最終話 灰色の涙

「実はね、私、この国の王女だったの」


 蝶が、ひらひらと二人の間を舞う。

 長い沈黙のあと、ウィルは乾いた声で笑った。

「……はは、冗談だろ」

「いいえ、本当よ。戦争が終わったから、こっちに戻ってきたの」

 信じてもらおうと、ハーシェルの口調は自然と力強くなる。

 しかし、ウィルは取り合おうとしなかった。

「いや、君は嘘をついている。君が王女なはずがない。絶対に、違う」

 ハーシェルを見ているようで、その目はハーシェルをとらえてはいなかった。中空を見つめながら、半ば自分に言い聞かせるようにウィルは言った。

 ハーシェルは静かに目を伏せた。

「そうよね、無理もないわ。私だって、最初は信じられなかったもの。だけど、これが真実なの」

 ハーシェルは自身の肩に手をかけた。そして布をぎゅっとつかむと、身体を覆っていたマントを取り払った。

 そよ風に、淡いピンクの薄絹がふわりと舞った。

 日の光を浴びて、衣に散りばめられた宝石の粒や金糸の刺繍がきらきらと輝く。肩を流れる透けるような衣は、すべての脅威から身を守るように王女の身体を優しく包み込んでいた。

 ウィルが弾かれたように立ち上がった。

「ラルサが来たのは、戦争が終わって、私たちを城に迎え入れるため。お母さんは王妃で、私は王女。そしてラルサはなんと将軍だったの。びっくりでしょ?」

 ハーシェルはどこか悲しそうに笑った。

 ウィルは呆然とした表情でこちらを見ている。確認するように下から順に眺めると、ある一点で目の動きを止めた。

 ウィルは大きく目を見開いた。

「そんな、まさか――」

 野原の隅に、影が落ちた。

 大きな雲は、ゆっくりと太陽を覆い隠していく。同時に、影は野原を端から飲み込んだ。木も、草も、花も、そしてウィルも、すべてが影に染まっていく。

 その時、ウィルの何かが切り替わった。グレーの瞳からは温かさが失われ、後にはガラス玉のような冷たさだけが残った。

 黙ったままのウィルを、ハーシェルは不安そうに見つめた。やっぱり、言わない方が良かっただろうか。

 ウィルが不意に口を開いた。

「僕、もう帰らなきゃ」

「えっ?」

 ハーシェルは聞き違いかと思った。

 困惑するハーシェルをよそに、ウィルはあっさりと背を向けて歩き出す。ハーシェルは慌てて後を追いかけた。

「え、ちょっと待ってよ!」

 ウィルは壁穴の前にかがむと、手を伸ばして木箱を横にずらした。ハーシェルが追いついた時には、身体はもうほとんど向こう側へ抜けていた。

「ウィル!」

 思わず名前を呼ぶと、ウィルはちらりとこちらを見た。その瞳に一瞬、温かい光がともる。笑い方を忘れてしまったような顔で、ウィルは小さく、しかし優しく微笑んだ。

「じゃあね、ハーシェル。会えて嬉しかったよ」

 そのまま、ウィルはするりと向こう側へ抜けた。出てすぐに、穴は木箱で塞がれた。

「待って!」

 手で動かす時間も惜しく、ハーシェルは両足で木箱を奥に蹴り飛ばした。 二、三度大きな音を立てて木箱が硬い地面を転がる。

 急いで穴をくぐり抜けるも、そこにはすでにウィルの姿はなかった。ハーシェルは走ってウィルを探した。しかしどれだけ路地を走っても、角を曲がっても、ウィルを見つけることはできなかった。

 壁に手をつき、荒い息を吐き出しながらハーシェルは途方に暮れた。

 どうして行ってしまうの。もっとたくさん話したかった。もう二度と会えないかもしれないのに、ウィルはそれでいいの? 私は一日だってウィルのこと、忘れたことなんてなかったのに。

 ハーシェルはその場でうずくまって泣き出したくなった。

 ずっとずっと、会いたかったのに。

 ウィルの……

「ウィルの、馬鹿」

 ハーシェルはくしゃりと顔をゆがめた。



 *  *  *



 路地を抜けてすぐに、一人の男の姿が目に映る。足を止めることなく、深くフードを被ったその男に軽く目配せすると、男はごく自然な流れで隣に並んだ。

 あらかじめ示し合わせたように、ぴったりと二人の歩調が重なる。前を向いたまま、男は固い表情で尋ねた。

「どちらに出かけられていたのですか」

 ウィルは表情を変えない。年齢にそぐわない、その冷静な眼差しはこれまでの経験から染みついたものだった。

「別にどこでもいいだろう。街を見てくるようおっしゃったのは父上だ」

 ウィルはすらすらと答えた。男は納得いかない様子だ。

「確かにそうですが、少しは立場をわきまえていただきたい。もしあなた様の身に何かあったら――」

「心配せずとも、もうそのような暇はないさ」

 二人は人けのない古い通りに来ていた。人々に忘れ去られたような灰色の道幅は狭く、足元を塵が舞う。その隅では、数人の男たちが等しく頭からマントに身を包み、身を寄せ合って立っている。

 近づくと、ウィルに気づいた男たちは目礼した。

「状況は」

 ウィルが尋ねると、男の一人が前に進み出た。

「西の関所の規制が緩和されたようです。また、明日の朝にはカルヴィアからの使節団が到着するとか。これに乗じて王都を抜けたのち、アーガス港から国を脱出するのが最善の策かと思われます」

「アーガス港というと随分北の方だな。少し遠回りにはなるが、いたし方あるまい」

 ウィルの隣に立った男は思案するように言った。

 王妃の暗殺後、王の行動は迅速かつ非常に的確なものだった。本来ならその日のうちに国に戻る予定が、まだ王都すら出られていない。国じゅうのあちこちで捜索の目が光る中、短時間で脱出しようとすることはかえって危険であった。

「まさかこれほど足止めを食らうことになるとはな。ナイルの王も、無能ではないということか」

 男は腹の底でうなった。

「よし。では出立は明日の朝だ。当初の予定通り、二班に分かれて王都を出る。次に落ち合うのは正午、アーガス港だ。各自、万全の態勢を整えておくよう」

 男は隣の少年を見た。子どもらしからぬ落ち着いた雰囲気をまとった少年の表情は、どことなく浮かない様子である。男は確認するように言った。

「よろしいですね? 王子」

 その場にいる全員の目がウィルの方を向く。

 ――もう後戻りはできない。

 過去の時間は巻き戻らないし、「永遠」なんてものはどこにも存在しない。ずっと前から分かっていたことだ。

 ウィルは顔を上げた。無表情に澄んだ瞳に、迷いの色はなかった。

「ああ」

 灰色の空から水がひとしずく、地上に落ちた。

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