20151106:アメンボ探しの夜の色
――
そんな歌を聞いた。演劇部の部員たちの発声練習だった。体育館いっぱいに広がって、幾重にもこだまして。声とは思えない、まるで音の固まりだった。
固まりじゃない音を知って言葉として分かったのはずいぶん経ってからだった。いつものように声が聞こえ始める頃、クラブで使うボールを洗っていた私の脇腹がちょんちょんとつつかれた。
「あめんぼって虫がいるんだって」
横を向けば茜だった。手首までの袖口を土と水で汚しながら、同じくボールを洗いながら。いまにもいたずらしそうな顔で私を覗き込んで来る。
「あめんぼあかいなあいうえお、あめんぼって赤いのかな」
「……どうだろ?」
私は知らなかった。知っている人なんてこの学校の何処にもいないんじゃないかって思った。もしかしたら図書館に図鑑くらいあるかも知れないけど、この街で虫を見かけることなんてほとんどなかったから。
「今度の休みにさ」
にこっと笑う。男の子たちが遠巻きにする笑顔で。女の子たちがやっかむ顔で。
……私には、少しばかりイヤな予感が浮かぶ笑みで。
「見に行ってみない?」
今は夏だと大人たちは言う。
少しばかり暑い季節。温度は高めに設定され、長袖はほとんど要らない。
地上はすごく暑いと言う。先生オススメのフィールドワークに行ってみるって言ってみたら、なんだかいろいろ持たされた。
雨が降るかも知れないからと、雨具を。汗をかいたら飲み食いしなさいって巨大な水筒に、飴を。雨と飴じゃアメが溶けちゃう。汗をかくだろうからとタオルを。おやつ、着替え、帽子、カードが使えないからってじゃらじゃらお金、記録用にカメラとスケッチブックに色鉛筆。
「大荷物だね」
「暑いんだから、あれもこれもってなんだかいろいろ持たされた」
大人用のサングラスを余らせずるりと鼻の頭まで落としながら、茜はエレベータの前で待っていた。袖の余ったパーカーに、茜の背には小さな荷物が一つきり。あきれたように、まぶしそうに、私の荷物に苦笑する。
「夏だもんね。きっとものすごく暑いね」
茜が見上げる。私もつられて桜の隙間から見上げてみれば、タワーは天井へと消えている。タワーの先には『地面』があり、地面の先には『外』がある。
「行こっか」
茜が先に歩き出す。大人たちに混じり込み、大きく開いた入り口へと。
『外』へ行くのははじめてじゃない。家族旅行もしたことがあるし、農場見学も何度もしている。電車だって知ってるし、雨も嵐も見たことがある。
けど。
そっと茜の顔を見れば、大きく期待に見開いた目がにこりと糸みたいに細くなって。
私のやたらと冷えた手を。そっと手繰って握ってくれた。
「大冒険って顔してるよ」
ささやくように茜は言う。返す間もなく、エレベーターは制止した。
「たいしたことなんてないよ」
到着チャイムに紛れた声が、聞こえた気がした。
近くてとても遠い地上。
たった一分で着くのに、用がなければ訪れない。
暑くて寒くて、雨が降って飴は降らなくて、嵐があって、虫がいる。
「あっち!」
走り出す茜について行く。驚くおじさんにあやまって、振り返るおばちゃんにごめんなさいと頭を下げて。白く開いたタワーの出口を二人で一緒に駆け抜ける。
フィールドはエレベータのすぐ側だった。子供でも電車に乗らずにいけるように。子供だけでも迷わずたどり着けるように。
茜は案内を探すこともないようで、確かな足取りで先を行く。
虫の声が空気を埋めてしまうようだった。遠くの地面は揺れていた。真上から降ってくるかのような光はじんじん肌を刺すようで。
むき出しの腕を思わず庇う、帽子を取り出し、あわてて被った。
「待って」
茜は少しだけ振り返る。柔らかい風にパーカーがひらひら揺れる。薄い色のパーカーがまるで光ってるみたいに見えて。茜が光っているようで。私は何度も目をこする。
まぶしい。……暑い。
「休憩しながらいこっか」
ほらと、茜は休憩所を指さした。
歩くより休憩の方が長かったかも知れない。
あめんぼがいるという池は何処なのか。私は結局案内板を見ていない。
茜は休憩所を見つけるたびに私を誘う。
水筒の中身を二人で分け合い、汗をふきあい、私たちはのんびり進む。
何時の間にか雨も降った。地下にはない、雨だった。
傘をと取り出す私を制し、茜は今だと走り出す。
今日最後の日差しと共に虹が照らす出来たばかりの水たまりを。
すいすいと何かがいくつも過ぎっていく。
赤いのは沈み始めた夕日のせい。七色の影を抜けるその一瞬は、きっと七つの色をしている。
「あめんぼ?」
私が指せば。
「そうらしいって」
小さな荷物の中から出てきた小さな図鑑を茜は開いて読んでいる。
誰も読まないような虫の図鑑を。地下世界にない、全てを描いた図鑑の一つを。
弾んだ息が戻っていく。汗が袖に図鑑にシミを作る。
「……暑くない?」
パーカーなんて、長袖を着て。
茜はしばらく、無言だった。図鑑の字が追えなくなる頃、顔を上げた。
いつもくるくる表情を変える輝く瞳に夜の色が映り始める。夕日の残滓が、知らない夜をつれてくる。
――もう、帰らないと。
「翠」
じっと見られて、見返した。見えないのに、暗いのに。まっすぐな目が私を見ている。
「何」
「……帰らないって言ったら、どうする」
茜はパーカーを脱いだようだった。白い色が、ふわりと池の縁に落ちた。
ちゃぷりと音が聞こえてきた。茜の気配が。
「え、なに、茜?」
伸ばした手が、……袖の下に隠された、ざらりとした腕に。
「一緒に来てくれてありがと」
……思わず引っ込めた手を、再び出したときには、もう。
「茜!?」
「さよなら」
「茜……!」
彼女の輝く瞳に映っていたのは。
何処にもない、夜だったのか。
ざぶりざぶりと音がする。
私の足下で音がする。
私の手が、いくつものみみず腫れを持つ、腕を
「あ、赤いあめんぼ見つけるまで、一緒に探すんだから!」
飴のような大粒の雨の中で。
多分二人、大声で泣いた。
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