第2章 大芸大というところに その1

 シェアハウスでの生活が落ち着いて、授業も始まって、生活サイクルが定まってきたのは2週間くらいったころだった。

 学校は楽しいし、共同生活もにぎやかで何の不満もなかったのだけれど、ただ1つ、どうにかしたいことがあった。

 金がなかった。

 社会人をやっていた10年後も裕福ではなかったけれど、学生である今とはわけが違う。仕送りもいちおうもらっていたけれど、自由になるお金というにはこころもとない。僕はバイトをすることにした。

 とはいえ難しいことをする気はない。じゃあ近所のコンビニで、ということで連絡し、履歴書を持っていったところ──。

「いらっしゃいませー!」

 深夜にもかかわらず、僕をにこやかに出迎えた店員さんは、よく見知った顔だった。

「えっ、な、なんであんたここに来たわけ?」

 営業スマイルは一気に「げっ」という表情へ変わる。

「ナナコだってどうして制服着てんの……?」

 コンビニチェーンのドーソンは、主に西日本に店舗が多い。

 大芸の周りにももちろん多く存在しており、学生のバイトもこれまた多く募集をかけている。

「はは……まさか下宿でいっしょ、バイト先もいっしょのパターンとはね……」

 妙にしみじみとつぶやくナナコ。

「え、じゃああの、ナナコもここで働いてるの?」

「見てのとおりよ。今日でちょうど1週間かな」

 越してきてそれほどってないのに、動くのが早いというか、行動力のあるやつだなあ……。

「……言ってる場合じゃないや、あのね、聞いて」

「な、なにを……?」

「ここのオーナーはまえ五十一いそかずさんっていうの。電話したんだったら聞いてるでしょ?」

「たぶん。あのおじいちゃんかな」

「そう。今年で78歳なんだって。お父さんが51歳の時に生まれたから五十一でいそかずさん」

「へえ」

「そんなことはどうでもいいのよ!」

 自分で言って自分で突っ込むナナコ。

「で、今日はあたしとオーナーの2人で入る予定だったんだけど、ご覧のとおり、今はあたし1人で回してるの」

「ひょっとして……ご高齢で体調悪いとか、そういう?」

 言い終わる前に、ナナコは僕の肩をばしーんとたたくと、

「そこまで察しがいいんだったら、バックルームにある制服着て、こっち合流して! 以上!」

「ちょ、わかったから服引っ張るなって、ナナコっ!」

 そのままバックルームまで強引に連行されたのだった。


     ◇


 蛍光灯で照らされた店内とはちがい、バックルームは薄暗くて、静まりかえっていた。適当に置かれたパイプに腰掛けると、奥からナナコが出てきて、ひょこっと手を出した。

「はいこれ、店長から」

「あ、ありがと……」

 渡された缶コーヒーのプルタブを開け、一口だけすすり込む。

 動き回って疲れた身体からだに、甘さが染みわたった。

「オーナー、大丈夫だって?」

「みたい。応援も来たからいけるっしょ。とりあえず30分休憩しなさいってさ」

 あの後、結局僕とナナコの2人だけで深夜の店を回すことになった。

 比較的お客さんの少ない店とはいえ、入って早々に慣れない仕事を任されるのはなかなか身体にこたえた。

 幸い、店長が復帰して、ベテラン店員のさくらさんという人がきゆうきよ入ってくれることになり、僕らは休憩することができたのだ。

「やー、でも助かった。ありがとね」

「いや、別に。ちょっと大変だったけど仕事も覚えられたし」

 前の学生時代ではアルバイトといえばパチンコだけで、コンビニは正真正銘、初めての経験だった。

 さすがにレジ打ちをするわけにはいかなかったので、僕はもっぱら商品の陳列をさせられていた。

「ナナコ、コンビニでバイトしてたことあったの?」

 そんな中、ナナコはまだ1週間とは思えないほどに機敏な動きを見せていた。

「うん、地元で2年くらい。うち、バイトOKの高校だったから」

「どうりで」

 経験者なら、あの動きの良さも理解できる。

「はー、とはいえ立ちっぱなしは疲れるよねー」

 ナナコもに腰掛ける。

 勢いよく座ったことで、胸が一瞬ぶるんと揺れた。

(前にも思ったけど、ほんと胸でかいよなあ……)

 さっきから、制服がかなり窮屈そうだった。

 艦これの鹿しまっぽいフォルムだ。

 もっとも、2006年の今言ったところで伝わるはずもないんだけど。

きよう? こっちジッと見て……どうかした?」

「い、いや別にっ。そ、そういえば、シノアキとつらゆきはバイトしないのかな」

 すように話題を変えた。

 そういやあの2人からも、そういう話を聞かない。特に仕送りが多いというわけでもなさそうだけど。

「貫之は知らない。なんか適当にやってんじゃない?」

「ナナコも知らないか……」

 一緒に住むようになってしばらく、つらゆきは僕たちとあまり時間を合わせなかった。

 せいぜい夕飯を時々一緒に食べるくらいで、4人の中では一番素性の知れない人間だ。

「シノアキは奨学金申請したらしいよ。あと、あんましバイト向いてないって言ってた」

「まあ、向いてる感じはしないかな」

 シノアキがあの雰囲気でシャキシャキと働く姿は想像できない。

 しかし奨学金か……。10年後、返済の遅れで問題が起こることとか、今はまだ話題にすらなってないころだよな。

「そういやさ、シノアキってよく部屋にこもってるよね。何してんのかな」

「え?」

「バイトもしてないし、学校終わるとすぐ帰ってるし、普段何してるのか気にならない?」

「あ……」

きよう、何か知ってる?」

「えっとその……」

 説明しようとして、思いとどまった。

 あの日の夜、僕が見た光景。

 あきしまシノ──いや、シノアキが絵をいていた場面。

 鬼気迫る様子と、描かれていた絵の内容に圧倒されたことを思い出した。

「いや、特には。でもほら、趣味のひとつやふたつはあるんじゃない?」

「ふーん、まあ、そうかもね。いきなりの一人暮らしだし、アイツ遠くから来てるし、さみしがったりしてなければいいけど……と思っただけで」

 シノアキが絵を描いていたことについては、まだだれにも話していなかった。彼女自身、誰にも言った様子がなかったし、軽々しく言っていいものとも思えなかったから。

 ナナコもそれ以上は聞いてこなかった。しかし、他人を思いやれるいい子だなあ。つくづく性格が外見を裏切っている。

 そういや、ナナコはなんで大芸に来たんだろう。

 彼女だって、何かを考えてここにやってきたはずなんだろうけど、まだ聞いたことがなかった。

「あ、やっば。ドリンク補充してなくない?」

「そうだね、僕やってくるよ」

「お? じゃあどのぐらい減ってるか教えて~」

 立ち上がって、ドリンクの棚の方へ向かう。

 お茶や炭酸飲料が残り2~3本になっている枠がほとんどだった。

「けっこうなくなってるね」

 かがんで、後ろの段ボール箱からペットボトルを補充していく。

「あ、じゃああたしもやるね」

 後方からナナコの声がして、こちらに近づいてくるのがわかった。

「うん、ありが……とっ!?」

 前を向いたままだった僕の頭と肩に、妙に柔らかくて温かいものが押し当てられ、思わず変な声を上げてしまった。

「あ、ホントだ。ジンジャーエールもボカリも減ってるね。こっちはあたしがやるよ」

「う、う……」

 うまく返事ができない。

 相変わらず、頭には胸が離れたり近づいて触れたりが繰り返されている。背中にもときどき太ももらしきものが触れてくる。「よいしょっと」の声とともに、胸がさらに押しつけられたりもする。なんだろうこれ。お店のサービスだったらいくらするんだろうこれ。

 絶えず冷気が流れてきているはずなのに、僕はずっと身体からだらせたまま、無言でドリンクの補充を続けていた。

きよう、黙っちゃって、どしたの?」

「あ、いやえーと、その……」

「あ、ここ狭いからちょっと身体当たるかもしれないけど、ごめんねー」

「それはどうも……ありがとうございます」

 お礼が何に向けてだったのかはさておき。

 むにゅっ、ふわっ、の感触とぬくもりが引き続き押し付けられる。

(あ……やばい、ちょっと一瞬気が遠く)

 もはやドリンクの補充はそっちのけで、意識は背中にすべて集中していた。

「よーし、これでひととおり入れ終わったかなー」

 数分の後、天国はあっさりと終わろうとしていた。

 本能がまだだと僕をしつし、僕は素早く目を走らせて、ナナコに告げる。

「あ、まだ左側が残ってるね」

「お、じゃあこっちもあたしがやるねー」

 むにゅっ、とか、ふわっ、とかの天国が再開する。

(ダメだ……これはダメなやつだ)

 多幸感が強すぎて、僕はこのまま死ぬんじゃないかとまで思ってしまった。

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