第8話 ユウキ(4)
月明かりの中、ユウキはひび割れたアスファルトを駆け抜け続けた。
割れてめくれたアスファルトの亀裂に何度も足を取られ、転びそうになりながらも走り続けた。
心臓の鼓動がうるさい。下腹部からは鈍い痛みが波のように体に響く。しかしユウキは走り続けた。
何もなかった荒野を走り続けどれほどの時が経っただろうか。ユウキは荒野の中に打ち捨てられた廃墟を見つけた。
遠くに常夜灯をともす集落の光が見えるが、目の前の廃墟には光はない。
恐らく誰からも捨てられた廃墟なのだろう。
夜明けまであとどのくらいだろうか。
夜が明けるとドスケベアーミーにも他の村の人々にも見つかりやすくなる。それまでに少しでも横浜へ向かわなければならない。
ユウキは廃墟の陰に滑り込むように身を隠すと、カバンから簡素な水筒を引っ張り出した。
ぬるい水が走り続け火照った体に心地よい。
廃墟の隙間から月明かりで母から荷物に差し込まれてあった地図を照らし今の場所を確認する。走った距離がよくわからないけれど、集落の明かりの遠さを考えると、地図の上では恐らくここはかつて元住吉と呼ばれた地のようだった。
そう言われると、確かにかつて街だっただろうと思われる廃墟が点在しており、昔は賑わいがあったことが伺えた。
だが横浜まではまだ遠い。
ふくらはぎを軽くもみほぐし、教えられた通り生理用品を取り換えたのち、その場で屈伸する。まだだ。まだ走れる。
鈍い腹部の痛みも、流れる血も、今は気にしている場合ではなかった。
ユウキが家を出るのを見届け、ユウキの母親はそっと窓の近くに寄って口笛を吹いた。
1分ほど経っただろうか。1羽の白いハトが窓辺に現れた。母親が手を伸ばすとよく慣れたハトは小さく鳴き声を上げて身を任せる。
「お願いね」
母親はハトの足に自分の服を切って作ったメモを括り付け、そうつぶやいてハトを窓から外へ出すと、心得たようにハトは飛び去った。
さああとは時間稼ぎだけだ。
少しでも彼女が生きて、願わくば幸せになってくれたら。そう祈りながらユウキの母は振り返った。
代り映えのない朝がやってきた。
いつものように粗末な朝食を取った村人たちは、いつもと違い少しおびえたように自分たちの住まいである小屋の前に立った。
今日は10日に一度のドスケベアーミーの巡回日なのだ。
ドスケベアーミーたちは定期的に村を回り、収穫した作物を徴収し、また農奴たちから脱走者がいないかを確認していた。
遠くから地響きにも似たエンジン音が聞こえる。ドスケベアーミーたちだ。
ユウキの母はその車に見えた影を見て体を強張らせた。
遠くからでもはっきりとわかるその巨躯。それは。
「あ、アーマード倫理観様…」
おびえた声で村長が頭を下げ身をひれ伏す。
普段アーマード倫理観自らこんな辺境の村にやってくることは少ない。
一体何があったのか、村長はおびえた目でその巨体を見上げる。
「最近、ドスケベマンという我らにたてつくテロリストがいてな」
ふん、と鼻で笑いアーマード倫理観は村人たちを一瞥する。
その言葉を傍にいたドスケベアーミーが続けた。
「ドスケベマンなるドスケベを振りまく害悪が表れている。隠し立てしたものは死刑となる。見かけた者は速やかにドスケベアーミーに報告するように」
ドスケベマン。ユウキの母も名前だけは聞いたことがあった。
ドスケベを守るためにドスケベアーミーに叛逆する一人の男。超人的な身体能力を持ち、様々な場所へ現われドスケベアーミーを殲滅したという。
それを聞いたときはただの作り話だろうと思った。ドスケベを渇望する人々が心を慰めるために作った、おとぎ話ではないかと。
しかし、アーマード倫理観のその威圧感はそれが確かに実在するのだと物語っていた。
ドスケベアーミーたちは粛々と作物を徴収していく。
最後の麦の入った麻袋を受け取ると、ドスケベアーミーたちは撤収作業へと移った。
「おい、貴様」
ドスケベアーミーの一人がユウキの母に目を向ける。
「貴様、子供が一人いなかったか?今日はどこにいる」
ドスケベアーミーがぎらつく眼光でユウキの母を見る。
「昨日の夜から熱を出していまして、こちらで寝ています。ほら」
事もなげに、平静な様子でユウキの母は小屋へとドスケベアーミーを案内する。
小屋のドアを開けると、確かに寝台には頭まで毛布にくるまり震えている子供がいた。茶色い細い髪の毛が毛布からはみ出し、小さく震えている。
「ふむ、流行病だと面倒だ。治るまで小屋から出さぬように」
ドスケベアーミーはそう告げ、ユウキの母は少しおびえたふりをしながら少し頭を下げて小屋のドアを閉めようとする。
大丈夫、大丈夫だ。今まで何もしくじっていない。
「待て」
アーマード倫理観がそれを制し、びくりとユウキの母の心臓が跳ねた。
「その毛布を剥いでみろ」
「……はあ。」
アーマード倫理観の指示に不思議そうな顔をしながら、ドスケベアーミーは小屋に入る。
近くで見てもさむがっている子供が頭まで毛布にくるまっているようにしか見えなかったが、ドスケベアーミーは毛布をめくった瞬間声を上げた。
「こ、これは!」
毛布の下にあったのは、麻袋であった。
麻袋に空いた穴から兎の耳が見える。兎を綿と一緒に麻袋に詰めて人が横になって震えているように見せたのだった。
髪の毛だと思ったのは、トウモロコシの毛をほぐして乾かしたものであった。
「さて、話を聞かせてもらおうか」
ニヤリと嗤うアーマード倫理観の顔を見て、ユウキの母の背中に冷たい汗が流れ落ちた。
地平の彼方が白く染まり、夜明けが来た。
あれからユウキはどれくらい走っただろうか。息はうまく吸えない。足は棒のようで、もはや感覚はなかった。
少しだけ、少しだけ休もう。
そう思って岩陰に転がり込み膝をつくと全身がまるで鉛のように重く感じた。
水筒の水の最後の一口を飲む。
もうそろそろドスケベアーミーたちは村に着くころだろうか。
母は無事だろうか。追手は来ているのだろうか。押し寄せる不安が鉛のような体をさらに重くする。
自分がドスケベアーミーに連れていかれてしまえば、村の他の人々はいつも通りの生活を送れた。自分が男ならこんな思いをしなかった。自分が生まれなければ。
それは恐怖か、それとも後悔か。ユウキの目の前がにじむ。
「行かなきゃ」
声に出して自らを叱咤する。つま先は擦り切れ血がにじみ、膝が笑い、体を支えきれずにユウキは大きく転んだ。
「行かなきゃ…」
這うように起き上がろうともがいたその瞬間。
「おい、お前がユウキか」
背後から男の声がして、ユウキは体を強張らせた。
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