第4話 転入生は軽やかに

 ※前回のあらすじ


 かみやなぎたかすみは友人であるじんかじくにふゆと一緒に昼食を食べていた。進路や部活といった他愛のない雑談をしていると、クラスの空気を悪くしている張本人――もりしたしゅんが取り巻きの二人と一緒に帰ってくる。


 運悪く森下の足が机に当たってしまい、かたばねしょうの水筒の中身が森下の制服を汚してしまう。彼の顔が怒りの色に染まるまで、そう時間は掛からなかった……


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 昼食のために机を移動させており、通路が狭くなっているのが原因だった。

 

 自分の席を目指して歩く森下の足が、運悪くかたばねしょうの机に激突してしまう。中身を飛び散らせながら床に落ちているカップ。為す術なく、森下瞬の制服のズボンに液体が飛び散った。


 夕凪のように、ぱっと空気が止まる。


 自分のズボンと上履きを見て森下は静かに動きを止めた。

 だが俯いたその表情が怒りに染まるまで時間は掛からない。ガスが充満した部屋でマッチを擦ったように森下の全身から勢いよく怒気が溢れ出した。


「翔子お!! お前なにしてくれちゃってんの!!」

「きゃあ!」


 短い悲鳴が炸裂する。

 森下が怒りに任せて乱暴に振り回した腕が片羽に直撃した。辛うじて片羽は手で顔を守ったが、椅子に座ったままではバランスが保てなかったのだろう。椅子ごと床に倒れてしまう。


 鼓膜を引っ掻くような擦過音が穏やかだった教室の空気を一変させる。


「……ッ」


 ぶちん、と。

 上柳の頭の中で何かが切れた。燃え上がる業火のような感情が全身を支配する。


「タ、タカ殿!?」


 くるくるパーマの陣馬梶太バカが驚いたような声を上げるが、頭に血が上っているせいで届かない。無意識の内に立ち上がり凄まじい剣幕で森下を睨み付ける。


「瞬、テメェ……っ!!」

「なんだよ、タカ。この俺に逆らうのか?」

「上等だ!! 絶対に許さない」

「……ダメだよ、タカ君」


 必死さの滲んだ少女の声によって、冷や水を浴びせられたように意識が落ち着きを取り戻した。


 片羽はその細い腕で懸命に体を起こして、少し離れた位置に落ちている紫縁の眼鏡をかけ直す。床にしゃがみ込んだまま懇願するように上柳を見上げた。


「……翔子、だけどっ!」

「私は大丈夫だから。それに悪いのは、カップを落ちやすい机の端に置いていた私なんだから。瞬君が怒るのも、無理ないよ」

「へぇ、タカとは違って翔子はよく分かってるじゃん」

「――いい加減にしなさい!」


 我慢できないと言わんばかりにとおが立ち上がる。跳ね上がるライトブラウンの長髪。篝火のように強い光を放つ瞳は、燃えるような憤怒の色に染まっていた。


「森下君、あなたちょっと横暴が過ぎるんじゃないの?」

「……分かってないな、お前も」


 森下の三白眼が、ギロリと遠江を捉える。


「教えてやるよ、世間知らず共。ラクニルじゃな、界術師の代表である俺たち本家と分家が全てなんだよ。そこにどんな事情があるかなんて関係ない。俺達の意志が絶対的に正しくなっちまう。そういう場所なんだ、このラクニルって学校はさあ!」

「そんなふざけた理屈が、本気で通るとでも思っているの!」

「思っているよ、それが本家と分家の力だからな。例えば、そうだな……確かお前の親は研究員だったったよな? ラクニルにある小さな研究所の。そんなゴミみたいなもの家の力を使えば今すぐにでも封鎖してやれるんだぞ。何なら実際にやってみせようか、委員長様?」

「ア、アンタね……っ!!」


 わずかに怯んだが、遠江はキツく森下を睨み続けた。だがその迫力は最初に比べると劣る。森下の嘲るような視線に抗うことで精一杯だ。


「(……くそ、情けない!)」


 上柳はぎゅっと強く拳を握る。


 飛びかかったとしても返り討ちに遭うだけだ。こんな理不尽な状況で何も出来ない自分が歯痒い。


「な、なんとかしないと! タカ、このままじゃ風紀委員に見つかるよ!」

「分かってる!」


 狼狽する実国冬樹ウィンターの言葉に対し、上柳は怒りを噛み締めるように、


「こんな状況でヤツらが来たら連中は間違いなく瞬の味方をする。それだけじゃない。騒動の原因を適当にでっち上げてクラス全員を処分する可能性だってあるぞ」


 風紀委員は校内での界力術の使用が認められている。他にも一般生徒には禁じられていることでも、秩序を守るためという大義名分を掲げてさえいればかなりの横暴が許可されていた。言い換えれば、理由さえこじつけられれば何でもやりたい放題という訳だ。


 純粋な戦闘力が求められるため風紀委員には本家や分家の生徒が選出されることが多い。また彼らは幼い頃から権力の奴隷として育ってきている。そんな連中が様々な面で優遇される風紀委員になったらどうなるか。家の権力や界術師としての能力を振りかざして暴れ回るに決まっている。まともな集団になるはずがなかった。


 風紀委員会とは関わるな。

 これが第一校区で真っ先に教えられる『常識』なのだ。


「(あいつらは評価点を得るためなら平然と非道に手を染める連中だ。少なくとも騒動の張本人としてマキが処罰されるのは確実。何とかして連中に気付かれる前に事を収めないと……!)」


 だが、打つ手がない。

 物理的にも、権力的にも、上柳に抗う術は残されていない。


「(なにか……! なにか方法はないのか!)」


 その時だった。


 唐突に開く教室の扉。

 全員の視線が、教室に入ってきた『彼』に向けられる。


「……きりさわ?」


 その瞬間。

 暗い闇に覆われていた状況に曙光が差したように感じた。


 きりさわなおなら何とかしてくれる。

 何故か、そう感じたのだ。


「……なるほど、そういうことか」


 冷徹な瞳で教室内をぐるりと見回した霧沢が何やら小声で呟く。森下を含めて全員が動けない中、霧沢は迷わずに床に倒れたままの片羽の元へと歩み寄った。


「大丈夫、立てるか?」

「……う、うん」


 突然の事に驚いたのだろう。片羽はきょとんとしたまま霧沢を見上げている。

 霧沢は片羽へと手を差し出し、ゆっくりと立ち上がらせた。


「上柳!」

「お、おう!?」


 まさか名前を呼ばれると思っていなかったせいで声が裏返りそうになった。ごつんと机に足をぶつけつつも霧沢の方へと歩み寄る。


「片羽が手を切っている。手当をしてくれ」

「わ、分かった……!」


 ぎこちなく頷く。すると霧沢の声に押されるように、片羽がとてとてと近づいきた。


「霧沢君、どういうつもりなの……?」


 神妙な顔で問い掛ける遠江に対し、霧沢はニヤリと片頬を持ち上げて、


「そう怖い顔をするなよ遠江。せっかくの美人が台無しだぜ?」

「なっ……、びじ……っ!」

「後は俺がなんとかしてやる。お前は下がってろ」

「……っ、」


 遠江がわずかに頬を紅潮させる。だか、顔に広がっていった羞恥の色を、キッと両眼を鋭く細めて怒りの色に上塗りした。霧沢の鋭い口調に苛立ちを覚えたのだろうが、先ほど森下にやりこまれたばかりだ。反論することなく引き下がった。


「お前の番だぜ、お山の大将」

「霧沢、お前な……!」

「なんだ、そんなにさかって。文句があるなら付き合うぞ。だけど得意の分家っつー身分は天城家出身の俺には効かない。やり合うのはいいが、この前みたいに一瞬で打ちのめされる覚悟をしてこい」


 ざわっ、と。

 動揺が窓から入る突風のようにクラスに吹き抜ける。


 分家関係者の森下瞬が、霧沢直也に一瞬で倒された?

 信じられないという空気が広がるが、森下が反論せずに唇を噛んでいることが、嘘ではない何よりの証明だった。


「調子に乗るなよ、転入生があ!!」


 ピキリ、と森下の額に血管が浮き上がる。


「この前は油断しただけだ! そう何度も上手くいくかっての!!」


 森下瞬の全身から赤い界力光ラクスが迸った。


 界術師はお互いの力を界力光ラスクの色で推し量る。実力カラーと呼ばれる能力指標であり、界術師の力を示す最も分かりやすい判断基準となっていた。


 青、緑、黄、橙、赤、紫、黒、の順で上昇していく実力カラー

 実力カラーとは界術師が如何に効率良く界力を扱えるかを表す指標。実力カラーの高い方が大規模な術式を使えるし、界力術を発動できる回数も多くなる。実力カラーの違い。それは最新技術を駆使した現代兵器と、原始人が使っていた投石や棍棒と同じだけの大きな差違を、界術師が発揮できる総合力に生み出してしまう。


「タカ君、このままじゃ霧沢君が!」


 片羽の体が小さく震える。


 実力カラーが上がるにつれて、対応する界術師の数は少なくなる。一般的に界術師として一人前とされる実力カラーは橙色。将来、界術師として職業に就くためには最低でもこの実力カラーが必要とされる。だが、橙色に到達できる界術師は全体の三割しかいない。ラクニルにおける平均実力カラーは緑と黄の中間。殆どの界術師が一人前にすら届かずに成長を終えるのだ。

 ましてや、橙の一色上となる赤の界力光ラクスを放てる界術師は更に少ない。数にして、界術師全体の一割以下。つまり、それほどまでに高い出力を誇るという意味だ。


「大丈夫だ、霧沢を信じてくれ」

 

 いつしか、その予感は確信に変わっていた。

 上柳は震えている片羽の肩に手を置く。少しは安心できたのだろう。片羽は大きく息を吐き出して少しだけ表情を和らげた。


 森下から漏れ出す赤い界力光ラスクが一際強く輝いた。身体強化マスクルを発動したのだろう。振り上げた腕が赤い残光となって搔き消え、一発で意識を刈り奪る拳が放たれる。


 だが、森下瞬の身体強化マスクルが霧沢直也に通じないことはすでに証明済みだ。


「もう、終わり?」


 それは刹那の出来事だった。

 鮮やかな手際で森下の腕を掴んだ霧沢がそのまま体を捻り、まるでダンスのターンのように森下の体を回転させる。そのまま掴んだ腕を森下の背中に回し、動きを封じ込めたのだ。


「……すごい」


 目を丸くした片羽が、思わずと言った様子で呟いた。

 他の生徒も同じだ。ウィンターは鳩が豆鉄砲を喰らったように言葉を失い、バカにいたってはあんぐりと大きく口を開いている。


「……っ、放せよ!! クソがあ!!」


 毒突きながら森下が暴れ出す。霧沢はまるでゴミ袋を放るようにして手を放した。バランスを崩す森下。そのまま足を縺れさせて無様に床に転がった。


「許さないっ! 絶対に、殺してやるからな……っ!!」


 極限まで眦を吊り上げた森下が声を荒げる。

 立ち上がった後、近くにあった机を乱暴に蹴り飛ばした。ガシャンッ!! と硬質な擦過音が響き渡る。それを背にして、森下と取り巻きの二人は教室を出て行った。


 残されたのは机が散らかった教室と、言葉を発する事が躊躇われるような静寂。


 全員の視線が突き刺さる中、霧沢は困ったようにぼりぼりと頬を掻く。


 だが、永遠に時間が止まったかのような気まずさも唐突に終わりを迎えた。

 五限開始のチャイムが高らかに鳴り響いたのだ。

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