第13話 狗賓


 男達は望外の獲物を前にその処置に困っていた。


 「まさか、こんな所でエルフにお目見えできるとはなあ……」


 色黒の男の声は興奮に上擦っていた。


 「こ、こいつ、どうすんだよ」


 痩せ男は、ナギの美しい肌をジッと見つめながら、喜びというよりも戸惑いの表情を色濃く浮かべていた。


 「亜人の中で、エルフほど重宝されるものはねえ。一度、市場にでまわりゃあ、物好きな王族や貴族どもが、国一つ買えるような大金を出すだろうなあ」


 その言葉に、痩せ男と大男は生唾を飲み込んだ。


 「じ、じゃあ……。そいつを連れ帰ってモグリの奴隷商人に売りつけりゃあ……」


 大男が低くたどたどしい口ぶりで言う。


 「いや、そりゃ無理だろうな」


 色黒の男は間髪入れずにそう返した。


 「こんなもんを本隊に連れ帰ったら、上の連中に取り上げられるにきまってやがる」


 「なら、どうすんだよ」


 焦った様子で痩せ男が詰め寄る。


 「落ち着け。何も、このまんまで連れ帰る必要はねえ」


 色黒の男の言葉に、痩せ男と大男は、訳が分からぬと言った様子で眉を寄せた。


 「エルフに金を出すのはそこいらの変態どもだけじゃねえ。エルフってのは生まれつき魔力適性がとてつもなく高く、その上精霊にも好かれる。だから、その体は魔術師や魔法使いどもの垂涎の的なのさ。例えそれが死体であっても、目玉一つから髪の毛一本まで値段の付かねえものはねえって話さ」


 色黒の男の口から出た言葉に、流石の男達であっても、思わず顔を引き攣らせた。


 「……なら、ここで殺して、バラして持って帰るってわけか?」


 「ああ、そうだ……」


 痩せ男はそう聞くと頷いて、おもむろに腰の短剣を引き抜いた。


 それを色黒の男は慌てて止めて言う。


 「まてまて、何もすぐに殺すこたあねえだろう?」


 そう言ってニヤリと、意味ありげな笑いを浮かべる。




 「なあお前ら。話に聞くエルフを試してみたくねえか?」




 色黒の男の言葉に、痩せ男は短剣を手にしたままポカンとして大男と顔を見合わせたが、直後に判然とすると、彼等もまた下卑た笑みを返した。


 「ひ。ヒヒ! そうだな」


 痩せ男は興奮を隠せないような上擦った声でそう言うと、ナギの整った美しい顔と、汗ばんだ肌に密着して体のラインをかたどったローブの薄布を俯瞰視して、思わず生唾を飲み込んだ。


 「こんな機会、たぶん一生に一度しかねえよなあ」


 「ああ、そうさ。それに、俺としちゃあ、こいつが物言わなくなる前に、さっきのお返しをしてやらねえと気が済まねえしな」


 色黒の男は、乾いた血が張り付いてパリパリとしたままの口端を吊り上げる。


 「おい、そいつを貸せ。お前らはこいつを押さえてな」


 色黒の男は痩せ男に短剣を催促して受け取ると、他の男達がナギの手足を抑えつけるのを確認してから、ローブの胸元を手繰り寄せて短剣の刃を近づけた。



 ……その時、気を失ったままであったナギが呻いた。



 ゆっくりと瞼を開いたナギが目にしたのは、自らを抑え込むようにして覆い被さる男達の尾籠びろうな笑い顔であった。


 当初キョトンとしていたものの、すぐさま事態を理解したナギは、彼等の拘束から逃れるようにジタバタと暴れた。


 しかし、そもそも華奢な上、先程の体当たりによって負傷していたナギの体では全く歯が立たず、美しい金髪が煽情的に波打つのみであった。


 「目を覚ましやがったか。……まあ、ちょうどいいぜ」


 色黒の男はナギの抵抗など意にも介さない様子で、ニタニタと笑う。


 「へへっ。大人しくしてな」


 そう言うと色黒の男は、叫び声を上げようとするナギの口元を、その節くれ立って薄汚れた掌で塞いだ。


 嫌悪感を催すえた匂いがナギの鼻を突き、彼女は思わずその手の指に歯を突き立てた。


 色黒の男は、ギャッと叫んで腕を引っ込めると、赤い筋の刻まれた自身の親指を見つめた後、怒りに染まった顔でナギを睨んだ。


 「このクソガキッ‼」


 そう言って男が手を振るった直後、ナギの視界に火花が飛んで、正面に捉えていた筈の男の姿が、グンと視界の左側へぶれた。


 彼女はその左頬の焼けつくような痛みと、熱いものが口内をドロリと流れるのを感じて、自分が男に殴られたのだと悟った。


 ナギは唇の隙間から血を漏らしながら、痛みと恐怖に呻いた。


 「亜人のクセに、人間に逆らいやがって……。テメエの立場をわからせてやる‼」


 男はナギに覆い被さるようにして、怒れる顔をナギに近づけ、唾を飛ばしながら叫んだ。


 そして、ナギを脅すように首元へ短剣をグイと寄せ、顔を背けて涙を浮かべた彼女の様子を楽しむようにしながら、ローブに短剣を当てて、ピリピリと布を裂き始めた。


 ナギの両手を押さえつけた痩せ男と大男が、嬉々としてその光景を眺めた。




 その直後であった。




 ナギに気を取られ、注意が疎かになった色黒の男の正面の藪の中から、突風が吹き抜けるかのように一陣の巨大な影が飛び出した。


 男と藪とを隔てた間合いを一瞬で詰めたそれは、男が気付いた時には既に寸前に迫っており、くわっと開いた顎へ整然と並んだ鋭利な牙を、ギロチンの刃のように鈍く光らせていた。



 男が驚きに声を上げる間も与えず、影は男の背後へ跳び抜けた。



 ナギを押さえつけていた痩せ男と大男は、目前を跳び向けた影を視線で追って色黒の男の方に目を向けたが、その視線の先の光景に彼等は揃って目を見開いた。



 色黒の男はナギにまたがるようにして膝立ちしていたが、その首の上に有るはずのモノが虚空にすげ替わっており、自身の身に起きた事態を未だ理解できない様子で、体が左右にふらふらと揺れていた。



 頭部の消えた男の体は、ハタと自身の死に気付いたかの如く、糸の切れるように背後へばたりと倒れた。


 まるで蓋の失われた水筒を転がしたかのように、その首からは男の内容物が音を立てて溢れ出した。


 痩せ男と大男は事態に理解が追い付かないまま、男の体から漏れ出した血液が流れる先へ視線を向けた。



 暗闇を背に、四肢を地面に突っ張って君臨していたのは、巨大な銀毛の狼であった。


 狼はそのたくましい顎で何かを咥えていた。


 その口元からはみ出していたのは、脂ぎったボサボサの黒髪。

 色黒の男の頭部に生え揃うそれであった。


 狼の顎を伝って、赤い雫がひたひたと垂れて地面を流れ、また、男の胴体の方から流れる赤い川と交わって、赤い湖を形成していた。


 「な、なんだよこれ……」


 痩せ男が、震える声で漏らした。



 狼が僅かに顎へ力を込める。


 すると、咥えられていた男の頭部が僅かにミシと音を立て、その直後、頭蓋が粉砕するグシャッという水っぽい音が鳴り響いた。


 男の頭は、あたかも赤い果実を噛み潰すかのように、たやすく狼の顎に噛み砕かれ、赤い飛沫しぶきと脳髄がビシャビシャと音を立てて狼の口から零れだした。



 「ヒッ、ヒィイイイイ‼」


 痩せ男は、目の前の光景に戦慄し、ナギから手を離してがむしゃらに逃げ出した。


 大男も、狼には到底かなわないと悟ったらしく、痩せ男の背を追ってドタドタと駆けだした。



 『 下 衆 ど も が 』


 狼が顎の隙間から、唸るような声を漏らす。



 途端、狼の口から滴っていた血からフワッと白い蒸気が立ち昇って宙に棚引いた。


 すると、森の暗闇の中にパッと閃光が瞬いて、狼の口内から赤々とした炎が迸った。


 炎は狼の口内を洗う様に、その口の中で音を立てながら激しく流動した。


 狼は息を吸いこむ様にわずかにスッと顎を引くと、直後、咆哮するように前方に身を乗り出してクワと大口を開いた。



 その口内から、内圧に耐えかねたように、煌々こうこうと輝く炎がドッと噴き出し、さらに大気を呑みこんで更に膨張しながら森の暗闇の中を爆発的に拡散した。



 炎は一瞬でナギの周囲を包みこむと、さらに扇状に広がって木々の幹や藪も全て呑みこみ、その先を駆けていた男達の背中にも迫った。


 男達は目を丸くしたまま赤い光に飲み込まれ、水分が蒸発するようなジュッという音を立てて一瞬で赤い光に塗りつぶされた。




 炎の光に眩んだ視界が徐々に戻って来て、ナギは痛む体を地面に這わせて辺りを見回した。


 森の中を照らしているのは、男達が落とした松明の灯りと、何かが燃える光のみであった。



 ナギはその体を灼熱の炎に包まれた確かな実感があったのだが、先刻よりの痛みはあるものの、例によって火傷などは無いようであった。



 少女の目が、未だぼうっとしたままの視界の中に、巨大な狼のシルエットを見た。


 狼は少女の近くへゆっくりと歩み寄ってくると、フンと鼻を鳴らしながら、少女の目前にあった何かをバリっと踏みつぶした。


 狼の吐いた炎に焼かれたそれは完全に炭化しており、踏みつけられて脆く崩れ、火花と煤をパッと舞い上げて、その際、瞬間的に明るんだ炎が、狼の威厳ある姿を下から照らしだした。


 『チッ……。食えたもんじゃねえぜ』


 狼は不機嫌そうに漏らすと、俯せたまま自身を見上げるナギと視線を交えた。


 「ミアカシ……。来てくれたのね」


 『……勘違いするな。俺様の所有物にキズが付くのを嫌っただけさ』


 ミアカシの吐き捨てるような言葉を聞いて、ナギは微笑んだ。



 身を起こそうとして体に力を込めたナギであったが、途端、体の至る所に痛みが走って崩れ落ちた。


 大男に突き飛ばされた際に、脇腹や手足の骨が折れたらしく、立ち上がるのもままならない状態であった。



 地面の上で痛みに喘ぎながら、尚も地面を這いずる様に手足に力を込めるナギの様子を、詰まらなそうに睨みつけていたミアカシは、やれやれと言った様子で彼女の傍らに進み出ると、口の端で器用に咥えていた硝子瓶を彼女の眼前に落とした。



 『……お前の部屋にあったものだ。最後のひとつだがな』


 ナギは目前の治癒ポーションを見、そして不思議そうな表情でミアカシを見上げた。


 『なんだ……』


 ミアカシは面倒くさそうに目元に皺を寄せると、プイと顔を背ける。


 ナギは痛む腕を伸ばして治癒ポーションを手繰り寄せると、それを大事そうに両手で握って胸元に寄せた。


 「ありがとう……」


 消え入りそうな震える声でナギは呟いた。その瞼に輝く雫が溢れていた。


 『…………。黙って早く飲め!』


 ミアカシはつっけんどんにそう叫ぶと、そっぽを向いたまま地面に伏せて狸寝入りをした。



 ナギは何とか上体を起こし、ガラス瓶の中でキラキラと輝くそれを喉に流し込んだ。


 熱いような冷たいような特有の刺激のある苦い液体。それが喉を伝っていく感触がハッキリと分かる。


 そのジワリとした感覚は食道から浸みこむように体中に広がっていき、やがて痛みのあった箇所が熱を持ちはじめる。


 熱さとも痛みともつかぬジンジンとした感覚が体の至る所で感じられ、それまで刺すような苛烈な痛みだったものが、徐々に、鈍く小さいものになっていくのを感じた。




 数分かけて体の火照りが収まってくると、ナギは体の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がってみる。


 未だ、あばらや手足に鈍い痛みは残るものの、立ち上がって歩ける程度まで痛みが収まっていた。


 反面、体が熱っぽく倦怠感に苛まれるようであったが、それは治癒ポーションによる副作用であるとナギは経験から理解していた。



 「とりあえず……。歩けるわね……」


 ぼうっとする思考のまま呟くと、ナギは未だ鈍痛の残る脇腹に手を当てながら歩き、暗闇の中に放り出されていた杖を拾い上げた。


 ナギはそして、暗い森の中をぐるっと見回した。


 森の中で光を放つのは、地面に転げた今や燃え尽きそうな松明二本と、そして藪の向こうで煌々と燃え立つ、人間の形をした黒い二つの物体である。


 「……どうして、私は燃えなかったの?」


 ミアカシは片目のみ開いてナギに向けると、すっくと立ちあがり、ググッと体を伸ばして欠伸をしてみせた。


 『今の炎は地獄のそれと同じ。燃やすのは『業』だけだ。自然物や、お前のような無辜むこの存在には火傷すら負わせられないのさ』


 「地獄? あなたたちはやはり冥界から来たの?」


 『冥界だ? 訳の分からんことを……』


 ミアカシはナギの問いを適当にあしらった。


 ナギはハタと思い出したようにミアカシを見た。


 「ねえ、ミアカシ。ここに来る途中、亜人の姉妹を見なかった?」


 ミアカシは訝し気にナギを見た。


 『あじん? 姉妹? ……ああ、あの旨そうな小娘二人か……』


 ミアカシは興味無さそうに言う。


 『食ってやろうかとも思ったが、お前の匂いが付いていたからやめておいたさ』


 「……そう」


 ミアカシの言葉に、ナギはホッとしたように胸を撫で下ろした。



 ナギはそして、杖を握り締めると口元で何かを呟く。杖の先に光が灯った。


 その光で森の中の闇を照らすが、先刻森の中を駆けていた時と比べると、幾分か明るさが劣っているようであった。


 「……やっぱり。魔力が不足しているのね」


 ミアカシは、ナギの背を見てキュッと目を細めた。


 『おいお前。どこに行くつもりだ? まさか、まだ馬鹿な事を考えているんじゃなかろうな』


 ナギはミアカシを振り返る。


 「私は始めからそのつもりです」


 それに対しミアカシは、口元の筋肉を引くつかせて憤った様子を浮かべる。


 『愚か者が! 拾った命を捨てに行く気か?』


 ミアカシの言葉にナギは俯く。


 「……確かに。あなたに助けられなければ私は殺されていたかもしれません。……正直に言えば、さっきだって、ここに来たことを後悔した瞬間が無かったかといえば嘘になります」


 『ならば、何故……』


 「このままみすみす指を咥えて見ていたら、仮に自分は生き延びられたとしても、一生後悔するんじゃないかって思うんです。そんな人生を歩むくらいなら、いっそ死んだ方がマシです」


 ミアカシは激高したように両の眼をカッと見開いた。


 『つけあがるなよ小娘! そんなものはただの死にたがりの妄言だ。死は易く、生は難いもの。お前のそれは、生きる苦しみから逃れる為に死に甘えているだけだ』


 ミアカシの言葉に、ナギは弾かれたようにミアカシを見た。


 「違う! 私は――」


 思わず大声を上げたナギが突然、言葉に詰まって咽た。


 その口元を覆った手の指の間から、ドロリとした血液が糸を引いて地面に垂れ落ちた。


 吐血はしばらく続いた。

 それが収まると、ナギは苦しみに顔を顰め、杖でふらつく体を支えた。


 「っぐ……。まだ……体が……」


 血に濡れた口元を袖で拭うナギの横へミアカシが歩み寄る。


 『ふん。そんな体で何が出来る』


 「……それでも、ほんの一人でも、助けられるなら――」


 ナギは瞼に涙を溜め、歯噛みしながら悔しそうに呟く。


 そんな彼女を、ミアカシはジッと見つめ、やがて諦めたように長い溜息をつく。


 『やれやれ……。まるで聞き分けの無いガキだ。何がお前をそこまで突き動かすのかは知らんが、……何にせよお前の魂は俺様のもので、狗賓こいつはお前の守護獣だ』


 ミアカシはそう言って地面に伏せると、顎をしゃくってナギに催促する。


 『乗れ。どうせその体じゃ森を抜けられんだろう』


 ミアカシの行動に、ナギは驚いた表情を浮かべる。


 「ミアカシ……あなた」


 ミアカシは舌打ちして言う。


 『言っておくが、ここから先、例え地獄を見たとしても、俺様は知らんからな』


 ミアカシが向けた凄みの有る視線に、ナギは一瞬たじろぐが、直ぐに決意を瞳に宿すと力強く頷いてミアカシの背に跨った。



 ミアカシはナギを乗せて森を駆け始めた。


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