第17話 ニクスの涙
※前回のあらすじ
だが、そこにやって来たのは黒い戦闘装束を来た怪しい連中だった。ラクニルの生徒ではなく、本土の裏社会で活動するような
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始まりの八家の一つ
手順や配置などの条件を整えることで、記憶次元に保管された
白詰氷華の術式は『ニクスの涙』。
ニクスは界力における六大要素の『水』に分類される神だ。
元になっているのは、とある悲しい伝承。
ニクスは人間と仲良く暮らしていた。
雪の神であった『彼女』は気温や天候の一部を操る権利を与えられていた。神にしては珍しく人間に寄り添う性格をしており、住んでいる山の麓の村によく遊びに行っていたそうだ。
炎天下の真夏には冷風を、子どもが雪遊びを願えば適度な雪を。
必要以上に人間と関わることは神として褒められた行いではない。他の神々からは人間と距離を取るように言われていた。神と人間の距離が近づけば、それだけ神としての品格が貶められるからだ。
しかし、それでもニクスは村の人々と寄り添うことを選ぶ。
『彼女』は人間――正確に言えば、麓の村の人々が好きだったのだ。
人間に希望を感じていたから。
心優しく、真面目で、働き者な彼らの未来に幸せを与えたいと思っていた。
そんなある冬の日のことだった。
大雪が、村を襲った。
何人も死んだ。耐えがたい苦痛に村人は見舞われた。
村人はニクスのせいだと糾弾した。他の神々がニクスが原因だと告げたからだ。それが他の神々による卑劣な罠だとは知らずに。
ニクスは否定した。涙ながらに否定した。
それでも村人は聞き入れず、他の神々の手を借りてニクスを封印した。
だが、ニクスは諦めなかった。
何十年もの月日を掛けて封印を自力で解いたのだ。
全ては、かつての幸せな日々を取り戻すため。
話せば分かってくれる。
自分が無実であると理解してくれる。
その希望を胸にして、ニクスは村人との再会を果たした。
だが、ニクスを待っていたのは真っ黒な絶望だった。
浴びせられる罵詈雑言の嵐。なんと、ニクスは村に厄災をもたらした悪魔として後生に語り継がれていたのだ。石を投げつけられ、悪魔と恐れられる。そこにはニクスが求めた過去の幸せな暮らしなどなかった。
ニクスは絶望した。
そして、時を呪った。
時が進んで変わってしまった『今』になど用はない。
猛烈な怒りに身を任せて、ニクスは全てを氷付けにした。
あのまま時間が進まなければ良かったのに。
村人との幸せな生活が永遠に続けば良かったのに。
その願いは余りにも強かった。
氷付けにしたのは土地や村人といった物質の表面だけではない。時間や時空といった高次元への干渉――わずかではあるが、世界の構造への反逆すら実行してしまう。
だがそれは神として与えられた役割から逸脱した力。
過ぎた力を制御できず、ニクスは自身の氷に飲み込まれてしまった。
変わってしまった今にも、変えられない未来にも希望はない。
求めるものは、全て『過去』にある。
これがニクスという神にまつわる伝承である。
× × ×
本音を言えば。
白詰氷華は今すぐこの場所から逃げ出したかった。
気を抜けば体が震え出しそうだ。
恐怖。
生徒同士の模擬戦では味わえないヒリヒリと焼け付くような感覚が口から水分を奪っていく。
分家関係者であり、幼い頃から界術師としての英才教育は受けてきた。その中には本土の裏社会で行われるような『実戦』を想定したものもある。命のやり取りがどれほど恐ろしいのか。それを同年代の生徒に比べたら理解しているつもりだった。
訓練の中で父親から人を殺した時の話を聞いたことがある。
隣にいた姉は表情一つ変えずに聞き入っていたが、その内容はとても黙って座っていられるようなものではなかった。
激しく動揺した。
地球の裏側で行われている戦争のような縁遠い内容なのに、家族である父親の口から聞かされたせいか自分のことのように感じてしまったのだ。
泣いてしまったのを覚えている。
自分もこんな世界で生きていかなければいけないのかと絶望もした。
それでも、白詰氷華が『実戦』を経験することはなかった。
普通にラクニルに通っているだけなら裏側を覗くことなどなかったのだ。
だから、これから足を踏み入れるのは初めての領域。
命のやり取りという狂気の沙汰。
だが、白詰氷華は決めたのだ。
自らの意思で特殊任務遂行班――特班に入ると。
家族のために、そして姉に復讐するために、危険な橋だって渡ってみせると。
覚悟が決まっている訳ではない。そんなすぐに心を決められるほど自分は大人ではない。
でも、ここまで来たらやるしかない。
白詰氷華は決然とした表情で前を向く。
月明かりと街灯に照らされた道路を走るのは二人の黒い戦闘装束を纏った男女。生徒同士の模擬戦のような生温い常識は通用しない。刃のように、雪のように、鋭く冷たく意識を切り替えていく。
本当は先手を取って攻撃したいところだが、残念ながら『ニクスの涙』では難しい。
儀式術式は手順や条件を満たすことで記憶次元に保管された
ニクスの涙の術式領域は非常に狭い。白詰氷華を中心として半径三メートルが精々だろう。
これはニクスの涙という伝承が認知度の低いことに由来している。もっと有名な神話や伝承を元にしていれば、術式領域でラクニル全土をすっぽりと覆ってしまうことも可能だ。
迫り来る二人のフルフェイス。その片方、男が唐突に立ち止まり、体から橙色の
男の足下のアスファルトが渦巻いて、無数の破片として撃ち出された。
どの方式を使った術式か判断が付かない。取り敢えず
ドッバッッ!! と地面から巨大な氷柱が一直線に屹立した。
歩いた地面に霜柱が生まれたというニクスの伝承を元にした術式。術者の足で『術式領域内』を踏むことで氷柱を生み出すことができる。
ズガガガッッ!! とアスファルトの破片が氷柱に激突した。表面が細かく粉砕されてキラキラと月明かりを反射するが、氷柱自体に亀裂は走っていない。キン、と空気が締まるような冷気を放つ氷柱から顔を出して状況を確認する。
道路を走ってくるのは黒い戦闘装束を着た連中のもう一人。長槍を携えた女が、橙色の
「っ!」
「(っ、先輩のブレザーが……!)」
羽織っていただけだったせいもあり激しい動きに付いてこられなかったようだ。ブレザーが肩からずり落ちる。一瞬だけ動揺したが、すぐに視線を目の前の敵に向け直した。
闘術使いと正面から戦うべきではない。歩法と対等に渡り合えるだけの高速戦闘が可能ならば話は別だが、白詰氷華の界力術『ニクスの涙』に移動系の術式はなく、また
だからこそ、迷わず回避。
つい数瞬前まで立っていた場所へ橙色の
何とか初撃は躱したがすぐに次の一手が飛んでくる。根本的な速度が違うのだ。接近され続ければどこかで長槍による一撃を食らってしまう。
ドバッ!! と。
長槍を構えた女の足下から、天を衝くように氷柱が屹立した。
術式の『条件』を満たすためには、術式領域内を直接踏む必要がある。だが、白詰氷華は例外を生み出すことで手順を省略していた。
氷柱の術式の応用。雪の神『ニクス』が歩いた場所に霜柱が立ったという伝承を、その場所がニクスの支配下に入ったという内容で解釈。数と時間に限りはあるが、髪飾りに触れている間は歩いた場所を『術式領域』として登録しておくことができるのだ。術式領域が狭い弱点への対策である。
長槍を持った女は体勢を崩しながら辛うじて氷柱の直撃を避ける。だが予想外の規模の反撃だったのだろう。体を逃すことができたが、長槍は氷柱に巻き込まれて夜空へと打ち上げられてしまった。
顔を焦燥に歪めながら視線を上向ける闘術使いの女。
その隙を逃さない。白詰は髪飾りに触れて術式の条件を満たす。
ニクスの涙。
雪の神である『彼女』の力を引き出すために必要な『供物』は雪と冷気である。儀式術式を発動するためには『供物』を捧げることで術式の条件を満たす必要があった。
白詰氷華の髪飾りは儀式術式に組み込むために界力術的な加工を施した
ピィキッ!! と白詰の頭上で冷気が凝縮して五本の氷槍が生み出された。
意のままに雪を降らせたというニクスの伝承を元にした術式。術式領域内に氷槍を生み出して狙った場所へと発射することができる。
女は長槍を失っただけではなく体勢すら立て直せていない。
チャンスだ。鋭く尖らせた氷槍を放――
グググググ……ッ、と地面が震動する。
まるでアスファルトの下から間欠泉が飛び出してくる直前のような――
「(もう一人の界術師!!)」
少し離れた場所。
黒い戦闘装束を着た男が道路の真ん中で腕をこちらに突き出していた。
このままではやられる。
確信めいた予感に従い頭上で形成した氷槍を男へ向け直して射出した。五本の氷槍が弾丸のような速度で空気を穿孔する。
しかし。
【―――――、
ガキン!! と氷槍が見えない壁のようなものに阻まれて弾け飛ぶ。
道路に落ちて硝子のように砕けた氷槍を見てギリッと唇を噛んだ。
「(
始まりの八家の一つである
キース文字と呼ばれる特殊な二十六の文字を使って術式を構築する方式である。精神内の
「(しかも属性の利用。術者としてのレベルが高い……!)」
呪言術式が扱えるのは界力の六大要素。必要条件は対象となる物体が視認できること。
例えば『水』が操る対象となる術者ならば、視認できる範囲に存在する水を想像力と語彙力が続く限りどこまでも自由自在に操ることができる。
だが、黒い戦闘装束を着た男が実行したのは更に上の技術。
属性の利用。
界力の六大要素は、それぞれが『正』と『負』の属性を持つ。
視認できる対象物質を操るよりも、より感覚的に術式を組み上げる必要がある。文法通りに術式を発音すればいいという訳ではないため難易度が高いとされていた。
「(あの人が利用したのは多分『固定』――『土』の正の属性)」
戦闘装束の男は空気を『固定』させて、氷槍から身を守る盾を即興で生み出した。遠距離攻撃は通じないと考えるべきだろう。男に対しては接近戦を挑む必要がある。
【―――――、
男の口が高速に動き、機械で加工されたような声が発せられる。
途端、足下が不気味に震動し始めた。
呪言術式で操る『土』とはすなわち地面。術者が『立っている』場所の全てが操るべき対象になる。
橙色の
アスファルトの地面が大海原のように波打ってドプンと沈む込んだ。あと数秒反応が遅ければ両足が地面に埋まっていただろう。
背筋に冷たいモノを感じつつ、ちらりと闘術使いの女へと視線を向ける。
まだ氷柱によって弾き飛ばされた槍を拾いに行っている最中だった。道路に沿うように立てられた風力発電の大型プロペラの向こう側まで飛んでいるのだ。拾い上げてから戦場に戻るまでにはあと少しだけ猶予がある。
二対一では勝ち目が薄い。
闘術使いが戻ってくるまでに、呪言術式を使う男を倒す。
髪飾りに触れて着地する地面に氷を生み出した。
地面を操る呪言術式への対応策。道路に足を付ければ敵の術中に嵌まってしまう可能性が高い。だが呪言術式で地面を操る条件は『術者が立っている』こと。地続きな道路ならいざ知らず、白詰が生み出した氷を男が操作することはできなかった。
また『ニクスの涙』を発動している間、術式の恩恵として氷の上でも地面と同様に動けるようになる。雪の神からの加護であり、無様に滑って転倒することは有り得ない。
ごつごつとした表面の氷に足を付け
【―――――、
高速で男の口が動いてキース文字が界力次元へと投影される。
グググググ……ッ、と男の足下が不気味に蠢いた。
直後。
アスファルトの表面が高速で渦巻き、無数の破片となって撃ち出される。
しかし白詰は止まらない。
破片を躱すように回り込みつつも速度を上げ、男の頭上を跳び越える。
地面から弾を打ち上げるという術式の性質上、頭上を越えるように移動されれば男は術を中断せざるを得ない。そのまま白詰を狙い続ければどうしても自分が射線上に入ってしまうからだ。案の定、男は術式を中断した。背後に着地した白詰の足下の地面を対象に術式を構築し始める。
だが、それよりも白詰氷華の方が早かった。
髪飾りに触れた白詰の頭上から五本の氷槍が射出される。
しかし、それは男を狙ったものではなかった。
呪言術式で空気を『固定』されてしまえば氷槍はその威力を失ってしまうのだから。
これは男を真後ろに回避させるための誘導。
氷槍を撃ち込んだのは男の足下と体の左右。真後ろにだけ確実な逃げ道を用意する。
儀式術式を使う相手と戦う時の鉄則は術式の手順や条件を見抜いて妨害すること。上手くいけば『呪い』が発生して術者は勝手に自滅してくれる。呪いとは儀式術式における代償。術式を完遂できなかった場合、痛みや苦しみといった形で
だが、もっと簡単な対処法がある。
術式領域内に入らなければいい。
儀式術式はその全てが術式領域内にしか効力を及ぼさないからだ。
白詰によって放たれた氷槍に対して、男は真後ろへと移動する。
男が取った回避行動は何も間違っていない。氷槍を躱すため、あるいは白詰氷華の術式領域から逃れるため、最も効率良く距離を取れる後方へと跳び退いたのだから。
そこが。
「――計算通り、ですね」
白詰氷華が先ほどまで足を付いていた場所でなければ。
氷柱の術式の応用――自分が歩いた場所を一定時間だけ術式領域として登録しておくことができる裏技である。
男が氷槍を回避するために移動したのは、白詰が男の頭上を越えようと跳び上がった場所。
残念ながら、そこは白詰氷華の領域だ。
ドッバッッ!! と道路から氷柱が生える。
杭のように先端の尖ったそれが勢いよく男を背中から突き上げた。
背中を反るような格好で宙を舞った男の体が道路に落ちる。受け身は取らなかった。どうやら完全に意識を奪い取れたらしい。
たった一度の攻防で上手く勝負を決められて良かった。
戦闘が長引いていれば、白詰が術式領域を増やせることに気付かれていたかもしれない。儀式術式は手順や条件を満たして界力術を発動する。界力術を使用回数の増加は、それだけ手の内を晒すことを意味している。儀式術式を使う以上どうしても避けられないリスクだ。
「あと、もう一人!」
やれる。自分の力は通用する。
湧き上がる自信がアドレナリンを分泌させ、全神経を冴え渡らせた。
まだ闘術使いの女が残っている。
短い呼吸を挟みつつ、打ち飛ばされた長槍を追い掛けた女の方へと視線を――
音があった。
何かが近づいてくるような気配。猛烈な危機感。
闘術使いの女が長槍を構えて接近している。
慌てて迎撃するために髪飾りに触れるが、闘術使いの女の方が速い。眼球を突き刺すほど鋭い橙色の
高速戦闘に対応した術式を持たない白詰では対応できない。迎撃を諦めて、咄嗟の判断で
その空間を。
鋭い一突きが引き裂いた。
躊躇のない一撃。動くのが少しでも遅ければ長槍に貫かれていた。
辛うじて躱したが、その後まで考える余裕がなく体が無防備な状態で宙を流れている。
フルフェイスのヘルメットの下で、女の顔が白詰氷華を捉えた。
背筋が凍り付くような感覚。
白詰は反射的に髪飾りに触れた。
長槍の先端が鈍く月明かりを反射する。
直後、大きく踏み込んだ闘術使いの女によって横薙ぎの一閃が放たれた。
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