第21話 あの日の続き

 ※前回のあらすじ


 きりさわなおとの訓練を経て成長したかみやなぎたかすみは格上の相手であるもりしたしゅんに善戦する。このまま押し切れるかと思われたその時、実力カラーの二色差が牙を剥いて戦局は逆転してしまった。


 かつては神童と呼ばれた森下瞬の反撃が始まる。 


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 本音を言えば。

 森下瞬は上柳高澄の成長に驚いていた。


 てんいはかなり厄介な闘術だ。ただ立体的な高速移動をするだけの術式。話だけを聞けば大した事もないと感じるかもしれないが、その恐ろしさは実際に相手にすれば瞬時に理解できる。


 こちらの攻撃が当たらない。

 一方的に攻められ続ける。


 相手を倒すためにはこちらの攻撃を当てなければならない。そんな普段は意識しない前提にすら踏み込む界力術。かざよしひこがプロ界術師リーグで格上殺しジャイアント・キリングと呼ばれたのも納得できる凶悪さだ。


 だが、付け入る隙はいくらでもある。


 天狗舞いという闘術は、範囲攻撃に極端に弱い。


 漁と同じだ。海の中を泳ぐ魚が通るルートに前もって網を仕掛けておけば、後は獲物の方から勝手に罠に飛び込んできてくれる。


 仮に実力カラーが低ければ一撃を着実に当てるような戦い方になっていただろう。そうなれば速度と立体的な軌道に翻弄されていたかもしれないが、森下瞬の実力カラーは赤色。界術師全体で見ても一割未満しかいない高実力カラーであれば、涼しい顔のまま広範囲攻撃を連発できる。わざわざ上柳高澄にとって有利な条件で戦ってやる必要はどこにもないのだ。


「(どうやら、クスリを使う必要はなさそうだ)」


 ブレザーの内ポケットにしまった小瓶を意識する。

 これの使い所は次の戦闘。きりさわなおを叩きのめして、誰が上に立っているのかをはっきりさせてやる。


は溜まったかあ!? 今度はこっちからいくよ!!」


 右腕を上柳へと突き出して照準を合わせる。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ――】


 始まりの八家の一つであるかいどう。生み出した方式はじゅごんじゅつしき

 キース文字を正しい文法通りに発音することで術式を界力次元に投影。記憶次元に保管された世界の記憶メモリアが投影された『文章』によって反応し、現実次元で現象として再現される方式だ。


【――形状は刃フェルム オーバル性質は固定ナーツ ポーズ――】


 保管領域アーカイブに記憶したキース文字を選択し、構築領域ファクトリーにて単語化。それをすいたいを通すことで生命力マナと反応させ、常人では不可能な速度で発音していく。


【――空気よエル鋭くドゥーオ速くトリア敵を切り裂けセクード アルビート!! 発動グラータ!!】


 猛烈な勢いで空気が渦巻いた。それらは三日月型の鋭利な刃となり、弾丸のような速度で上柳へと飛翔する。


 呪言術式の強みは臨機応変に術式を構築できる点にある。視認できる範囲に対象の物体が存在するという条件は付くが、術者の語彙力と文章力次第でどれだけでも自由自在に現象を巻き起こせた。


 森下瞬が扱うのは六大要素の一つ『風』。対象物は空気。

 六大要素の中でも『火』の次に攻撃的な元素だ。


 ドガガガッ!! とカミソリのように鋭利な空気の刃が連続して床に着弾する。

 上柳は跳び上がることで躱したようだ。体から黄色い界力光ラクスを放っている。おそらく天狗舞いの加速を利用して速度を得たのだろう。


 焦ったような表情を浮かべた上柳が高速で周囲を飛び回り始める。ケージと呼ばれる技らしい。中等部の頃からもう何度も見てきた戦い方だ。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ――】


 以前ならゲージで飛び回っている最中にも攻撃を命中させることができた。飛び方に癖があり、何度も見てきたせいで感覚的にそれを理解していたからだ。


 だが、その弱点は修正されている。

 なら他の対応策を使うまで。


【――形状はなしノン オーバル性質は拡散ナーツ ディフーズ――】


 意識を背後に集中する。背中から少し離れた一面に術式の発動座標を設定した。


 周囲を飛び回る上柳の呼吸リズムが変わった。一気に距離を詰められる。


【――空気よエア収縮しコンタージオ広くドゥーオ激しくトリア拡散しろディフーズ アルビート!! 発動グラータ!!】


 ボフンッッ!! と森下の背後で空気が爆発する。

 即座に反応できなかった上柳は衝撃の壁に真正面からぶつかったはずだ。直撃しなくても余波だけでバランスは崩せる。


 案の定、爆発の余波に巻き込まれた上柳が無防備に落下していく。だが追撃のために構築領域ファクトリーで呪言術式を組み立てるよりも早く、宙で体勢を立て直されてしまった。振り返った時にはもうそこにいない。

 上柳は足裏からジェットを噴出させて上空へと距離を取っていた。先ほどのように着地しなかったのは闘術発動後の硬直を嫌ってだろう。


「逃げてばかりでいいのかよ、すぐにガス欠になっちまうぜ!!」


 完全に上柳のペースを崩せた。

 持久戦になれば実力カラーの高いこちらの勝ちだ。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ形状は刃フェルム オーバル性質は固定ナーツ ポーズ――】


 構築領域ファクトリーで呪言術式を組み上げる。

 同じ術式ばかりを使うのは、慣れている方が早く発動できるからだ。語彙や表現を増やせばもっと多彩な戦法が取れるのだが、それを怠っているのは素直に努力不足と言わざるを得ない。

 だが、あまり関係がないのだ。実力カラーが赤というだけで多くの生徒に圧勝できてしまうのだから。


【――空気よエア鋭くドゥーオ速くトリア敵を切り裂けセクード アルビート!! 発動グラータ!!】


 空気の刃が連続して放たれる。


 上空で唇を噛んだ上柳は天狗舞いを発動して躱した。同時に黄色い帯を訓練場に刻み込み、ゲージを使って意識を攪乱しようとしてくる。


 また背後へと奇襲を受ける。

 対抗するべく術式を組み上げて、発音することで界力次元に投影していく。


 そして、三度みたび背後から襲い掛かろうとしてきた上柳は勢いよく爆発した空気に巻き込まれた。


 今回もバランスを崩して落下していくはずだ。

 その隙に決着を付ける。

 勢いよく振り返り、トドメとなる界力術を構築領域ファクトリーで組み上げ――


「おらぁぁああああああああああッッ!!」


 舞い上がった粉塵を突き破るように黄色い界力光ラクスを迸らせた上柳が突っ込んできた。両手の甲には黄色い界力光ラクス防御壁シールドが展開されている。界力武装カイドアーツの機能か。衝撃の受けて速度は落ちているが天狗舞いは発動したままだ。


「(こいつ、攻撃を受ける前提で……っ!!)」


 辛うじて踏ん張ってバランスを保った上柳は足裏から界力を放出して姿勢を制御する。


 再び、あの蹴りが来る。

 天狗舞いの勢いと足裏のジェットを乗せた強烈な一撃が。


 反撃の呪言術式を組み上げるだけの時間はなかった。


 だから。

 森下は体に染みついていた行動を反射的に実行していた。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ発動グラータ!!】


 属性の利用。

 呪言術式が操れる六大要素にはそれぞれ正と負の属性が存在する。六大要素が概念的に帯びている性質の利用。目の前にある対象物を操るよりも感覚的に術式を組み上げる必要があり、発動する難易度が高い。幼い頃から界力術の英才教育を施されてきたからこそ放てる反撃だった。

 

 六大要素が一つ『風』。正の性質は『放出』。


 故に。

 ボフゥッッ!! と強烈な突風が上柳へ正面から激突した。


 破壊力はない。余分な単語を組み込むだけの時間と余裕がなかったからだ。

 ただ強風を浴びせただけ。それでも、迫り来る上柳の体を押し返すことはできた。


 目と鼻の先を薙刀なぎなたで払うような軌跡の蹴りが切り裂く。遅れてきた風が森下の短い前髪を激しく揺らした。


 接近されたままでは都合が悪い。身体強化マスクルを使って距離を取る。

 対する上柳は宙に浮いたまま姿勢を制御して力を溜めるように膝を折った。天狗舞いで加速するつもりか。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ形状は刃フェルム オーバル性質は固定ナーツ ポーズ――】


 狙いは付けない。

 牽制を目的として呪言術式を組み立てる。


【――空気よエア鋭くドゥーオ速くトリア敵を切り裂けセクード アルビート!! 発動グラータ!!】


 カミソリのように薄い刃が連続して飛翔する。

 慌てた様子で上柳は回避し、追撃を諦めて大きく距離を取った。


「(くそが、俺がここまで追い詰められるなんて!!)」


 上柳を睨み付けたまま、荒くなった呼吸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。

 すぐに次の行動に移れればいいのだが体が言う事を聞かない。純粋なスタミナ不足。今まで訓練をサボってきたツケが回ってきた。速度で遅れを取っているため一瞬の隙が命取りになりかねないのだ。集中力を欠いたまま戦うべきではない。


 だが、戦闘が長引いて苦しんでいるのは上柳も同じ。


 ほとんど氣が残っていないのだろう。体から溢れ出す黄色の界力光ラクスにも戦闘開始時のような輝きはなかった。切れかかった電球のように薄いモヤが明滅を繰り返している。


 氣を溜めようにもこれだけすいたいを酷使していれば充填効率は最低まで落ちているはずだ。少々の時間で再充填できるとも思えないし、そんな状態で満足に天狗舞いが使えるかどうかは怪しかった。


 消耗度合いだけ見れば、間違いなく上柳の方が上。肩で息をしながら中腰になって倒れるのを堪えるその姿は、まるで亀裂の入った古い岩壁だ。指で少し押してやれば音を立てて崩壊しそうな程に脆く見える。


 それでも。

 上柳高澄の瞳に宿った鋭い光は、全く薄れていなかった。まるで、追い詰めているのは自分だと言わんばかりに。


「……その目なんだよ。俺が、昔から気にくわなかったのはさあ……!!」


 浮かび上がった光景は二人の繋がりが完全に絶たれたあの瞬間。


 どれだけ距離を取ろうとしても、どれだけ足下に這いつくばらせても、その瞳からは逃げられなかった。完全に下にいるはずなのにどうしても無視できない。いつか追い抜かれるんじゃないか。そんな恐怖に苛まれたことすらあった。


「……なんなんだよ、お前は」


 気付けば、震える声が漏れ出していた。


「どうして諦めないんだよ……何回も、何回も、何回も! 俺はお前を叩きのめしてきた! 痛め付けてきた! なのにだ! どうして立ち向かってこられるんだよ!! 俺の目の前に立っていられるんだよ!!」


 それは、森下瞬がずっと心の底に押し隠してきた劣等感。

 本物の『天才』を見て絶望し、前に進むことを諦めた後悔。

 そして――上柳高澄へ抱いてきた嫉妬。


「俺よりも、お前よりも、強い奴はたくさんいる! 努力したって無駄なんだ! 絶対に勝てない連中ってのは存在する!! 夢なんか叶うはずがない、願うだけ無駄なんだ! それでもお前は! どうしてそんなに真っ直ぐ進めるんだよお!! 何がお前をそこまでさせるんだよ!! 教えてくれよタカ! お前はどうして……っ!!」

「……理由なんてない。ただ、俺は憧れたんだ」


 嗄れた声で、上柳は言った。


「なりたいって思ったんだよ、どんな強敵が現れても勝っちまう『あの人』みたいに」

「だけどさあ!!」

「それに!!」


 遮るように声を張り上げた上柳高澄の体から、黄色い界力光ラクスが迸る。


「俺の主人公ヒーローは――かざよしひこは言わなかったんだよ。どんだけ理不尽な状況に叩き込まれても諦めるなんて弱音はなっ!!」


 上柳高澄が走り出す。


 乾坤一擲の突撃。右腕に嵌められた赤い手袋グローブが鋭い光に包まれていた。かざよしひこから借りた界力武装カイドアーツで勝負を決める気か。


「舐めるなよザコがあ!!」


 構築領域ファクトリーで単語を組み立てながら、森下も一直線に走り出した。


六大要素が一つゼクス エレントヴェーツ属性は正ポージテ形状はなしノン オーバル性質は拡散ナーツ ディフーズ――】


 爆発の基点を背後の一面に設定する。


 上柳高澄の『癖』を利用した策。


 本人は気付いていないようだが、上柳は天狗舞いで死角から攻め込む時に相手の背後を狙う癖がある。確かにそこは死角だ。天狗舞いの速度をもってすれば確実に一撃を叩き込めるだろう。


 だがそこには、上柳高澄の弱点が隠されている。


 対戦相手への恐怖。

 実力カラーの低い上柳はどうしても格上の相手と戦うことが多くなる。初等部や中等部の頃はいつも自分より実力カラーの高い相手をばかり戦っていた。結果も負けの方が多い。しかも実力カラーの差で押し切られるような負け方がほとんどだ。


 瞳から戦意が消えなくても、口では強い言葉を使えても。

 脳裏に刻まれた敗北の記憶は今でも確実に上柳高澄の心を蝕んでいる。


 事実、この戦闘でも上柳は背後からしか攻めていない。相手の懐に踏み込むことを無意識に恐れているからだ。爆発の余波とは言え、高速で飛び回る上柳を迎撃できていたのは、この癖を知っていたからという理由が大きい。


「(さあ飛び込んでこい!)」


 術式は完成させた。

 今の上柳では満足に界力武装カイドアーツ防御壁シールドを展開できないだろう。天狗舞いで背後に回り込んだら最後。その瞬間に界力術を発動して勝負を決めてやる。


「(さあ――っ!!)」


 二人の距離が近づいて行く。

 上柳の全身から黄色い界力光ラクスが迸る。


 そして。


「――は?」


 思わず。

 森下瞬は自分の両目を疑ってしまった。


 上柳は走りながら界力武装カイドアーツを外してしまったのだ。それだけではない。全身から溢れ出していた黄色い界力光ラクスもすっと消えてしまう。


 闘術の発動を止めた?


 理由は?

 利点はなんだ?


「(なん、で――?)」


 思考に生まれた空白。

 ゆっくりに流れていく景色の中で、上柳高澄が硬く握った拳を大きく振り上げたことだけ理解できた。


 ドォッゴッッ!! と。

 脳を貫く強烈な衝撃が、一直線に左顎へと突き刺さる。


 渾身の右ストレート。


 ぐりんと上向く視界。床に倒れたと気付いた時には灼熱の痛みが顔全体を覆っていた。まるで酩酊したように視界が揺れる。体が思うように動いてくれない。


「……どう、して……?」

「言っただろ、瞬。俺は上柳高澄として、真正面からテメェを叩き潰すって」


 確かな足取りで近づいてきた上柳が、仰向けに倒れた森下を見下ろした。


「だから最後は界力武装カイドアーツに頼る気はなかった。。闘術でも身体強化マスクルでもない、俺自身の手で決めないと瞬の心には届かない。何も変わらないって思ったんだ」


 そんな理由で?

 根拠もなく、確実な勝算もないような、ただの根性論で?

 最後の最後に自分の弱い心を克服したのか?


「(……ふざけ、やがって……!)」


 でも、だからこそ、強く心が揺さぶられてしまった。


 これでは言い訳ができない。

 勝敗を武器のせいにも界力術のせいにもできない。

 ただの上柳高澄に負けた。

 残酷な現実を鼻っ面に叩き付けられる。


 そして、理解してしまった。

 悔しいが認めてしまった。


 これこそが、上柳高澄の強さなのだと。

 自分で定めた目標を何としてでも成し遂げようとする強い決意。そんな心こそが、森下瞬との明確な違いなのだと。


「瞬が何かに悩んでいることには気付いていた。だけど俺にはどうすることもできなかった……昔も、これまでも」


 じくり、と炙られたように過去の記憶が刺激される。


 やめろ。

 やめてくれ。


 猛烈な恐怖が全身へ襲い掛かる。


 界術師としても負ければ、今度こそ完全に上柳高澄の下になってしまう。それを認めたことになる。


「(そんなことになれば、俺は――っ!!)」


 自分を保てなくなる。


 ここで負ける訳にはいかない。

 何としてでも起き上がって上柳高澄を完膚なきまでに叩き潰さなければ。


 ブレザーの中に隠してある小瓶へと、震える手が伸びる。

 このクスリを使えば――まだ戦える。


「俺は、お前を助けたい。お前の悩みを解決してやりたいんだ。そのためだったらお前が困った時は一緒に悩んでやるし、隣で戦ってやるよ」


 かつんと手が小瓶に触れた。

 強烈な逡巡が指先を痺れさせる。


 だけど、上柳高澄の下になるくらいなら、ここで破滅を選んだ方が何倍もマシだ。

 わずかに首を出した躊躇いの念を振り切る。


 森下瞬は、小瓶を掴んでブレザーから引っ張り出してコルク栓を抜――


「だって、そういうもんなんだろ。


 ガツン!! と。

 その言葉を聞いた瞬間、脳天を殴られたような衝撃に見舞われた。


 ライバル。

 上でもなく、下でもない、対等な存在。


 はっきりと、上柳高澄はそう告げた。


「昔からさ、瞬は俺の目標だったんだ。瞬に追い付きたくて、対等になりたくて頑張ってきたんだぞ……まあ、前にライバルだって言ったら否定されたけどな」


 ――瞬、お前は俺のライバルだ!

 ――違うよタカ、ライバルってのは対等な存在のことを言うんだぜ


 それは、出会って間もない頃の思い出。


 誰が上で、誰が下か。

 そんなことに拘っていたかつての自分の言葉。


「……俺は、お前に負けたんだぞ……なのに、どうして……?」

「負けたってたった一回だろ? 今まで俺が何度瞬に負かされてきたか知らないけどさ、それに比べたら誤差みたいなもんだよ。次に戦ったらどうなるか分からないしな。――だからさ、」


 上柳はすっと手を差し出した。


「立ち上がれよ、森下瞬。俺が追い掛けてきた背中はこんなに小さくなかったんだ、ここで倒れるなんて認めない。もしそれでも起き上がれないって言うなら俺が否定してやるよ、夢を諦めるしかないなんて戯れ言は。前に進もうとするヤツが立ち止まるようなふざけた世界は、俺がこの手で覆してみせる!」


 上柳高澄の言葉が矢のように深々と胸に突き刺さる。

 真剣な眼差しを向けられて、森下は言葉に詰まった。


「(……この手を握れば、俺は負けを認めたことになる)」


 小瓶のコルク栓に触れた指に力が入る。だけど、その指が栓を抜くことはなかった。


 対等な存在だと言ってくれた。

 かつての親友が、変わってしまった自分に手を差し伸べてくれた。


 暖かい感情が胸の中へと沁み込んでいく。

 まるで今まで欠けていた部分が補われていくような気分。


 躊躇は、わずか。

 舌の先まで迫り上がった言葉がこぼれるように溢れ出していく。


「……俺の負けだよ、タカ」


 小瓶が指から床へと滑り落ちて、カンと甲高い音と共に転がった。


 一気に体が軽くなった。

 体を雁字搦めにしていた鎖が砕け散り、胸に詰まっていたものが取れたような感覚。


 失ったものは大きい。

 それでも、取り戻したものがある。


 やり直そう。

 もう一度、始めから。

 森下瞬は差し出された手をしっかりと握った。


「次は負けないから。絶対に勝ってやる」

「いつでも掛かってこいよ。今までの負け分を取り返さないとな」


 それは。

 二人の関係がようやく変わった瞬間だった。

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