朝の国

藍雨

朝の国




「またいつか、会えますか?」

「うん。きっと、夜で会おう」



 交わした約束は、まだ果たされぬまま。

 夜の来ない国で朝に生きながら、気づけば五年が経とうとしていた。







「最近どうよ、仕事」

「ぼちぼちってところね。そっちは?」

「俺もまあまあってところだ」


 朝の国での職業は、主にみっつ。王国騎士か、外交官か、医者。時々、酒場経営者。彼は騎士、わたしは外交官だ。

 そもそもさほど国民の数も多くないこの国には、配達屋も店も必要ない。先の大戦で大きな被害を被った朝の国では、もうほとんどの機能が麻痺したままだ。だから騎士のメリルにも、外交官のわたしにも、仕事らしい仕事はない。

 今日も今日とて、城の門扉のそばにひっそり佇む酒場に入り浸っている。

 ––––––––––ただれている。国王が国の再建に重い腰をあげようとしないのは、きっと、わたしたち三大侍者がこんな風に呑んだくれている所為に違いなかった。


「そういや、ルルは?」

「今日はまだみてないわ。寝てるんじゃない」

「ルルに限ってそんなことあるかね」

「あったんじゃない、姿をみせないんだから」


 ルルは、三大侍者のひとり、医者だ。几帳面で、真面目で、優等生。かつて存在した医者候補生たちの中でも圧倒的な成績を修めていた。きっと、大戦で侍者候補生が死んだことにより職を得たメリルやわたしと違い、なにが起ころうとルルは医者になっていただろう。


「メリル、マーネ、おはよう」

「あ、噂をすれば」

「寝坊か? 珍しい」

「冗談はよして。……国王に呼ばれていたのよ」


 ……メリルも、そしてわたしも、息を呑んだ。

 国王が、侍者を呼び出した?


「キール補佐はどうしたのよ」


 侍者に言伝がある場合、国王直属の補佐役、キールを通すはずだ。……すくなくともこれまでは、一度も例外はなかった。


「……補佐は、亡くなったわ」

「それこそ、悪い冗談じゃないのか」

「こんな冗談言って、どうするの……? メリル、すこしは頭を使って頂戴」

「……悪かったよ」


 ……嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。

 ルルは、ただえさえちいさい声を一層潜めて、こう言った。


「暗殺よ。夜の国からの、刺客」







 夜の国。昼の国に負け、朝の国を負かした国。–––––––––––朝の来ない国。


「あの国の王に、暗殺を命じるような活力が残っているとは思えない」


 朝の国を負かした夜の国は、すでに昼の国の敗者として、苦渋を強いられていた。戦争をけしかけたのだって、きっと昼の国の企みだろう。

 朝の国は、きっと裏で昼の国の支援を受けていたであろう夜に大敗した。敗戦条約の締結のために、わたしは外交官として夜の国を何度も訪問した。


「……国王の瞳に、戦前の輝きはまったくなかった。昼の国の仕打ちは執拗で、定期的に夜の国王を呼び出しては、どうやら相当の屈辱を強いているようよ」

「酷い話だな」

「敗戦したのはわたしたちも同じよ。……夜はなにもしてこないけれど、夜からすべてを搾り取ったら、昼はきっとわたしたちを標的にかえるでしょうね」

「その布石だってのか?」

「わからないわ。そこで、外交官マーネの出番よ」

「……嫌だなあ」

「そんなこと言わないの。国王からの命令よ、とにかく夜の様子を視察してくるの」

「……なんで先にルルを呼び出したのよ」

「だってほら、マーネは王からの呼び出しに応えるほど、律儀なひとではないから」

「うへえ、よくご存知ですこと」

「はっ、いい機会だ、日頃の行いを改めるんだな」

「メリルが言うことじゃないわ」


 出発は明後日。旅支度というほど大仰な準備はいらない。必要なものはせいぜい、心の準備だけ。

 朝から夜へ、渡る覚悟。それだけだ。







「旅支度は抜かりない?」

「そこは信用してくれていいわ」

「ほんとかねえ」

「メリルは黙ってて。……ねえルル、夜への視察は、ほんとうに公的なものなのね?」

「当たり前でしょう。マーネは朝の外交官なんだから。無下に扱ってごらんなさい、あの国から夜を奪ってやるんだから」

「……朝を奪われそうになったこの国にそんな力はねえよ」


 メリルは時に酷い正論を言う。ルルが氷のような視線で黙らせた。


「危険なのは、承知の上だけどね。とにかくまあ、まずは夜に殺されないように朝を出るよ」

「ええ、信じてる」

「帰って来いよな。……出来るだけ、はやく」

「行ってくる」




 朝から夜へ、峠越え。旅支度は抜かりない。朝の国民は、朝の中でしか生きていけない……ふつうは。

 わたしは違う。わたしは生きていける。だからわたしは、朝の外交官なのだ。だからいま、わたしは守れなかった約束に、心を侵されそうになっている。

 夜へ行きたくない。きっと彼は待っている。夜闇の中、月明かりの下、満天の星空のそのひとつ……彼は、きっと、わたしを待っている。







「待ってたよ、懐かしいひと」


 眩しいひとが、そこには居た。わたしは彼の待ちびと。彼はわたしの、心残りのひと。


「お久しぶりですね、ダスク」

「王はもうお休みになられてしまった。代わりにもならないが、謝罪を。申し訳ない」

「とんでもない、わたしの到着がこんな夜更けになってしまったから」

「……やはり、朝を越えるのは大変なのか?」

「慣れていますから、問題ありませんよ」


 朝を越えたのはいつ以来だろう。昼を通らずに夜に来てしまった所為で、負担は通常より重かった。


「とりあえず、休んだ方がいい。案内する、此方へ」

「ありがとうございます」


 ダスクは、夜の国の外交官だ。

 そして、わたしが再会の約束を交わした相手だ。

 






「月が、きれいですね」


 朝の国では絶対にみることができない月。夜空をすっかり覆ってしまうその寂しげな光は、朝の陽光しか知らないわたしにとってはすごく新鮮だ。そして、その光が国に居るときには絶対に味わえない、どうしようもない哀愁を呼び起こす。


「その言葉は、もう夜の国では聴けない。マーネ、きみがそう言ってくれて嬉しいよ」

「思ったことを、そのまま言っただけです。……ああそうだ、ルナ様はお元気ですか?」

「ああ、お元気だよ。一時はどうなることかと思ったが、お強くなられた」


 ルナ様は、夜の国の貴族の最後の生き残りだ。昼との戦争で王家のものも、王家直属の帰属家も、ルナ様を除いてすべてなくなってしまった。

 夜の国も、たくさんのものを失った。……わたしたちと同じように、たくさんのものを。

 

「今回は、視察のみということだけど、どのくらい滞在する予定なの?」

「三日ほどで、帰国する予定です」

「そうか。じゃあそれまで、ゆっくりしていって」

「はい、お世話になります」


 笑顔をつくる。うまくできただろうか。緊張で固まっていなかっただろうか。


「……朝焼けが、恋しいかい?」


 息を呑む。……どうやら、筒抜けのようだった。


「敵いませんね、ほんとうに。正直言うと、はい、朝焼けが恋しい。陽光の鋭い朝焼けが、みたいです」

「きみはほんとうに正直なひとだ」


 その自然な笑みに、どうしようもない差をみせつけられたような気持ちになった。彼は、星らしく、控えめな明るさの、とても美しい笑みを浮かべていた。

 この美しさが、この国の美しさが、汚れてしまっているのだとしたら。

 わたしは、悲しくて悲しくて、仕方がない。







 夜に来てから二日目、静かで月のきれいな夜がわたしの疑念を溶かしていく。キース補佐暗殺事件、正直、夜の国が噛んでいるとはとても思えなかった。

 けれど、ルルは確証もなしに推論だけを口にするようなひとではない。一体なにが起きているのだろうか、外交官としての職務は視察のみであるのに、勘繰りばかりが先走る。


「やあ、マーネ。食事は口に合ったかい?」

「ええ、美味しかったです」

「そう、よかった。どう、これから食後の散歩にでも?」

「喜んで」


 ちいさな星がたくさんいる食堂を出て、わたしはダスクと夜を歩く。


「敬語なんて、やめていいよ」


 ダスクが、意地悪く笑った。わたしは仕事の時は、生来のどうしようもなく適当な部分が出てしまわないように、決して敬語を崩さない。


「……ダスクだって、口調が職務用のものだわ」

「……あはは、そうかな」

「なんだか、信じられないわ」

「ぼくら五年前まで、戦争してたから現実味が薄いんだよ」

「そうじゃなくて」

「それじゃあ、ぼくらが再会していることが?」

「……そうね、そうよ。まさか、あの約束を果たす時が来るなんて、思っていなかったから」

「夢だったらよかった?」

「ふふっ、そうね、夢だったらよかったんだわ」

「嬉しくないの?」

「……素直にはね」

「ぼくは嬉しいよ、マーネ」


 終戦の五年前、わたしとダスクは月が夜を覆う美しい夜の中で出会った。彼もわたしもその時はボロボロで、あんなに素敵な情景を背にしながら、すこしもロマンチックな出会いではなかった。


「まったく、変わらないわね」

「マーネもね。ああでも、視察という公務があるとはいえ、夜へやって来たのは、なにか心情の変化でもあったってことなのかな」


 変わったのは心情ではなく情勢だった。けれど、情勢の所為で心情が変わってしまったのだとしたら、あまりに不自然な変化の仕方で、自分のことながら気持ちが悪かった。


「そんなんじゃないわ、きっと」

「きっと、か。ぼくら、きっと、なんて不確定要素だらけの言葉で再会の約束をしたよね」

「……よく覚えてるわね」

「きみだって、その言い方だと、覚えているんじゃないの」

「……そうだけど」

「なんだ、一緒だ」


 楽しそうに笑うダスクは、やはり星なのだとわかるほど、その存在感を惜しみなくみせつける。朝のものであるのに、わたしはこんなにはっきりしなくて、こんなに曖昧だ。


「ああ、ほら、今日はなみだ星がみえる」

「なみだ星?」


 彼が指さすほうへ視線を移すと、空からひとすじ、ふたすじと、星が降っていた。


「あれ、なに!?」

「驚いてるね、やっぱり。いいよね、あれ。すごく美しいんだ」

「……なみだ、星」

「なんでも、昼の国では悲しい時になみだ、ってものを目から流すらしい。そのなみだが、夜の国のほんの一部のものの目からも、流れるようになったんだ。それで、なみだ星。夜の国では、嬉しい時にもなみだを流す。きっと誰か、いいことでもあったんだろうね、だからほら、とても美しい」

「どうして、いいことがあったから流れているなみだだとわかるの?」

「いろだよ、ほら、澄んだ青の星。あれ、うれしなみだ、って名前なんだよ」

「へえ……確かに、美しいわ」

「幸運だったね、マーネ」


 朝の国に、これほど感情を揺さぶるものがあるだろうか? ……ひとつだって、ない。なみだ、なんて、敗戦で怠惰を極めたわたしたちにはきっと、流す権利もない。

 あんなに美しいものを、わたしたちのものにしてはいけない。


「いい夜だわ」

「……驚いた、マーネの口からそんな言葉が出るなんて」

「素直に褒めたくもなるわ。夜は、進んでいるのね」


 朝とは違って。

 夜は、進んでいる。一歩ずつ、敗戦の悲しみに溺れるだけの日々から脱するため。

 わたしたちも、動かなければいけない。……わたし「たち」、なんて。


「……進まなければいけないのは、わたしだわ」

「マーネ?」

「ねえわたし、今からおかしなことを言うけど、夢だと思って聴いて」

「再会を夢にしたがるね、マーネは。いいよ、これはぼくの夢だ」

「うん、そう、夢よ。だから言うわ、わたし、ダスクが好き」


 なみだ星がまたひとつ、流れた。かすれたグレーが、誰かの悲しみを伝える。


「五年間、忘れたことなんてなかったわ。忘れようとしても、忘れられなかった」


 すうっと流れるなみだ星。わたしも流せたら、どれほど。


「会いたかった。でも、会いたくなかった。だって、自覚しちゃうじゃない、この気持ちを、自覚してしまうじゃない。夜に置いて、朝へ帰ったのよ、わたし。夜の闇に隠して、隠して、誰にもみつからないように、わたしの光にも、みつからないように」


 夜へ渡るため、ベールを深く被る。このベールを被ることができるのは、朝でわたしだけになってしまった。だから誰にも、みつからないはずだった。わたしが動かなければ、わたしにだってみつからないはずだった。


「これはダスクの夢。そして、わたしの夢よ」


 聴いてくれてありがとう、覚めていいわ、言おうとして、ハッと息を呑んだ。

 グレーと青の星が、夜を埋め尽くしていた。

 ダスクの目から、雫が溢れていた。


「なんてことを言うの、マーネ」


 止まらないそれは、美しいなみだだった。


「夢だなんて、あんまりだよ」


 溢れて止まらないなみだに触れたくて、手を伸ばした。ベールの裾からぼんやり漏れた光が、雫を照らす。


「こんなにきれいなのに、夢にしてしまうなんてあんまりだよ、マーネ」


 気づけばダスクの腕の中だった。なみだがわたしの頬に落ちた。それはすこしひんやりとして、そして、あたたかかった。


「だってわたし、視察に来たのよ。自分を救いに来たわけじゃない」

「きみは、救われているの? なら、それをぼくにも認めさせてほしい。夢になんて、しない。それで済むわけない、いいや、済まさない」

「頑固ね、さすが星だわ」

「なんとでも言えばいいよ」

「なみだを流すのを、やめて。なんだか悲しくなるわ」

「ぼくが流しているのは、悲しみのなみだじゃないよ。みて、空を」


 空一面を埋め尽くすうれし涙だった。青い星が降る空の下、初めて出会ったあの日より、すこしだけロマンチックな夜だった。


「止められないの? なみだ」

「無理だよ、思い通りにはならないんだ」

「そう、それなら、仕方ないわ。好きなだけなみだを流すといいわ。きっとそれ、我慢してきた五年分の感情の塊だわ」

「なんだか情けないなあ、ぼくだけ」

「わたしの陽光の所為、ってことにすればいいわ。眩しくて、目に染みたんだ、って」

「そんな言い訳、誰も認めてくれない」


 ダスクはなみだを流しながら、また美しい笑みをみせた。わたしもつられて口角が上がった。

 今度はきっと、うまく笑えていたはずだ。







「三日間お疲れ様、マーネ。無事に帰国できることを祈ってるよ」

「ありがとうございます。お世話になりました」


 国王との謁見も済ませて、わたしは確信していた。

 夜は、決して汚れたりなどしていない、と。

 昼が夜を偽ったのだろう、わたしはこの推論を国へ持ち帰る。単純だ、早計だと言われても構わない。必ず持ち帰って、疑惑を晴らす。


「いい夜を過ごせました。きっとまた、夜へ渡りますね」

「約束だ。きっと、ではなく、必ず、だ」

「……そうですね、必ず」


 ベールを深く被って、夜と朝の境界へ歩き出す。夜の闇に取り込まれないように、光を守りながら帰路を進む。……夜闇に紛れて自分ごと隠れてしまいたいと思っていた五年前のわたしはもう、居ない。

 朝へ帰る。陽光の世界へ。けれど今は、月のきれいな、なみだが降る美しい夜のことも、恋しく思っていた。


 

 ベールを脱ぎ空を見上げると、わたしは朝を迎えていた。



fin.

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朝の国 藍雨 @haru_unknown

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