死ねない猫の殺し方

池田蕉陽

第1話 喋る猫


「うん、やり直し」

目の前で机に肘をつき、傲慢な態度をとる中年の男は、3枚の資料を流すように見ると、そう告げた。

「え、でも言われたふうに...」

「いや、誰がこんなこと書けっていった?お前日本語通じてる?」

男が3枚の紙を机に叩きつける行為は、口調から怒りがこもってることを意味するものだった。

「すみません、やり直してきます」

謝罪をし、頭を下げる男は田淵 博(たぶち ひろし)。

博はメガネをかけているが、それは、会社でミスばかりする、落ちこぼれの姿によく似合っていた。


「元気だせって博!」

酒で顔が真っ赤になった男、中原 俊平は博の背中をバシッと叩く。

思わず、口からビールが噴射しそうになるのを堪え、中原の顔をみる。

その顔から見て取れるのは、なにも悩みがなく、わんぱく少年のようだった。

「仕事で1回ミスしたくらいで、そんな落ち込むなよ、な?」

そう言って、同期の中原はビールをごくごくと飲み干した。

パァー!と空になったコップを机に勢いよく置くと、中原は「ビールもう1杯!」とこの居酒屋の店員に言った。

「1回じゃないさ、毎日のようにミスしてしまっているよ、俺この仕事向いてないのかな...」

博の仕事は至って普通のサラリーマンだった。主にデスクワークだが、たまに出張に行ったりもする。

「んなことないって!仕事のミスなんかな?ビール飲んだら帳消しになるんだよ!」

無邪気に笑う中原にとうとう苛立ちがこみ上げてきて、博は飲みかけのビールを全て飲み干すと、金を置いて店を出た。


まだ飲み足りなかった博は、途中スーパーで缶ビールを1本購入し、帰り道にある公園のブランコで、憂鬱に浸りながらそれを飲んでいた。もう夜も遅いので公園には誰もいなかった。

1杯飲む事にでるため息は、さらに博を落ちこぼれにしていった。

ずっと頭の中にある映像は、今日上司に怒られたシーンのみ。ただひたすら、その映像が繰り返し、流されている。

ついに、缶ビールも空になり、それを振り返りもせずに、手だけで後ろに缶を投げ捨てた。

すると、後ろの草の茂みから「いてっ!」と声がしたので、思わず博は振り返る。

あるのは、ただむさくるしく生い茂っている草だけ。

そこら一体を目で追うと、茂みの中から魔物のように1匹の猫が飛び出してきた。

「うわっ!」

思わず口からそうこぼれ、ブランコから後から落ちてしまった。

尻餅をつき、ズレてしまったメガネをクイッと戻すと、先程飛び出してきた猫を見る。

「なにすんじゃ!」

猫はしかめっ面になりながら、そんなことを言った。

今この猫喋らなかったか?

間違いなく、今の日本語はこの小太い灰色の猫が発したものだった。

すると、猫はつい口が滑ってしまったかのように、短くて少し太い猫の手を口元に持っていく。

「今、君が喋ったのか?」

猫は見えるか分からない首を、左右にブンブンと振った。

すると、怪獣の泣き声のような音が、猫の腹から聞こえてきた。

「君、お腹すいてるの?」

今度は猫がまだ口を抑えながら首を縦に激しく振った。

「なら、一緒に来なよ、ツナ缶くらいはあるよ」

博はその場で立ち上がり、お尻の部分についた砂を払うと、酔っているせいか一瞬目眩を感じた。そのせいで、今の現実にも言うほど驚く事ができなかったのかもしれない。

博は足を帰宅方面に向けて、歩き出すと、後から灰色の猫が警戒しながらも付いてきてくれてるのが分かった。


猫が必死と言わんばかりにツナ缶を食い荒らしていた。その猫にはツナ缶の開け口が小さすぎるせいで、少し食べにくそうだが、満足そうに平らげた。

「うまいのぉぉぉツナ缶は!」

猫は口周りにツナのカスを付けながら、お腹を摩す姿は、まるで大食い狸のようだった。

「満足できたならよかったよ」

あ、そう言えばこのアパート、ペット禁止なんだっけ

ふと、そんなことを思ってしまう博だが、この時は酔いが周っており、あまり深く考えなかった。

小さな1室、一人暮らしには十分だが、猫が住み着くとなると、少し窮屈かもしれない。などの、もう既にこの猫を飼い慣らそうと考えていると、食いしん坊の猫が口周りにつくツナを舌で、ペロリと舐め回した。

「おぬし、まだ会って1時間くらいしか経ってないが、他の人間と違うことだけは分かった」

猫は先程とは異なり、真剣な表情を浮かべていたので、博は少し緊迫感を覚えた。

「は、はあ...つまり?」

「お主の目は良い目をしている。最近の人間ときたら、本当の優しさを持っておらん、それに比べ、お主はそれを持っておる人間じゃ」

「そ、そうかな〜」

なんか、人生教訓をされているみたいに感じた博だが、優しい人間と言われ、少し照れくさくなった。

「そんなお主に、ワシの頼みを聞いてほしいのじゃが...」

「頼みって?」

少し間が空いたら後、小太い猫の口が開いた。

「ワシを殺してくれんか?」

この瞬間から1匹の喋る猫と1人の人間の不思議な物語が始まった。



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