今できる最善を(5/7)
ネットワーク上のシステム、ソフトウェアとして構築された起動システム。タイムリミットは八月九日の二〇時二〇分。それまでに起動システムを止められなければ、新国立競技場内に何らかのウイルスが散布されることとなる。
ウイルス噴霧装置の起動システムにログインに成功したのが十五時。現在、起動システムを構築しているプログラムの逆コンパイルとソースコード解析に重点を置いて、起動システム停止に向けた作業が進められている。
「弱ったぞ」
パソコンを睨み付けたまま、晃一が呟いた。ウインドウ上ではツールによって逆コンパイルが行われている。しかし、その作業がなかなか終わらないのだ。ツールはしっかりと動いている。問題は起動システムの方だった。
よほど複雑なプログラムらしく、数えきれないほど多くのソースコードが組み合わさって出来ている。逆コンパイルが終了するまでにかかる時間は未知数だ。
「晃一さん。起動時間は『二〇時二〇分』らしいっス」
「わかった。それにしてもこのシステム……短期間で作れるような代物じゃないぞ。優秀なプログラマーが集まっても数年はかかる。とても犯人が作ったようには思えない」
「そもそもこの起動システム、どうやって起動時間を指定するんスかね?」
なかなか作業が終わらないこと、逆コンパイルに成功したソースコードが複雑であること、などからシステム作成者は別にいると考えた晃一。そんな晃一の背後から、良亮が口を出す。
「そうか。起動日時だけはこっちから入力する必要があるもんな。良亮。東新が持ってきたパソコンから起動システムにログインしてくれ。そんで、日時を変えたり出来るか、システムの動作をよく調べてくれ」
良亮は晃一が指示を出す前からすでに、起動システムへのログインを試みていた。システムを立ち上げるとすぐさまその機能を確認すべく、液晶画面に目を走らせる。
画面一杯に広がったウインドウ上には、システム利用者が使うと思わしきグレーの背景が広がっていた。ウインドウ上部には複数のタブがあるのだが、そこには日本語でも英語でもない奇妙な文字が並んでいる。
「な、何語っスか、これ!」
「これは……ロシア語のようですね」
「ロシア語? つか、東新さん、ロシア語わかるんスか?」
「いえ、全く。ただ、特徴的な文字なので見れば何語かはわかりますよ」
見たことのない奇妙な形をした文字に声を上げずにはいられない良亮。そんな良亮の肩にポンと手を乗せながら答えを告げたのは、パソコンを運んできた東新であった。もっとも、東新も言語の種類がわかるだけで、表示された文字の意味まではわからないようだが。
良亮は少しの間唸っていたが、迷っている暇はないとスマートフォンを取り出す。そこから検索ページを開き、「ロシア語、翻訳」と入力。日本語からロシア語の変換画面を立ち上げる。
「ソフトウェアのタブなんて、書くことはどれも一緒なはず。英語のやつはそうだったし。というわけで、ひたすら日本語をロシア語に翻訳して当てはまるものを見つけるっス」
誰に聞かれるわけでもなく目的を告げると、早速翻訳機能を利用し始める。厄介な調べ物をしているはずの良亮は、何故か楽しそうな笑みを見せた。
ログインが成功してから三時間が経過した頃のこと。ロシア語で表示された起動システムをどうにか解読しようと奮闘していた良亮が、拳を頭上に勢いよく伸ばした。パソコンのすぐ横には、表示されているロシア語に対応する日本語が乱雑な字で記されている。
ようやく起動システムの使い方がわかったらしい。グレーの背景には先程まではなかったカウントダウンタイマーが現れている。残された時間は約二時間。タイマーは止まることなく時間を減らし続けている。
「晃一さん、これ、ネット上のカレンダーと連携してるっス。で、日時を決めるだけなら編集出来るんスけど、一度日時を確定して起動するとその後は時間の変更が出来ないっス。ちなみに今は当たり前ですけど、日本時間と連携してるっスよ」
嬉しそうな良亮の声に晃一が顔を上げた。その場を離れることはせず、視線だけを良亮に向ける。
「なるほどな。というかさっきロシア語がどうとか言ってなかったか?」
「ああ、それは……起動システムはロシア語で表示されてるんスよ。ロシアで作られたプログラムなんスかね」
「ロシア……確か旧ソ連はロシアの前身国家だったよな。ソ連といや、バイオテロに使えそうなウイルスをいくつか保有してた国だった気が……」
「そっちの進捗はどうっスか?」
「プログラムの解析が終わらねぇ。とりあえず戻したソースコードから順に解析を頼んでるが、噴霧装置の起動に繋がるようなプログラムは出てこないな」
一時間が経過してもまだ解析が終わらないソフトウェア。複数に組まれたプログラムはそう簡単に解読することは出来ないらしい。六人がかりで作業をしているというのに手がかり一つ掴めない。
運の悪いことに、十九時からは観客の入場が始まる。日本という国がオリンピックを無事に開催出来たと示すためにも、閉会式を行わないわけにはいかない。これは昨日の時点ですでに決められた事項だった。
いざとなれば、ミストシャワーの噴霧装置ごと人の少ない場所へと移動し、ウイルスによる影響を最小限に抑えなければならない。どう転んだとしても、起動システムそのものを止めない限りは感染者が出てくるだろう。
「……緊急チームと良亮は一旦集まってくれ。噴霧装置について話がある」
苦虫を噛み潰したような顔でしばし思案した後、晃一はサイバーテロ対策チームから限られたメンバーのみを集めた。呼ばれたのはサイバー犯罪捜査官で構成された緊急チームと、偶然にも今回の案件に関与してしまった良亮だ。
「天然痘ウイルスの話は聞いてるな? あれからもう一度動画を調べ直してもらった。天然痘にしては人が死ぬまでにかかる時間が早すぎる。最初は末期患者を集めたのかと思ったがそうではないらしくてな」
「で、結果はどうだったんスか、晃一さん?」
「……新種のウイルスじゃないか、と。天然痘ウイルスに何かを掛け合わせて作った、天然痘より致死率の高いウイルスらしい。発疹に目が行きがちだが、よくよく見ると呼吸困難や脳炎を起こしてる可能性がある、と。要は見た目だけではわかりにくい死因だな」
晃一が小さな言葉で告げると、集められた数名のエンジニア達は揃って俯いた。誰もが顔を歪め、拳を握りしめる。せめて対策チームの者達には知られるまいと顔を隠すのが精一杯だったのだ。
開場まであと一時間、起動時間まであと二時間と二〇分。彼らの思いに反し、時間は淡々と進むばかり。突きつけられた現実が関係者達の精神を深く抉る――。
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