今できる最善を(7/7)

 八月九日二〇分十分。開場こそ大幅に遅れたが、閉会式は予定通りに開始した。遠くから人の歓声や音楽が聞こえてくる気がする。そんな状況であったが、サイバーテロ対策チームはまだ落ち着くことが出来なかった。


 晃一はまだプログラムの編集を行っている。ミストポンプにはスイッチのオンオフに連動した電動弁と呼ばれるものがある。この弁が開くと噴霧が行われる仕組みだ。そして現在、問題となるミストシャワー噴霧装置のスイッチは、起動システムによって自動操作されている。


「あと二〇分しかないっスよ」

「わかってる。自動操作から手動操作に切り替えるためには……本当に緊急時の、誤作動に備えた何かはないのか? タイマー機能と自動操作の連携にひと手間加えるには……他の条件を加えるか?」


 良亮の言葉を聞き流し、ブツブツと呟きながらプログラムの編集作業を行っている。しかし疲れているのか頭が回っていない。プログラミング言語を書いては消す動作を繰り返している。


「……この手があったじゃないか!」


 どれほどの間考え込んでいただろう。何かを閃いたらしい晃一が重たい指先を動かし、プログラムを書き換えていく。一連の動作を終えるとプログラムの実行をし、起動システムのプログラミングに編集内容を反映させる。


 プログラムの修正が終わってしまえば、あとは機械語プログラムに変換して起動システムに反映するだけである。修正したプログラムの実行を行うと晃一が、まるで立てこもり犯から解放されたような弱々しい笑みを見せた。


「あと五分もあれば反映されるはずだ。安心しろ、今回はキーの打ち間違えなんてやらかしてないから。さて、あとは『二〇時二〇分』を待つだけだ」

「了解っス」


 疲れきった晃一に、良亮が缶コーヒーを手渡す。見慣れた無糖ブラックコーヒーの缶に、晃一が口角を上げた。




 八月九日の二〇時二〇分、噴霧装置が起動するとされている時間。モニタールームに軽快な通知音が鳴り響いた。晃一がすぐに応じ、スピーカーモードにして音声を皆に聞かせる。


『噴霧装置、起動しておりません。現在二〇時二〇分五十四秒……五、六、七、八、九、二〇時二十一分になっても稼働なし。起動システムの無効化を確認しました! ただいまより噴霧装置の回収作業に移ります』


 発信者は、問題となっていたミストシャワー噴霧装置の稼働を確認していた警官である。無効化を知らせる連絡に、その場にいた誰もが歓声を上げる。十四時から始まった、約六時間にも及ぶ戦いは幕を閉じたのだ。


「晃一さん、何したんすか?」

「何って……カウントダウン後の起動を『スイッチON』から『手動操作への切替』に変更したんだよ。制御盤との連動を解除して、起動システムそのものを無効化したわけだ。矛盾が生じないようなプログラムにするのは苦労したけど」

「スイッチを切るわけにはいかなかったんスか?」

「正直に言うと迷った。けど、結果オーライだ。切替の選択を選んでよかったと思ってるよ。手動なら、調べる時に困らないだろ?」


 そう言うと晃一は憑き物が落ちたような顔で缶コーヒーを一気に飲み干した。良亮と晃一の手が宙で音を立てて重なる。遠くから、閉会式の出し物に流れる音楽が聞こえた気がした。




 閉会式に計画されていたバイオテロが阻止された直後、八月九日二十一時のこと。とある警察署の取調室では、バイオテロを計画した犯人である海人が、断続的に続く取り調べを受けていた。


 取り調べの最中にも関わらず外から警官が入り、中にいた警官に何かを耳打ちする。何かを聞いた瞬間、警官の顔があからさまに明るくなる。その表情の変化から、海人は何が起きたのかを瞬時に悟った。


「本当に止められたなら仕方ない。全部話すよ。それでいいだろう? で、何から知りたいの?」


 仕掛けたウイルスはばらまかれなかった。仕掛けた爆弾は爆発しなかった。ならばと潔く負けを認めた海人は、警官に真正面から向き合う。もう笑みを浮かべてはいない。



 仕掛けられたミストシャワー噴霧装置はロシアの犯罪組織から譲り受けたものらしい。機械本体は航空輸送で日本に持ち込まれたそうだ。見た目はただの噴霧装置でしかないため、生物兵器とは誰も思わなかったらしい。


 開会式でのドローン墜落事故、複数のハッカーによる同時攻撃、オリンピック関係者のパソコンへのハッキング、東京スタジアムでの爆発事件。これらは全て、海人と裕司が主犯となって行っていたらしい。


「で、動機は?」

「あのさ、無戸籍者って知ってる? 要は戸籍がないから働くのも苦労するし、病院に行っても高い金取られる、生きるのが大変な人のことなんだけど。ウイルスのワクチンと引き換えに、無戸籍者の待遇改善を要求するつもりだったんだよ。さすがに死人が出たら国も動くだろ?」

「それだけか? それだけで、ロシアからわざわざ兵器が運ばれるか?」

「……ロシアの某組織からの依頼。金に釣られた。金貰えるし、運がよけりゃワクチンで国と交渉出来る。そう考えたんだよ。組織名はわかんない。どうせ向こうも偽名だっただろうし、調べるだけ無駄だと思うよ」


 海人の視線が天井に向けられる。何かを思い出すかのように両目を閉じ、小さく頷いた。


「お前達の接点は?」

「……依頼受けて、裕司がオリンピック運営にいることを思い出して、話を持ちかけた。何年かぶりにコンタクト取ったよね。わざわざ待ち伏せまでしたし」

「無戸籍者について待遇改善したい理由は?」

「……幼馴染が一人、無戸籍者なんだよ。喘息持ちだけど薬代払うのが大変で、年に一度病院行くのが精一杯。アルバイトだって長く続けられないし、正社員になんてなれない。そんなあいつのことを助けたかった、それだけ」

「本当に?」

「しつこいよ。これ以上は弁護士を介してがいい。確かそういう権利、あったよね?」


 海人が目を開き、警官を睨みつける。犯行を認めた後も強気な態度は変わらないようだ。まだ取り調べを行う時間はある。もう、バイオテロの危機はない。八月十日になれば本格的な捜査も始まるはずだ。

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