第3話 GK文庫と行きつけのラーメン

「はぁ~。今日もダメだった……」


 薄茶色の髪を、仕事用に束ねて、ポニーテールにしている二十代前半の若い女性は、デスクに頭を突っ伏して、顔を伏せていた。サラリーマンらしく、紺色の上着と白いカッターシャツを着こなす、その少し大人びた印象を覚える女性の名は、香月瀬奈こうづきせなその人である。


 彼女の勤めるGK文庫の自身のデスクに突っ伏す彼女の肩を、近づいてきた一人の男が叩いた。


「ま~た、駄目だったのか。まぁ、気にするな。空はそういうやつだから」


 年の割に若さを覚える細身の体と顔立ち、黒縁の眼鏡をかけた姿が印象的な男性がそう言った。振り返った瀬奈は首から下げられた社員証に書かれた「寺島」という文字と、よく見知った顔をちらりと双眸そうぼうで捉えて、返答した。


「……編集長、このままでいいのでしょうか?」


 瀬奈がそう問うと、寺島という男は小さく笑って。


「まぁ、いいんじゃないか。別に空が原稿を、締め切りを破って提出しているわけではないし、内容も十分なレベルに達している。心配することはないよ」


 編集長である寺島は、編集の一人である瀬奈の肩を再び軽く叩いた。


「……それは、そうなんですけど。あまりにも、会う機会がなくて、本当に先生の担当なのか心配になってしまって。私まだ、新人なので」

「気にするな。君はよくやっているよ。新人に担当を任せることはあまりないけど、君はそれに見合うだけの働きをしている。それは、空もきっと理解していると思うよ」

「……編集長……ありがとうございます」

「まぁ、これからも空のことを頼んだよ」


 どこか格好の良い雰囲気を漂わせて、寺島は瀬奈のデスクを後にした。


 瀬奈が働くGK文庫は、比較的最近に設立されたライトノベル専門の出版社であり、似たような編集部がひしめくエリアイーストの一角にある。ビルの高層階に位置していて、景色もかなりいいのだが、オフィスビルの一部を買って社屋にしているので、今いるビルの全てがGK文庫の所有物ではない。


 社員数は現時点で354人おり、部署ごとに分かれている。宣伝部、総務部、営業部に人事部など色々あるけれど、瀬奈は花形の編集部に配属された。


 カリカチュアの中でのサブカルチャーというものの位置づけは全ての頂点であり、作品に直にかかわる職業の待遇はかなり良い。しかし、それ故に、そう言った職に就くのはかなり難しくて、豊富な知識と経験や、要領よくこなせる技量に、コミュニケーション能力など、様々な技量を要求される。


 そんな編集部に大学卒業一年目、23歳にして配属されているのだから、彼女はかなりの期待の星だ。しかも、一年目から専属の担当を持っていて、しかも小説の売り上げも良いときた。


 そんな彼女に憧れる男性は、その美貌と相まって、多数いて、対して他の女性社員からは、嫉妬の目と憧憬の目の二種類の視線を浴びせられる。そんな日々が続いていた。


 3月に入ってまだ少し。温暖化の影響からか外に出ても暖かい。夕方で日が沈み始めた頃に瀬奈はエレベーターで降りて、会社の外に出た。


 同僚の女性に飲みに誘われたが、「今日はやめとく」と軽く断って、オフィス街の人通りの多い通り沿いを歩く。立ち並ぶ現代建築のビル群の全てが、何かしらサブカルチャーに関わりあいのある会社の所有物だ。


 特にGK文庫のビルもあるエリアイースト、カリカチュアの東側のエリアには、そういった類の会社が一堂に会する。まさに、サブカルチャーのためのオフィス街と捉えるのがわかりやすい。


 カリカチュアの運営システム上、各企業が競争及び共同開発等をしやすいために、一つのエリアにこう集められているのだが、各エリアによってテーマパークのように様相が変わっているので、オフィス街としてまとめてしまう方がいいと考えたから、こうなったとも言える。


 瀬奈と同じようなオフィスレディやサラリーマンの人混みを抜け、とある路地裏に瀬奈は入る。目的地に向かって、瀬奈の足取りは軽い。

 年配の男性が好みそうな渋い雰囲気の居酒屋や小料理店の立ち並ぶ路地裏の繁華街の一角にある一店のラーメン屋に慣れた感じで瀬奈は入った。店名は「ラーメンかざぐるま」である。


「おぉ、瀬奈ちゃん、いらっしゃい。また、来てくれてうれしいよ」


 黒い制服のシャツを着た太った男の店主が瀬奈にそう言った。


「いつもすみません。今日は、無性に食べたくなってしまって」


 瀬奈も微笑を浮かべて、返答する。入ってすぐ右側にある券売機にお金を入れて、慣れた手つきで「極み豚骨塩ラーメン」を頼んだ。


「じゃあ、いつもと同じく麺堅めで、お願いします」

「はいよ。任せておいて」


 店主に食券を渡し、まばらに空いているカウンター席の一つに座り、出された水を飲んで待つ。ポケットからスマートフォンを出して、画面を開くと、あるコミュニケーションアプリに何かの連絡が入っていた。


 アプリを起動し、内容を確認すると、メールの送り主は編集長である寺島からである。


「時間が出来たら、今日中もしくは明日の内に空の家に向かってくれ。まぁ、時間的に明日の方がいいと思うから、明日は出勤しなくていい。仕事の扱いだから、給料に影響はないから心配するな。で、詳しく言うと、空から連絡があって、担当編集と大切な話をしたいとついさっき連絡がきた。内容は俺もそこまで把握していない。だから、珍しいことだけど、担当編集として空のこと頼んだよ」


 書き連ねられた長文のメールに、瀬奈は驚愕していた。


 毛嫌いされていると思っていた自分の担当する作家が、自分に相談があると言っているのだから。

 瀬奈はすぐさま、フリック入力で返信する。


「わかりました。明日向かいます。会社のことはお願いします」


 そう打つと、すぐに既読の文字が現れた。そして、すぐにスタンプで返信がきた。


 何かの可愛らしいキャラクターで「任せたぜ!」と親指を立てているものだった。


「はい、お待ち。極み豚骨塩ラーメンの麺堅め、どうぞ!」


 スマホの画面を閉じると、丁度良いタイミングで、綺麗に盛られたラーメンが提供された。

自家製中太麺は小麦と卵が混ざり合い、独特の香りを感じさせながら、白濁として泡立ったスープに浮かんでいる。人為的に攪拌かくはんすることによってできた泡によって、中太麺とスープが箸で持ち上げてもよく絡む。

 トッピングにも抜かりがなくて、分厚くて大きな中心部がほんのりピンク色のレアチャーシューと噛み応えのあるメンマ、小口切りにされた葱と、黄身がとろりと溢れる半熟煮卵が、スープの上を飾っている。


 瀬奈は小さく息をふぅふぅと吐いて、麺をすする。馴染みの味に目や口を綻ばせるが、その笑みの理由は美味しさだけではない感がした。


 レンゲでスープをすくい、白濁としたスープを口に運ぶ。油分を多く含んでいるから、口紅をつけたリップが艶っぽく光る。


 店内にいる少しの男性客と店主の太った男性の目を、ラーメン屋に似つかわしくない美女が、美しく食する姿に目を引かれていた。

 麺とトッピングを食べきって、白濁したスープを幾らか掬って飲んだ後、瀬奈は首元に浮かんだ汗を手で拭って、席を立った。


「ごちそうさまでした」


 小さく会釈して、そう述べると。


「ありがとうございました! また、よろしく!」


 と、店主が大声で伝えた。


 微笑を浮かべて、店を出ると、瀬奈は満足した様子で帰路についた。

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