20151127:大人になるまで待って
生まれて間もないキミはまだよく見えないはずの目を見開いて、僕のことをじっと見た。……見たと思った。見られたと思った。
「あら、おじちゃんが気に入ったの?」
「おじちゃんはひどいよ」
母親の弟だからあっているけど。まだ学生。おじさんとは呼ばれたくない。
「じゃぁ、マサくんって呼ばせようかな」
それなら、まぁ。
「真希ちゃんは、マサくんが気に入ったの?」
血のつながらない姉は生まれたばかりの娘をそっと抱く。窓から差し込む光を背負い、淡く輪郭を光らせながら。
しばらく見なかった間に少しばかり柔らかい輪郭に変わった頬が笑みを作る。首の据わらないキミを上からのぞき込み、ねーとなにやら頷いた。
幸せそうな姉ちゃんと。不幸を何一つ知らないキミと。
君たちを守りに夜には義兄さんが帰ってくる。……僕はその頃には下宿先へと向かっている。
――先輩でもある義兄さんの、得意そうな顔をみるのは、まだ。
不意に鳴った玄関チャイムに姉は僕へとキミを押しつけ。
おっかなびっくり抱き上げたキミは小さな手を精一杯に僕へと伸ばし。
「え?」
頬をたたかれ、あやす合間に。
僕の現実は、不意に蕩けた。
立ちくらみ。いや、酩酊感とでも言うような。
足下が揺らぐ。立っていられず。
しゃがみ込み、手をついて。
知らない手触りに目を見開いた。
ここは、どこだ?
部屋の中だ。見覚えのあるベビーベッドが目の前にある。
見回してみる。
机、タンス、ぶら下げられている鞄類。積み上がっている洗濯物、子供用のおむつパック。いい音をさせて回るメリーがあり。その下に寝かせられた、ずいぶん大きな赤ん坊。
記憶にあるもの、記憶にないもの。知ってるもの、知らないもの。
瞬き見上げた天井の人の顔に見えそうな木目は見知ったもの。
僕の実家。元、僕の部屋。……今は子供に占拠された。
子供に。……子供?
メリーの下の赤ん坊へとそっと近寄る。どこか姉に似た目元の。どこか義兄に似た口元の。
三回りくらい、大きくなった、確かに、キミが。
「マサ!?」
振り返る。ほ乳瓶がぼとりと落ちてころりと転がる。
驚いた顔の姉が。やがて……じわりと涙を盛り上げ、そっと僕を抱きしめた。
三ヶ月だと姉は言った。
キミを初めて目にしたあの日。抱き上げたキミ、頬をたたいたキミをのぞき、キミのファーストキスの栄誉に与ってしまったあの日。透明なキミの想いが僕へと流れ込んだあの日。
僕は三ヶ月を失った。
大学はやめざるえなかった。
三ヶ月の空白の間に、試験は終わり僕は留年を確定していた。
姉には泣かれた。義父には殴られ、母にはしかられた後でやっぱり泣かれ、義兄にはうまくやれとなんだか妙なアドバイスを受けた。
あの日はそのまま、まだ無事だった下宿に戻った。友人に頭を下げ、先生に頭を下げ。一年やり直すと告げて。
そして、春になり訪れた実家。生後六ヶ月のずいぶんしっかりしたキミは。
再び僕へと手を伸ばし――。
僕は一年後にいると気付く。
……それを幾度も繰り返した。
僕は僕の時間で数年を過ごした。
気付くと数ヶ月度だったなど、それを何度も経験したなど、誰も信じてはくれなかった。
両親からは勘当状態。
下宿も解約、大学も退学。バイトももちろん続けていられず。
両親と別居を始めた姉の家、義兄に冷ややかに見下ろされる中、情けない居候になりはてた。
これは無邪気なキミの計画性のなせる技か。
それとも神様のいたずらか――。
*
「マキちゃんは誰が好き? ユウくん? ヒサくん? タケシくん?」
幼稚園の先生はよくそんなことを聞いてきた。ユウくんもヒサくんもタケシくんも同じクラスの男の子。割と人気がある方だったとは思う。
けれど私は、聞き耳立てる男の子や女の子たちの目の前で、いつも大きな声で宣言するのだ。
「マサくん!」
先生のきょとんとした顔を覚えてる。
ざわついた教室の空気を覚えてる。
「マサくん?」
「そう!」
初めて会った時から、私はマサくんが好き。
大人になるまで待っていて。
あのとき確かに私は彼へと手を伸ばした。
大人になるまで、そのままで。
ぴたぴたたたけば、彼は顔を寄せてきた。
だから。
*
気付けば僕は『何時』かを確かめ、そうして一人家を出る。
しばらく一人でどうにかやる。幸い若いままの俺は、きつい仕事もどうにか出来た。
そのうち、心配になるのかどうか、姉が来る。
ねだったかどうだかキミも一緒に。
そして、また。
僕の時は数年しか経っていないのに。
――何時しかキミは、学校という廓の中でひっそりと咲く花のような。
*
「マサくん!」
制服姿もっすっかり板についたキミは、義兄さんの目を盗んではしょっちゅう僕のアパートへ来る。押しかけ女房よろしく買い物までして上機嫌で。
帰れと言えば不機嫌になる。美味いと言えばにこにこ笑顔。くるくる動き、掃除だなんだと世話を焼く。
姉は仕方ないとでも思っているような気配。義兄さんのことは考えたくない。
文字通り、ついこの間生まれたばかりの赤ん坊が、見るたびに女の子らしくなり、女性らしい仕草を身につけ、僕のまわりをうろちょろする。腰まで伸びたまっすぐな髪、日焼けに弱い白い肌、出会った頃の姉に似た。
呼ばれて玄関の鍵を開ける。いつも通り、買い物袋を下げたキミが。キスされないよう距離を取れば、傷ついたような顔をして。
「マサくん。……もう一回だけ」
伏せられた目。うつむく顔。髪のかかる細いうなじ。
「嫌だ」
慌てて目をそらし、僕は部屋へと戻っていく。
「今の仕事は身体はきついけど割も良いんだ」
ガサリと響いた音に振り返る。キミの細い腕が、僕を。
「お願い……!」
あのときとは違う小さな手。細い腕。当たる、胸。
おもわず硬直した、僕へ。
「ごめんね、マサくん!」
キミの柔らかな唇が。
――ときめくキスより噛みついてとか、思ってしまった罰だろうが。
――キミに甘噛みされたいとか、そのまま睦言を聞きたいとか。
――透明過ぎるキミの想いに色をつけたいとか、思うのは。
――僕は『叔父』で。キミは『姪』で。
――戸籍上は二十も離れてるってわかってるかい?
――多分、目を開いたら君の目に映るのは不惑を過ぎたおじさんなのに。
*
マサくんがママを好きだってことぐらい最初から知ってた。
なんでこんなことが出来るのかとか、そんなこと私も知らない。
でもできる。だから私は出来ることをしているだけ。
私は私という時間の檻を抜けられない。私は私という廓の中でしか咲けない。
だから待ってて。ほんの少し……結構いっぱい時間を飛ばして待ってて欲しいの。
私がママよりきれいになるまで。マサくんが私を見てくれる、そんな大人になる日まで。
そうしたら。
ときめくキスより恋人同士の甘噛みを。
……私の想いにきっとあなたが色をつけて。
私の二十歳の誕生日。
私が譲ってもらったあなたの部屋。
経験と計算のその結果。掃除も料理もケーキもすべて用意して。
あなたがここへ帰ってくる。
「マサくん」
蕩けて凝った現実のあなたが。
「大好き!」
お帰りなさいのキスの代わりに、そっと耳を噛んでみた。
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