が見えてくる。
夜風に揺れる草の湖は月明かりを受けて淡い燐光を帯びている。中央には樹齢百年を超えそうな節くれた老木。すぐにでも朽ち果てそうなのに、夜を吸い取ったように黒い樹は、今もなお空気を震わせる程の威圧感を放っていた。
「長かったよ、ここまで来るのにあれから二年半も掛かった。全ては『結界』のせいだ、あれさえなければもっと事は簡単に進んでいたのに」
「……ショージュン、やっぱり俺にはその『結界』ってのがよく解らない。本当にそんなものが
「ああ、もう少し近づけばゴウキも実感できるよ」
膝下まで丈のある草を掻き分けて進んでいると、藤郷に地面から拾った石を手渡された。
「それを
「……? ああ、いいけど」
首を捻りつつも、井之上は石を握り直す。
気付けば、腕を下ろしていた。
「(……あれ?)」
どうして自分がここに立っているのか解らない。目を覚したら知らない誰かのベッドで寝ていたような違和感。不安になって藤郷を見た途端、何かの呪縛から解き放たれたのか目的を思い出した。
「なんだ、これ……?」
何度やってみても結果は同じだった。
「結界内に侵入しようとする者、あるいは結界を破壊しようとする者の認識と感情を切り離して行動を制限する。ライメイが言うには、『
始まりの八家の一つ『
自然界に存在する界力の流れ――
「あれ、第一校区は寺嶋家が管理しているんだろ? だったら、どうして
「その点に関してはライメイが興味深い事を言っていたな」
「……?」
「この『
始まりの八家の一つ『
「理論上、
寺嶋家の界術陣や他の六家界術師連盟に属する家の方式を使えば、どれだけ手の込んだ防御術式だとしても突破される可能性がある。であれば、ラクニルで使える人が少ない二家同盟の方式を採用した方が安全だと考えたのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
頭を抱えた井之上が、開けてはならないと厳命された箱の蓋をずらしたような顔になって、
「それじゃあ、他家の方式の術式だって使えるって事にならないか? それどころじゃない、
「けれど夢がある話じゃないか。理論で存在を証明して、
最新技術を元に未来を予想する科学者のように告げた藤郷は、携帯端末を取り出して電話を開始する。相手は
「ライメイ、やってくれ」
ばぢっ!! と、高圧電流が飛び散ったような高音が迸った。
グググググ……ッ、と
「――うおぉッ!?」
爆ぜた。
高層ビルの内側で爆発が起って、窓ガラスが一斉に外へ飛散していくような光景だった。
変化はそれだけではない。
「くっ……フハハハハハハハッ!! やったぞ、遂に破った! これで俺は、もう一度あの場所に……っ!!」
破顔した藤郷が両腕を大きく開き、体を仰け反らせて哄笑する。結界の残骸である紫色の燐光と共に夜空へ舞い上がるのは歓喜の雄叫び。二年半にも亘ってこの瞬間を求めてきた藤郷の心情を、井之上は推し量る事ができない。
だが、この世界は藤郷将潤を祝福しなかった。
「――待てよ、ショージュン」
声があった。
出会った時から嫌っている憎い相手の声を、聞き間違えるはずがなかった。
草原の向こう側。
夜に彩られた深い森を背後に、一人の少年が立っていた。
背中まで伸びる明るい長髪は一本に括られている。手足が長く颯爽とした長身に加え、鼻の高い鋭く整った顔付き。静かな闘志を瞳に宿して佇むその姿は、歳不相応に落ち着いた印象を少年に与えていた。右手には青いリストバンドが嵌められている。
草原の中央に生えた老木まで歩いてきた御代の夏服には土汚れが付着していた。長距離走を終えたように息も上がっているし、左右に分けた前髪も乱れている。すでに何度か戦いを終えてきたのだろうか。それでも切れ長の鋭い眼光は真っ直ぐこちらに向けられていた。
「……アキラ、これは何の茶番だ?」
苛立ち混じりに振り返った藤郷の両眼が剣呑に細められる。視線の先には、御代が左腕に嵌めている赤い腕章――風紀委員の証があった。
「見ての通りさ。俺は
好戦的な笑みを浮かべた御代が、革製のホルスターから
「
「やれるものならやってみろォ!!」
彫ったように角張った顔を大きく動かして叫んだ井之上が、藤郷を守るために御代の正面に移動する。
「行ってくれショージュン、コイツの相手は俺がする」
「ゴウキ、いいのか?」
「ああ、俺にやらせてくれ! やっぱり一度トコトンぶん殴っておかないと気が済まない!! 足止めのついでに今までの鬱憤を晴らしてやりたいんだよっ!!」
「そうか、なら任せた」
冷たい視線で御代を一瞥してから、藤郷は拉げた
「おい待て、ショージュン!」
「無視すんなよアキラ、お前の相手は俺なんだぜ?」
肩幅の広い井之上の全身から橙色の
「なあアキラ、俺はずっとお前の事が嫌いだったんだ。だからよ、これからやるのは八つ当たりだ。
「ふざけんな、いっつも邪魔ばっかしやがって! いいぜ、そこを
互いにどうしても認められない相手を黙らせるために、硬く拳を握る。
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