7限目は青い空【ショートショート】

吉永綸子

雪野原を駆ける


 「おい、転ぶぞ」


 そう言って結城くんはあきれた表情を浮かべた。その視線の先には、初めて見る銀世界に心を躍らせている私。いや実際には心を躍らせるどころか、カメラを回したり、積もった雪に突っ伏したり、ついでに雪を一つまみ食べたり、走り回ったりしていた。あきれた表情もごもっともだ。


 結城くんは同じ学校の高校3年生。2年後輩の私が一目惚れして、まさに「猛アタック」の末に晴れて交際することになった。結城くんは真面目で冷静沈着で、とにかく高校生とは思えないくらいに大人びていた。だけど私がドジをした時は、不意を突かれたように少年みたいな笑顔になる。そのギャップが大好きだった。


 この雪野原は初めての遠方デート。ほとんど雪を知らない私が小説で読んだ「銀世界」というものを一度見てみたいとねだりにねだった結果、ようやく叶った片道3時間のデート。乗り物酔いする結城くんには大変な長旅だったと思う。


 地平線を隠す建物も、空を遮る電線も無い、どこまでも続く雪野原を太陽が真っ直ぐ照らしていた。結城くんは小学生まで北海道に住んでいたらしく、雪なんて見飽きたと言っていたけれど、それでもしばらく見惚れるほどに美しい光景だった。そして私はとびきりの笑顔で結城くんの方へ振り向いた。


「ねぇ、毎年ここに来ようよ」

「いいけど」

「じゃあここで結婚式も挙げよう?」

「それは遠慮しとく」

「え! 遠慮ってのこと?それとも結婚?」

「それは……」


「きゃあっ!」


 私は雪に足を取られて盛大に転んだ。こんなに走り回っていたらいつか転びそうだと自分でも思っていたけど、別にそれでよかった。それよりも結城くんが咄嗟に手を差し出して守ろうとしてくれたことにキュンとした。


「危ないだろ! 雪の下に何かあるかもしれないんだぞ」


 意外にも不意を突かれた笑顔は見られなかった。それどころか緊張したような、恥ずかしそうな表情でうつむいた。


「こんな危なっかしいやつ、他の男じゃ守りきれないな」


 それは結城くんなりのプロポーズだったのかもしれない。なんて今でも考える。


――――――――――


 それから2年後、結城くんは死んだ。


 県立大学の法学部に合格して順風満帆な大学生活を送っていた。バイト帰りを襲った不慮の事故だったらしい。苦学生の結城くんと受験勉強に明け暮れていた私は以前より疎遠になっていたけれど、メールは毎日欠かさず交わしていた。


 結城くんの訃報を知って私は人生で初めて気を失った。目を覚ました時は、精神的なショックで失神するなんてドラマ以外にあるのかと意外と冷静だったように思う。だけど結城くんが死んだ事実は依然としてそこにあり、私を何度も絶望の淵に追いやった。


 それから数年間の記憶はあまり無い。地元の女子大で大学生のようなものをしていたけれど、特に何も楽しいことは無かった。ただ時折、結城くんの面影を求めて不意に街に飛び出したりしていた。

 

 それからもう少し――いや、結城くんがいない時間をたくさん生きてもうすぐ32歳になる。私は来月、職場で知り合った恋人と結婚する。


 その前にどうしても来ておきたい場所があった。来なければならない場所だった。今までお墓と事故現場には何度も花を手向たむけに行ったけど、ここだけはどうしても来られなかった、雪野原。私は本当はここに結城くんがいるような気がしていた。だから来られなかったのだ。


 どこまでも広がる銀世界はあの時と全く変わらずに、もう返事の出来ないプロポーズの日に私を連れ戻した。結城くんは、「他の男と一緒になるな」とも「幸せになれよ」とも言わなかった。ただ、美しい光となってそこに存在した。


「結城くん。私はもう転ばないから大丈夫だよ。じゃあね……ありがとう」


 私は夕日を浴びて儚げに光る雪野原を真っ直ぐに駆けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る