ひこうき

ムラサキハルカ

ひこうき

 たとえばの話、ある高校で一人の女生徒が空腹にまかせてクリームパンをはむはむしていたとする。きっと昼休みの教室内のことで、仲の良い他の女生徒たちと机を囲んでいるだろう。その際、少々過剰なくらいの甘ったるさが口内に広がったあと、この女生徒の欲望のはじっこが満たされる。もっとはっきりといえば女生徒は小さな幸せのようなものを感じることだろう。女生徒は更なるよろこびの続きを願って、二口、三口とパンをはむはむし続ける。その笑顔は、女生徒の友人である周りの女生徒たちにささやかな幸福をもたらすかもしれないし、そうではないかもしれない。


 その校舎の屋上に男子生徒がいるとする。男子生徒は面倒くさげな顔をしたままフェンスに寄りかかり、コンビニで買った昆布のおにぎりをぱくぱくするかたわら、パックのコーヒー乳飲料をちゅーちゅーしている。男子生徒はその舌先に広がるややぱさぱさとした米とぼろぼろとした鮭フレークの食感、それを流しこむ際のカフェインとパックの底にある紙が溶けたような味に浮かない顔をするだろう。とはいえ、腹が減っていることはたしかなので、半ば飽き飽きした味であるのを承知しつつも、仏頂面で食していく。今日も特に面白いことはないな、なんて振り返りながら、機械的に口を動かす。足元に置かれた紙袋には、コンビニで買ったおにぎりがあと四つほど入っているが、男子生徒は次の食事にさほど期待しておらず、午後になったらまたつまらない授業が始まるのかと少し憂鬱になったりするだろう。


 その高校から二百メートルほど離れたところにある古ぼけた駄菓子屋のベンチで、スーツを着た若い女がラムネを一気飲みしている最中だとする。空きっ腹に炭酸が沁みるのは、女も充分承知していたものの、夏の暑さと喉の渇き、たまたま通りがかった懐かしげな店の魅力に惹かれたのもあり、気が付けば店の奥に鎮座する老婆に硬貨を手渡し、ラムネ瓶を傾けたのだ。口内に広がる雑な甘さとびりびりに半泣きしそうになりながら、これだよ、というしっくりとした感じが、女の気持ちを爽やかなものにすることだろう。そのまましばらくぐびぐびと喉を鳴らして、口の中のびりびりを味わうのと同時に、ラムネの野暮ったい甘さがくどくなりはじめてくる。その時点で一通り満足したのもあって、女は口を瓶から離す。ぷはっと息を吐きだすと、喉が潤されすっきりしたのがわかる。直後に、瓶に半分以上、ラムネが残っているのを見て、少し多いなと思うものの、既に蓋を開けてしまったあとのため持ち歩くこともできない。午後の取引先との商談も迫っているため、この場でどうにかするほかなく、溝に流すわけにもいかないしなと頭を抱えることになるだろう。


 そんな若い女の後ろ姿を店の奥からじっと見つめつつ、駄菓子屋店主の老婆がスルメをガジガジしているとする。その際、半分以上人工のものに入れ替わっている歯が噛み切りにくいイカに到達する度にたわみ、心もとなさをおぼえるだろう。これだから年をとるのなんて嫌だね、なんて思ったりしながら、もう一方の手に持った煙草を一口すぱーっとしたりする。薄暗い店内でゆらゆらと広がっていく紫煙を霞む目でぼうっと見つめつつ、その行く先に視線をさまよわせる、なんていうとりたてて意味のない行為に耽っているうちに、老婆は徐々にうつらうつらしはじめるに違いない。目をぱちくりさせながら、なんとはなしにスルメを見ればようやく半分と少し食べたところに不恰好な歯形が残っている。その食べかけを老婆はなんとなく汚らしく思い、できるだけ早く片付けなければという義務感にかれたりするだろう。とはいえ、すでに一口か二口食べた段階でかなり満足してしまっているせいか、先程まであった食欲の芽すらうかがえなくなっている。そうしている間も、煙がぷわぷわと肺に吸いこまれていき、胸とお腹がいっぱいになっていく。食べなくては、という思いは眠気に打ち消され、次第に、まあいいか、という気持ちに掻き消されていくにつれて指先から力が抜けていき、


 その老婆の足元を歩いていた蟻の目の前に煙草の燃え柄が落ちたとする。突如としてあらわれた物体をその小さな生き物は反射的にかわす。元より、店内からむわむわと漂ってきた香りに反応して侵入してきただけで、特に備えがあったわけでもないため、自らの害になると判断した燃え殻からただひたすら距離をとるだろう。そうしたあと、再び臭いに反応するようにして戻ろうとするに違いない。もちろん、燃え殻をかわすことを忘れず、老婆の後方に広がるくたびれた薄緑の広場を一歩一歩踏みしめていくに違いない。蟻としては自らの行く先になにがあるかを詳しく把握しているわけではない。ただ、食料があるだろうという見当だけはついているのだろう。だから迷うことなく目標へとまっしぐらとことこしていく。短いか長いか、あるいはそんなことすら気にもかけているのかいないのかすらわからないが、とにかく蟻は目的地に辿りつき、チョコレートのかけらを発見するだろう。駄菓子屋の店主である老婆が本日の朝食のあと、モシャモシャガジガジしたものである。それを見て蟻はなにを思ったかあるいは思わなかったか、茶色いかけらの端に齧りつき溶かして丸めはじめるに違いない。独り占めにしようという意図からか、あるいは一匹だけで運びきれるという判断からか、もっと別の理由があるのか、ともかく蟻はしばらくの間、孤独な戦いに勤しむことになるだろう。なにを思ったのかは、神のみぞ知るだろうし、神すらも知らないかもしれないし、そもそも思いなどないのかもしれない。


 その駄菓子屋の裏手にある小窓から見える公園内で、中年清掃員の男が一人、コロッケパンをガブガブしつつ、無糖の缶コーヒーをごくごくしているとする。ソースの甘ったるさとともにつたわってくるコロッケとパンのもさもさとした食感、その後に歯の間に挟まる細々とした肉とジャガイモを気持ち悪く思ったあと、掃除するようにして苦味しかない液体で口内をぶくぶくさせるという行程を、幾度も繰り返す。清掃員としてはこの二つが慣れ親しんだ食品ではあるものの、既に何年も同じ組み合わせを口にしているのもあり、飽き飽きしているのだろう。最初の方はパンの種類や飲み物を変えたり、奮発して量を増やしたりもしたが、元々食に対してあまりこだわりがなかったのもあってか、次第に組み合わせを変えるのも面倒になり、今では職場からもっとも近い場所にあるパン屋で機械的にこの二つを手にし、公園のベンチに座るという行為を繰りかえしている。パン屋店主である中年女性は、コーヒーとコロッケパンしか頼まなくなった清掃員に、当初こそ、またそれかい、などとニヤニヤ笑って応じていたものの、時が経つに連れて言葉少なになっていったのだろう。近頃では清掃員がやってくると、ただその二つを無言で差しだしてくる。男としては言葉を交わすことすら面倒になりはじめていたため、都合が良かったものの、少々のさみしさを感じてもいる。かといって、べらべらと耳元で愚痴を漏らされたところでただただ迷惑なだけではあるのだろうが。あらかた食べ終わったあと、清掃員は天を仰ぐ。見慣れた青空に線を引くようにして飛行機雲が伸びていくのが目に入った。久々に見たそれに素直に目新しさをおぼえたあと、すぐにどうでも良くなる。そして、午後も仕事かと思うと自然と溜め息をこぼすに違いない。


 その飛行機雲の先にある機内で、一人の男の子は窓の外を見下ろしながら、今か今かと着陸の時を待っているとする。旅行前の昨日、たまたま見た番組で飛行機墜落の話が頭に残っていたせいもあり、離陸前までは機体に乗ることすらぐずっていたのだ。そこで頭を抱えた男の子の両親が、向こうに着いたらいくらでもハンバーグ寿司を食べさせてあげると提案した。この好物の名前を聞いて、男の子は何度か、ほんと、と確認し、父と母を何度も頷かせてから、それだったらと渋々了承してから、おっかなびっくりと飛行機に乗りこんだ。離陸前までは落ち着かなかったものの、乗りこんでからは窓の外に広がる小さくなった地面に夢中になって騒ぎだし、何度か両親に注意されたりもした。そして今、さんざんはしゃいだせいもあってか、既に男の子のお腹はぺこぺこになっている。どんどん近付いてくる地面に男の子は期待を膨らまし、以前一度だけ食べたハンバーグと素飯が合わさった味を思い出し、じゅるりと唾で口をいっぱいにするのだ。


 その飛行機が作りだした雲が窓の外を通り過ぎるのを、女生徒がクリームパンの次にとりかかったチョココロネをはむはむしながら、発見したとする。まっすぐに走る綺麗な線に目を輝かせた女生徒は、なんか午後もいいことがありそうと、と思うだろう。そして、なになに、と尋ねてくるクラスメートたちを見つめながら、飛行機雲を指差してにっこり笑うのだ。その間も口の中は、たぶん、幸せなことだろう。

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ひこうき ムラサキハルカ @harukamurasaki

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