意外と簡単に陥る記憶喪失のススメ
「起きたみたいだね。自分の名前は分かるかい?」
「ここは何処? 私は……」
その後の言葉が続かない。
予想通り、記憶データ圧縮によるデータの欠損が起きている。
「私は玖島聖彦。探偵だ」
少女はベッドから体を起こそうとして、しかし自分の左腕が無い事に気付いた。
「あっ」
ショックを受けた、というより何が起こっているのか分からないという表情。
当然だ。自分が何者なのかも曖昧になっているのだから。その弱々しい背中を支えて起き上がらせる。
「落ち着いて。これは一時的な現象だ。上層に上がるに連れて元に戻る。君の記憶もね」
「私の、記憶。ねぇ、ここは何処?」
「第2層にある宿屋だよ。君が住んでいた6階層のずっと下だ」
「6、かいそう?」
「参ったな。階層のことまで分からないって事は、この場所の名前も?」
少女が首を振る。それすら思い出せないのは重傷だ。
短時間で堕ちた故に、記憶に相当無理な圧縮が掛かったに違いない。
「ここは永劫都市。宇宙移民船『こばると』の見せる仮想現実の世界だよ」
私が移民船について語るのがこのタイミングでいいのかは分からない。
皆、その事を考えないようにして生きているし、少なくともあと17年はこちら側が私達にとっての現実だ。
しかし、物事には必ず終わりがあり、その準備をしなければならない。
不出来な私の助手ならば「備えあればうれしいな」と間違った
移民船内部には現在、義体が700体ばかり保管されている。
対して、この永劫都市で暮らす人口はおよそ19万。新天地到着時間に必要な義体の量は圧倒的に足りない。
では、その限られた義体に入るのは誰になるのか。
1番上の階層が優先で受肉の権利を得られる――訳ではない。その逆、初期のテラフォーミングに必要な労働力が下層から選ばれる。
そして人に適した環境と食料の生産体制が整うに従って現地で義体を生成し、順々に受肉化されていく仕組みだ。
「1度堕ちると、1階層上がるのに3日かかる。
「そうなんですか」
「ただ、ストレートで戻るなら両親を早く突き止めないと不味い。何か覚えてないかな」
少女は首を横に振る。
「そうか。これはちょっと手間かもしれないな。……君の両親に貯蓄が沢山あれば良いんだけど」
階層復帰で問題になるのは流通する金の動きだ。この世界のあらゆる全てのモノは情報量に比例した金額が設定されている。
階層が上がれば扱われる情報量が増えるので下階より物価が高くなる。
人は誰もが存在するだけでリソースを食い、行動すれば更にリソースを使う。当然、その行動に見合った金が請求される。存在税とでも言えば良いだろうか。
無理に昔の制度に言い換えるなら、市民税、住民税がそれに近い。
上層階の高額な税金を日々納める為には、その階の物価に応じた仕事で金を稼ぐ他ないのだが、ここでも各層の物価格差の幅が最大の問題となる。
2階層と3階層で金銭格差はおよそ4倍。そこから上は雪だるま式だ。
上の層で迷夢が看護している救助者も同様。
彼等も一週間以上を下層で過ごさなければならない。
仮に臨時で同じような内容の仕事をしたとしても、支払われるのは現在の階層における単価、つまり4分の1以下となる。
備蓄に
この場合の階層落ちはバグ被害などの一時的なものではなく半永久的なものだ。
強制的に堕とされる際は有り金の殆どを毟られる場合が殆どで、下の階層では所持金がほぼゼロからのスタートとなる。
幸いと言うべきか、現実と異なり所持していた家や衣類等も全て下層に堕ちるので、ホームレスになることだけは無いが、上層に戻れないショックは相当なもので立ち直るのは難しい。
先を見越して余力がある内に自ら下層に住居等のデータを堕とす事も可能だが、そこまで思い切った決断が出来る者は少ない。
たった1階層、されど1階層。
昨日出来た事が突然出来なくなる、見えなくなる、聞こえなくなる、感じなくなる、という恐怖は常に付きまとう。
さて、この少女の場合は両親が居るならば不安は随分と軽減される。その階層で稼ぎ、生活を安定させている者がいるならば下層へ堕ちる心配はまず無い。
私が要求する金銭も、6階層の人々にとっては1日の稼ぎにも満たない端金だろう。
「きっとすぐに戻れるさ。この2階層と3階層での君の安全は私が保証する」
「その先は?」
「信頼できる同業者に引き継ぐよ。早めに君の両親が見つかれば、私も4層までは付き合えるけどね」
少女が頷いた後、瞳の戸惑いの色が少し和らいだのを感じた。
「すまない。伝えるのが後回しになってしまった。君の名前は
「調べたんですか?」
「この階層に堕ちてくる前に。情報を集めるのは得意でね。と言っても、今分かるのは名前くらいだ」
バグ等不測の事態に巻き込まれた人間について開示されるデータは多くない。
精々、
「3階層には私の事務所がある。この3日で有益な情報が得られなければ、君のアクセス鍵を借りて詳しく調べよう。いいかな?」
「それまで、私は何をすれば?」
「何もしなくていい。その姿だと動くに動けないだろうし。この部屋に中にいる限り、君自身に階層の滞在料は発生しない」
宿泊協定を逸脱する大きなデータ使用が起こらない限りは、ホテル側が宿泊費から客の各徴収項目を支払うシステムだ。
「動かない方が良いんですね?」
「そうしてくれると私は助かる」
少し残念そうな表情だが、我慢してもらう他ない。
「2階層の外なんて、そう楽しいものじゃ無いよ。6階層に比べれば殺風景で物も少ない」
使えるリソースが決まっているので、娯楽も極端に少ない。
激しく動いたり、
「……つまらない」
「え?」
「ううん、分かった。大人しくしてる」
見かけに寄らず活発な性格なのかもしれない。
足のない今は兎も角、恐らく四肢が戻る3層では注意しなければ。
いや、この好奇心は逆に使えるかもしれない。
「外に出られない代わりに、上の階層だとまず出来ない仕事を紹介できる。しかも、ここに居ながらにしてだ。やってみるかい?」
「本当? でも、こんな体だよ?」
「大丈夫。その仕事はこっち側じゃないから」
端末に現在地情報を設定し、
目的の作業はすぐに見つかった。まだ4人分の空きがある。
「それじゃ、端末に手を置いて承認を」
「どんなお仕事なの?」
「始まってからのお楽しみだね」
二人で端末に手をかざして承認を行ってからきっかり5秒後、景色が暗転した。
「凄い……」
「下層限定の雑務だけど、逆にこの光景は特権だ」
二人は今、宇宙船の外部に展開された
否、立つという表現は正しくない。何しろ、二人には足もなければ胴体もない。
四角い
そんな細かい事はどうでもよくなるほど、見渡す限り広がる宇宙は絶景だった。
「綺麗……。吸い込まれそう」
「もう少し惑星の近くを航行していれば、色のある景色も見えるんだけど」
深く冷たい黒の中に点在する、無数の星々のきらめきが大パノラマで果てしなく続いている。
ずっと見ていても飽きない景色だが、残念な事にそれでは仕事にならない。
「操作には気を付けて。自分の命綱に絡まらないように。仕事は、このソーラーパネルの掃除と破損のチェックだ」
「私達がしなくても、宇宙船に清掃機能とか修復機能はないの?」
「あるよ。だけど自動化されたプログラムのチェックには限界がある。機械では判別できない部分や巡回範囲から漏れた部分が絶対にある。そういった見落としを拾うのが私達の役目だ」
「ふぅん……」
それすらも必要か、と思うことはある。
船は人工知能によって完璧に管理されているからだ。
己で考え、学習し、成長する。人の数倍のスピードで。
そして、宇宙船の旅を最適化し続けている。
「こんなに静かなら、ずっと眠ったままでも良いんじゃないのかなぁ」
「……どういう意味だい?」
「目が覚めたら、はい新しい星、みたいな」
誰もが一度は思う事だ。
新天地までの航海に永劫都市の様な電脳世界は必要ないと。
宇宙移民船『こばると』の限られたリソースを無意味に圧迫するだけだと。
「確かにその方が楽だね。だけど、新しい土地は誰かが開発しないと。いきなり何も無いジャングルに放り出されたら途方に暮れてしまうだろう?」
「そうだね。それも機械がやってくれたらいいのに」
「残念ながら無理みたいだ。だから階層都市の中で、新しい環境に順応出来るように訓練してるのさ。1層なんて露骨だよ。新天地開拓の為だけに用意された奴隷製作工場。朝から晩まで炭鉱掘りや木の伐採、土嚢運び、あらゆる作業を体験させられる」
「たいへんそうだね」
「何の生産性も利益も達成感もない。毎日それを繰り返す。地獄みたいだよ」
それでも必要なのだ。いずれ来る生身の未来の為に。
分かってはいるが、割り切れるかどうかは別の話。
「この後、3日ごとに階層を上がっていくから見られると思うけど、各層で文明の年代も微妙に違うんだ。自分達が覚醒する時の環境に近い状況が作られてる」
今の文明レベルと技術が100としても、ゼロからいきなり100の文明は構築できない。資源も物資も労働力も足りない。
だから慣らされているのだ。構築の途中で放り出されても順応出来るように。
「探偵さんはそれが嫌なの?」
「昔はそう思ってた時期もあったよ。だけど今は納得してるし、慣れれば意外と居心地が良い。上層には上がりたいけどね」
「上に居る、ってそんなに凄いの?」
「どうかな。それも人それぞれだと思う。一つだけ言えるのは、今上層にいる人は生前に莫大な金を払って住む権利を買った。凄いお金持ちの人達が揃ってるんじゃないかな。そして君もその1人だ。両親に感謝しないとね」
「……うん」
音声しか伝わらないので、彼女がどんな表情を浮かべたかは分からない。
しかし、その声は心なしか沈んでいるように思えた。
無理もない。その大切な家族のことも今は思い出せないのだ。
「上の階層にあがるにつれて、いろいろ思い出すよ。焦らなくて良い。さっ、話しすぎた。稼ぐとしよう」
ドローンを操作し、パネルにこびりついたダストを取り除いていく。
「今は周りが穏やかだけど、念のために飛んでくるデブリには気を付けて。接近するとアラームが鳴る」
「当たるとどうなるの?」
「ドローンが宇宙の彼方に吹き飛ばされる。私達には影響が無いけれど、罰金は相当高い。もし、船体やパネルにに異常があれば端末で報告。君の見ている映像データを元にして、船が修理を手配する」
「それも人が直すの?」
「状況と程度によってかな。大規模な部品の交換とかは、労働力で人海戦術。船も修理に割けるリソースが決まっているから」
アームの先端からブラシ型の繊維を露出させ、パネルの表面をさっと撫でる。
「擦らないように注意して。科学繊維が勝手に吸い寄せるから、さっと滑らせるイメージ。強く当てると逆に傷になる。それで落ちない所は吸着アームで」
とはいえ、ある程度以上の力が加わると自動誘導が働くので、船体を傷つけるのは逆に難しい。
これらのドローンを利用して船を破壊するのは無理だ。
試した輩がいるかどうかは分からないが。
「こう、かな?」
「そうそう。上手いな」
お世辞ではなく、心から感心する程の腕前。
かなり飲み込みが早い。
もしかすると、上の階ではそれなりの仕事を持っていたのかもしれない。
ここで彼女とのパイプを作っておけば、将来上の階層に上がる際、有利に働く可能性も出て来た。
「案外、無理をして堕ちたのも悪くなかったか」
一心不乱に掃除を続ける紬のドローンを見ながら、私はそう独りごちた。
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