代官山ディオゲネスボーイズ
十龍
第1話代官山にて
その日のことは、誰も覚えていないだろう。小さすぎる出来事であったし、なにより悲しかったのは自分だけなのだから。
淋代大輔は代官山にいた。
代官山の駅は想像していたよりもずっと小さく、各駅停車しか停まらないらしかった。
東京って意外と小さいんだな。田舎から出てきた身としては、正直なところ残念きわまりない。もっと華やかで立派なのだと思い込んでいた。
しかしながら、大輔は不安でしかたがなかった。
どこもかしこもおしゃれな人間ばかりがいるように見えた。
代官山。
そこが実際どんな場所か、大輔は知らなかった。
ぼんやりと、なんとなくおしゃれな街、そんなイメージだったが、リアルにそこに住むとなると途端に劣等感が襲ってきた。誰も彼もがハイセンスに見える。奇抜な格好にも見え、最先端にも見え、普通にも見え、自分だけが悪い意味で浮いている。
内臓が微動するような居心地の悪さに背筋が曲がった。
あまりキョロキョロするのが恥ずかしすぎる。道もろくにわからないのに、大輔はなるべく正面だけを見て新しい住処へと向かった。
代官山駅より徒歩七分。築四十五年。家賃三万円。しかし風呂付きトイレ付きキッチン付きにクローゼット付き。
なにか曰く付きではないかと疑っても仕方がない好条件であった。それゆえに借り手が少ないらしい。そして見た目が異様に古い。家と家と家とマンションに囲まれ、立て替えが法律で禁じられている場所ゆえ、見た目は古いものの、中はしっかりとリフォームされて、狭いが真新しい。
掘り出し物だと言われた。運が最高に良いと。
大輔は苦笑いで、そうですね、と不動産屋に答え、直ぐに賃貸契約を結んだ。
保証人代行会社に頼むと少々割高になったが、元の家賃が安すぎるために損をした感覚はない。
東京に来たら、どこに住もう。流行りが吉祥寺だとは聞いていた。あとは中目黒、金持ちの街田園調布。ナリキンの六本木。芸能人の西麻布。それくらいしか大輔は知らなかった。
なにも知らずに東京に来たのだ。
持ち物は財布と通帳、スマートフォン。
宝くじに当たったから、振り込みを確認したその日に家を出た。
五億。
本当に運が良い。
周囲のありもしない視線に羞恥心を抱きながら、使い古しのスマートフォンを覗きみる。
代官山町。猿楽町。七曲町。八山町。九谷町。桜丘町。鶯沢町。
代官山といっても、住所が代官山である場所だけが代官山ではなかった。
それが大輔にとって小さな驚きで、小さな安堵でもあった。
代官山を駅を出て、パン屋の横の、七つに曲がりくねった道を行く。
八山町に入るギリギリのあたりは、昔からこの地にある住宅街。七曲町という。
古びた建物や、普通の家がある。しかしながら突然お洒落な外観のマンションの裏手に出てしまったりと、高級と一般、そして底辺が入り交じっていた。いつしか田舎者丸出しに、辺りをキョロキョロ見回して、スマホを睨んで行ったり来たり。
今いるここはどこだろう。
ふいに、細く風が吹き抜けた。足が止まり、顔をあげると、左に小径が延びている。
庭木や生垣だろうか、似つかわしくない雑多な茂みが径の存在感を埋没させていた。
あ。
大輔の心に小さな星が光った。この先にある。
錆びたトタン屋根のアパート。
高級マンションが光なら、このアパートは陰だ。闇ではなく、陰。
七曲ハイツ。
今にも崩れ落ちそうな外付けの鉄製階段には蔦が巻き付き、その蔦はアパートの外壁半分さえも覆っていた。
アパートの入り口にも、朽ち果てそうな鉄格子の扉があるが、立て付けがきちんと閉まらない。
扉の横にはこれもやはり錆びた郵便ポストがあって、四つのうち一つの口にはガムテープが貼ってあり使えないようになっていた。
七曲ハイツ一○二。
そこが今日から大輔の栖である。
大輔は思い切りガムテープを引き剥がした。
鍵を使ってドアを開ける。
むしろ乱暴にドアをガチャガチャ動かせば、鍵など使わずとも開くのではないだろうか。
そう思わせるベニヤのドアだが、鍵を使ったにも関わらずなかなか開きにくい。立て付けが悪い。キュイイと変な音がして、やっと開いた。
そして部屋に差し込む、緑色。
大輔は自分の目が自然と見開き、そして口の内側が笑みを作るように動いたのを感じ取った。息を飲むとはこういうことか。
左にある大きな磨りガラスの窓から、日の光が注ぎ込んでいる。それが美しい緑なのだ。
陰鬱な気分が少し高揚し、口の端があがる。
スニーカーをぞんざいに脱ぐと、直ぐに窓を開けに向かった。
昔ながらの窓は、大きく低い。膝したから額の高さまでの異空間。
窓を開けた先には、東京のハイソな街からは想像できない緑の風景が広がっていた。
「あ、こんにちは」
老人の声がした。
緑の坪庭に、まるでそこに設えらたかのような、風景に溶け込んだ人影があった。
「引っ越して来られたのかい?」
さわさわと風に揺れる木の下に老人が立っていて、人好きのする笑顔で話しかけてきた。
「あ、……はい」
「そうかあ」
老人といっても、老いた感じはしなかった。
年相応なのだが、快活な雰囲気である。
昔は格闘技でもしていたのだろうか、がっちりした体格で、着古したポロシャツに白いスラックス。スラックスも履きふるしている。
老人は庭仕事を始める準備中だった。
「この庭はおじさんの庭……なんですか?」
「そんなような、そうではないような、だな。僕はこの建物ができた頃から住んでるんでね、気がついたら我が物顔で庭いじりをしてしまってたんだな」
はっはっ、と笑い腐葉土の袋をひっくり返した。庭の土を掘り起こし、腐葉土と混ぜている。
「君、煙草はのむかい?」
「え、いや、……吸わないす」
「そうかあ」
「あ、もしかして、ここ禁煙のアパートなんですか?」
「いいやあ?」
おじさんはひょいとかがみ、背中を大輔に向けながら作業を始める。
話しは終わったのかと思いきや、おじさんは続けた。
「その下にちゃぶ台がある。窓枠に腰かけて煙草をやるにはちょうど良いだろうとね」
下、そう言われて身を乗り出すと、窓の下にテーブルがあった。ちゃぶ台というよりと 少し大きめの台座のようにも思えた。
「前の住人のかたが置いてったんですかね?」
「いやあ、もっと前からあるなあ。いつだったのかは忘れたけどね。庭みながら煙草をのんだり、酒を飲んだり、ギターを弾いたり」
「ギターっすか」
「当時は流行ったんだよ、フォーク」
「フォーク」
いつの時代の思出話なのだろうか。
「そう。フォーク。そのあとも音楽やる人間は何人かいたんだけど、ほら、周りが開発されてお洒落なマンションだの店なんかができたら、音がうるさいとか言われちまったみたいで」
「あー」
「だもんで、この建物はこうボロくみえて防音構造だ。多少大声で歌っても大丈夫。けど、窓だのドアだのは昔ながらの木だから、あんまり爆音だと漏れるかな」
はっはっは。
しばらく大輔は庭と庭仕事の様子を見て、おじさんに会釈をしてから窓を閉めた。
静かな部屋に緑の光が降り注ぐ。
緑の窓の反対側も窓。
ぴっしりと閉まった木製の雨戸を開けると、先ほど入ってきた錆びた格子門。
その先には緑の小径。その風景は東京のお洒落な街には見えなかった。どこか忘れ去られた過去の空間のように感じた。
大輔は部屋の中央に座り、ぼんやりと天井を見上げた。
妙に古めかしい電球が下がっている。
ほぼ正方形の部屋だ。
押し入れならぬクローゼット。トイレに風呂。キッチンと洗濯機置き場。
ミニキッチンセットには一口のガスコンロが備えついているが洗濯機は無かった。
「なにが必要かな……」
買い物に行かなければ。
そう思うも、しばらくはだか電球を見上げてぼんやりと過ごした。
続く
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