第1章 2006年、春へ その6

 共同生活のトラブルはこれだけじゃなかった。

「昨日は大変だったなあ……」


 シノアキとつらゆき(と、なぜかナナコも含めた)の食べ物騒動の翌日、大学から帰ってきた僕は、ゆったりとおにつかろうと思っていた。

 お湯の準備を済ませてしばらくリビングで時間をつぶし、ころいを見て、素っ裸で風呂場のドアを勢いよく開けた。

「あっ」

「えっ」

 3秒ほどかかった。

 すでに中にいた桃色の物体の判別にかかった時間だ。

「うわあああああああああああっ!!!」

 もちろん、開けたとき以上に勢いよくドアを閉めて、さっさと服を着た。

 僕の慌てぶりもどこ吹く風、風呂場からはのんきなシノアキの声がする。

「あははっ、なんか変やと思ったんよね~。お風呂入ろうと思ったらもうお湯がはられてて、ラッキーやーって。きようくんやったんやね」

「あ、あはは、そ、そうだねっ」

「恭也くんごめんね、勘違いしてお風呂入ってしまって~」

「いや、別にかまわないっていうかそれよりもその、見てないから安心してっ!」

 ウソだ。本当はけっこうしっかり見てしまっていた。

 背の低さの割にしっかりあるお胸さまとか、太ももからおしりのラインとか、あと、なんともやばいところにあるホクロとか、もう色々とヤバいのを、ヤバいぐらいに。

 でも……、

「え? ああ~だいじょうぶよ、すぐ閉めてくれたけん問題なかよ~」

 シノアキは朗らかに許してくれたようだった。

(はあ~……それにしても、こないだのナナコといいシノアキといい)

 いっしょに暮らしていればラッキースケベのひとつぐらいはあり得るだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早い段階で実現するとは。

 でも、うん、やっぱり若いよね。十代。肌のハリとか、こう……。

「いや、それはそれとして……」

 今の僕にとっては、もうひとつの脅威をなんとかする方が先立った。

「……こっちは色々と説明が必要なんじゃないだろうか」

 目の前には、もう1人の女子が怒りの形相で立っていたのだ。

「……普通さ、お風呂の戸を開ける前とはいっても、だれか入ってることぐらいはわかるよねえ? わざとでしょう!?」

「い、いや、ボーッとしてて気づかなかったんだって! 本当に! いっ、痛い! でもやわらか……い」

 ヘッドロックはもちろん痛い。でもナナコのは痛いだけじゃない。顔にしっかり胸が当たっていて、僕はもう反省していいのか興奮していいのかわからない状態だった。


 この男女混合シェアハウス生活は、男性にとってヤバいものであふれ返っている。

 改めて、僕は思った。

 ああ、大学生っていいなあ……と。


     ◇


 1週間もころには、それぞれの得意分野がだいたい決まっていた。……というか、他の3人の家事能力の低さが明るみになってきた。

 結局、僕はすいや掃除などの全般を担当することになり、つらゆきは力仕事とゴミ捨て、ナナコは僕と交代で炊事(彼女の食事はかろうじて食べられた)、そしてシノアキは……特に得意なこともなかったので、みんなのお手伝い係になった。

 そしてこの日、ジャンケンで負けた男2人が、そろって夕食の後片付けを担当することになっていた。

「貫之って、ジャンケン弱いよね」

「お前それ、自分も負けておいてよく言うよ」

 3回勝負のジャンケンで見事にストレート負けした、僕と貫之の言い争いもむなしい。

「これ、シノアキのじゃね?」

 テーブルをいていた貫之が、置き去りにされたオレンジ色の小さなポーチを取り上げる。

「あ、たぶんそう。僕見覚えあるよ」

 答えると、貫之はポーチをこちらにふわっと投げてよこした。

「同じ2階なんだし、持っていってやれよ」

「あ、うん」


 階段を上るちゆう、入居してすぐの夜の、貫之の言葉を思い出していた。

「まあ、シノアキはかわいいよな」

 顔や性格だけじゃなく、映像学科に入ったのに映像に詳しくないところとか、生活面がさっぱりダメなところとか、どこか浮世離れしているところとか……妙に間が抜けているところとか。

 ナナコもいいやつだけど、あの子の彼氏になったら苦労するだろう。すぐ手出るし。

 シノアキなら、保護欲みたいなのもいてくる。あの様子では、なんかこう、守らなきゃいけない相手のように思えてくる。だいたい本当は10も年下の女の子なのだ。

 まして、この大学はあの厳しい女教師みたいなのもいるサバイバルなところだ。

「おーいシノアキ、いるー?」

 ドアをノックするも、応答はなかった。

 しかし、耳をすませると、部屋の中からかすかに物音が聞こえてくる。

「いるのか……?」

 ヘッドフォンやイヤフォンで音楽でも聴いているのかもしれない。

 静かにドアを開けて、中に入る。

「シノアキ、わすれも──」


 生きていて、あまり絶句する瞬間というのは訪れない。

 文字通り、言葉を無くすようなことなんて、そうそうないからだ。

 そこには大体、びっくりしたとかいう言葉とか、うわあっという叫び声とか、すごいだのかっこいいだのといった感嘆などがおおかた当てはまるからだ。


 だから、僕はその時、自分が絶句していることを、あとで客観的に『表した』のだ。


「シノ……アキ……?」


 部屋中を覆う大判の本の山。油彩水彩問わずキャンバスや画用紙、スケッチブックの森。足の踏み場もない程に埋め尽くされた画材の草原。そこに存在するありとあらゆるものが、すべて『絵』に関するもので占められていた。

 タブレットのペンの先から発せられる、シャッ、シャッという音だけが、部屋の中で、ただ響いている。ペンの持ち主からは熱気がほとばしっていた。ペンのストロークは力強く、そして重い。小さなはずのその持ち主は、背中から明らかに異質な空気を発していた。

 電灯は消えている。しかし部屋には明かりがあった。モニターの光だった。20インチの液晶モニターには、躍動するように色が躍り、1枚の絵が作られていた。

 少女の絵だった。

 一面のひまわり畑の中で、微笑ほほえんでいる少女の絵だった。

 麦わら帽子が風で飛びそうになっていて、ちょっと困った顔をして両手で押さえていて。ワンピースのすそがちょっとだけめくれていて、日焼けしていない太ももが白く、そこから光を放つように美しい──そんな絵だった。


 僕は静かにその場へポーチを置くと、音を立てないようにドアを閉め、外に出た。

 よろめきつつ、すぐ近くにある自分の部屋を開け、倒れ込むように中へと入る。

 昨晩から敷きっぱなしだったふとんに寝転ぶと、

「はは……ははっ」

 自然と、笑い声がのどからあふれ出た。

 彼女が絵をいていたことも、どれほどの力をもつて取り組んでいたかも、僕は何も知らなかった。そのすさまじさを目の当たりにして、驚いたのは確かだった。同い年だとは思えないぐらいの迫力に圧倒され、何も言うことができなかった。

 でも僕が絶句した理由は、それとは違うもうひとつのことの方が、大きかった。

「すごいな……。まさか、こんな近くにいたなんて……」

 はしきようが何よりも大切にしていた1冊の画集。

『サンフラワー』と名付けられたその本には、その絵師が描き続けた数々のイラストが収められていた。そして表紙には、発売から10年前の学生時代に描かれたイラストが使われていた。見まちがえるはずもない。数分前に自分がモニターで見たばかりの、ひまわり畑に立つ少女の。

 あれだけ同じ大学だ、同じ大学だと考えてきたんじゃないか。すぐそばにいても、全然不思議ではなかったはずなのに、それでもなお、自分とは遠い存在だと思っていた。

 だけど、思いがれた存在は、僕の想像よりもずっと近くに、息を吸う音が聞こえるほどのところにいたらしい。







 ──あきしまシノ。


 僕はその名前が、シノアキという本名をもじって付けられたということに、今さらながら気がついたのだった。


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