第15話 ゑびす


 時は遡り、それはナギの助太刀によって死地を脱したリンとランが、ナギの住むツリーハウスに辿り着いた時の事である。



 森の中に充満した暗闇を掻き分けるように走るリンとランは、やがてその暗闇のにわかに薄まった場所に行き当たった。


 そこは木々の生えぬ円形の空き地が広がっており、そしてその中央には天空を支えるように枝を伸ばした大樹が堂々と聳えている。


 大樹と一体となるように設けられたツリーハウスの、小さい窓からはほんのりと灯りが漏れ出していて、暗闇にすっかり慣れていた姉妹の目には眩しいくらいに思えた。


 姉妹は、そこを熟知している様子でハウスの入り口である木の根元の洞へと向かい、巨大な洞の中に螺旋状に設けられた階段を登っていく。


 そこへ至って集中力が途切れた為か、必死に森の中を駆けている時には感じられなかった疲労が、どっと押し寄せて来て姉妹の階段を登る脚を鈍らせた。


 階段を登り切ると、彼女らの目前に木製の扉が現れる。


 年季が入って擦れたりくすんだりしたその重い扉を押すと、木と木が擦れ合うギイギイという音を伴って扉が開き、明るい部屋内が目に飛び込んできた。


 姉妹は、疲労にぐったりとした体を心持ち引きずるようにして部屋内に歩み入った。


 木製の床板は当然堅かったが、自分達が駆けて来た森の地面の冷たさと無骨さに比べれば、はるかに温柔なものであって、姉妹らは母の胸に抱かれるような優しさに似た甘美な感傷を足元から与えられ、思わず虚脱しかかっていた。



 そんな折、彼女らの背後の扉がバタリと閉まる音が鳴り響き、脱力しかかっていた姉妹は不意を突かれたように跳び上がって背後を顧みた。


 そしてそこに見た何者かの姿に再び絶望を覚えた。


 まるで姉妹の退路を断つかのように、彼女らがくぐってきた扉へもたれ掛かってうっそりと立つ、半裸の若い男の姿がそこにあった。


 若い男は、どこか心ここにあらぬ様子で、手にしたパンをむしゃむしゃと頬張っている。



 「……‼ どうして、人間が」



 肺腑から絞り出すような叫び声が、思わずリンの口から漏れていた。


 姉妹は警戒心を再び呼び戻したものの、もはや心身への度重なる疲労から、異様な相手の出方をうかがうだけの、極めて受け身的な警戒姿勢しか取れなかった。


 「人間? ……如何にも、俺は人間だが。……いや正確には違うんだが――」


 男は姉妹には無関心な様子で、独り言のような物言いをした。


 そして、残った一切れのパンを口に放り込み、あっという間に咀嚼して呑み込むと、フッと息を吐き出してから、重い腰をあげるような蹌踉そうろうとしたようすで、その目をギロリと姉妹へと向けた。


 「……それで? かく言うお前らは何者だ? 人語を解すようだが、その額のモノと言い、地獄の極卒か何かか?」


 男は先程までのぼうっとした様子とは一転して、鋭い視線で姉妹の体を遍く観察した。


 姉妹は、男の鋭い視線が向けられる度、刺さるような緊張感をその体中に感じた。


 「……ふむ。それにしては、いささか華奢に過ぎるな。……となると、これは話に聞く衆合地獄しゅうごうじごくとかいうやつか? 邪淫を犯した記憶はないんだがなぁ……。それに俺の好みとも違うし――」


 男は訝し気に自らの顎をさすりながらムニャムニャと独り言つ。


「……まあ、この身の上だ。どんな所に堕とされようが、不思議はないがな」


 自分達を埒外に、自嘲気味に独り事を呟く男に向かって、リンは勇気を振り絞って口を開いた。


 「お、お前は誰だ! 何でここにいる!」


 リンの精一杯の叫びに対して、男は再び猛禽のような鋭い視線を彼女に浴びせる。


 その視線に、リンは息が詰まり、その身を強張らせた。


 「どうしてここにいるか? ふん、それはこちらが聞きたい。目が覚めたらここにいた。それだけさ」


 男は詰まらなさそうに吐き捨てると、眉を寄せながら喉を鳴らし、暫し考えに浸るような様子を見せた。


 「……その物言いだと、この傷を治したのはお前達ではなさそうだな」


 男はそう言って、何もまとっていない上半身の所々に残る、傷跡のような凹凸を指でなぞった。


 「推し量るに、俺をここに運んで治療したのはこの家の主で、お前たちはその知り合いか何かだな?」


 男はそう言うと、姉妹に向けた視線に含んだ敵愾心てきがいしんのような物を鎮めた。


 しかし、それでもその目は鋭く、姉妹はにわかに緊張感から解放されるも、男に対しての警戒心は依然解かなかった。


 すると男は、扉から離れてずかずかと姉妹の方に近づくと、思わず後退りする姉妹には目もくれず、部屋の中央に置かれた机の前の椅子へどっかりと腰を下した。


 そして男は、無警戒にも姉妹に背を向けたまま、机の上に散らかされたままであった干し肉や果実、パンを一心に頬張り始めた。


 姉妹は、男の死角に置かれたものの、その無警戒な背には近寄りがたい雰囲気が漂っており、男の背後を襲うどころか、部屋の隅に縮こまって男の行動を見つめるのが関の山であった。


 それでもリンは、震える妹を庇いながら、なんとか己を鼓舞して言葉を発した。


 「お、お前は、帝国兵じゃないのか?」


 震えの隠しきれていない声で彼女は問うた。


 「テイコクヘイ? 何の事だが良く分からんが、多分違うと思うぜ」


 男は馬のような勢いで机上のものを頬張りながら、なげやりな様子で返答した。


 「じ、じゃあ。ウェスターの人間?」


 リンの次の質問に、今まで少しもスピードを緩めずに働いていた男の腕がにわかに失速した。


 「うぇすたー……」


 男は、口の中の物をモシャモシャと咀嚼しながら、物思いにふけったように宙を仰いだ。


 そして、はたと気が付いたように声を漏らすと、机上に散らばった食べ物の下から、一枚の大きな羊皮紙を引っ張り出した。

 見れば机上にはそれ以外にも、読みかけの暑い本や羊皮紙が食べ物と混在して散らかっていた。


 「そのウェスターってのは、もしかしてここに記されている地名の事か?」


 男はリンを顧みると、手にした羊皮紙の一点を指さして問うた。


 男の手にした羊皮紙は、あらゆる領土の地形と共に何やら文字が記されている地図であった。


 リンは男の指さした部分を見ると、恐る恐る首を縦に振った。


 男は感嘆したような声を上げるとその地図を見つめて言った。


 「なるほど、いささか不恰好だが、やはりこれは日本の文字で間違いなかったか。……すると、今俺がいるのは、この『セイレイノモリ』とやらか? ……おいおい、これがこの世界の地図だというのならば、俺の知っている地獄とは全く様子が違うじゃないか」


 男の漏らした言葉の中に有った『日本』という単語に、姉妹はことさら驚きの表情を浮かべて顔を見合わせた。


 その反応に、男は訝し気な表情を彼女らに向けた。


 「……何だ? どうかしたか?」


 リンがおずおずと口を開いた。


 「お前……、天界から来たのか?」


 男はリンの口にした言葉に眉を寄せる。


 「天界? 一体何のことだ?」


 「……『ニホン』から来たのか?」


 「日本? ……確かに、俺が居たのはその日本で間違いないが、ここが地獄とはいえ、あちらさんが『天界』なんぞ呼ばれるとは聞いた事が無いぜ?」


 終始男の視線に怯え震えていたランが、リンの陰から顔をのぞかせて、男の機嫌をうかがう様なおずおずとした口調で問うた。


 「あ、あなたはイビス様なんですか?」


 男は難しい顔をしたまま頭を掻く。


 「『いびす』? ……『朱鷺』の事か? それとも、もしかして『異邦人ゑびす』という意味か? ……まあ、どちらにせよ、確かに来訪者という意味合では間違いではないとも思うが……」


 男の言葉に、ランは姉の裾をギュッと握った。


 姉妹は目を丸くして再三視線を交わし、そして言葉を介さずも図り合ったように頷いて、そして二人して男を見た。



 「「 お願いします。私達を助けて下さい 」」


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