バッサーレの町

 潮風の匂いが、鼻を撫でる。

 何処となく生臭いような、しかし鮮烈に「何か」を掻き立てる強烈な塩っぽい香り。

 かつて、とある船乗りはそれを浪漫の香りと呼んだというが……事実、ヒルダは海を見て凄まじくテンションをあげている。


「うわあ、凄いわねアルフレッド! めっちゃ広いわよ! あれ全部水なのかしら!」

「塩水だがな」

「何それ、塩取り放題じゃないの! あ、でもあんまり取りすぎたら海が干上がったりするのかしら!」


 バッサーレの町についてすぐ宿をとり馬車を預けたアルフレッド達は、早速港に向かっていたのだが……港に続く緩やかな坂の上から見える広大な海にヒルダは自分を抑える事ができなくなってしまったらしい。


「さて、な。この世界の海がどの程度広大か知らないが、人間が多少塩をとった程度じゃどうにもならないんじゃないか?」

「え、てことは実質無限なの? あたし罠士なんかやめて塩商人になろうかしら」

「……よく分からんが、そう上手くはいかないんじゃないか?」

「そうよね、きっと商業ギルドがその辺の利権抑えてるわよね……くそっ、普段使ってる塩の裏にこんな美味しい話があったなんて。もっと塩とか買い叩いていいんじゃないかしら」


 そんな単純な話でもないだろうと思うのだが、楽しそうなので言うのはやめておこうとアルフレッドは大人の判断をする。

 海を見て綺麗とかではなく、すぐ金の話になるのはヒルダらしいが……とそこまで考えてアルフレッドは気付く。


「そういえば、海を見るのは初めてなのか?」

「え? そうよ。あたし、あの町から出たことなかったし」

「そうか……意外だな」

「なんで?」


 本気で不思議そうに首を傾げるヒルダに、アルフレッドは視線を合わせる。


「お前は、もっと自由に生きてると思ってたからな」

「自由よ? 制限つきの自由だけどね」


 町の外に出るというのは、危険と隣り合わせだ。

 外に出れば野生の獣にモンスター、盗賊……腐るほどの危険が待っている。

 護衛をつけた商人ですら襲われるというのに、女の一人旅など「食べ放題です、どうぞ奪いつくしてください」と看板をぶら下げて歩いているのと何も変わりがない。

 町中であっても日銭を稼ぐには何らかの仕事をしなければならないのは当然だが、身寄りのない者であればその手段は限られる。

 具体的には戦士ギルドや罠士ギルドへの登録。そうして金を稼ぎ、あるいは力をつけた者が外の世界へと出ていき、冒険者と呼ばれたりする。そうなれないならば……一生を閉じた世界で暮らすのが関の山。世の中は、そういう風に出来ているのだ。


「アンタと出会えて良かったわ。ほんっと、そう思う」

「……そうか」


 ドーマのような来訪者によって世界が荒らされているのだと、アルフレッドはそう思っていた。

 ……だが、実際は違うのかもしれない。

 世の中はもっと残酷で、不幸せに溢れているのかもしれない。

 ヒルダを見ていると、そんな事を考えてしまうことがある。


「そこのお二人、もしかして今日初めての方ですか?」


 突然背後から声をかけられて、アルフレッドとヒルダは同時に振り向く。

 其処には大きな水晶玉を抱えたフードを目深に被ったローブの少女が立っており、二人をじっと見ていた。

 フードの奥からは青い瞳が覗き、その顔立ちはかなり整っている事が分かる。

 少なくとも孤児やゴロツキの類には見えず、むしろ育ちの良さが透けて見える。


「そうだが……」

「やはり。で、恋人同士なのでしょうか?」

「違うわよ!」


 アルフレッドが何かを言う前にヒルダが速攻で否定し、少女は上品に笑う。


「そうなんですか? それっぽい雰囲気でしたから、てっきり……」

「どこをどう見たらそう見えんのよ……で、何? 観光案内も押し売りもお断りよ」

「あ、この水晶? これはお売りできませんよ。私の商売道具ですもの」


 さっと水晶を隠すような動きを見せる少女に、ヒルダは大きく溜息をつく。


「なら何なのよ。まさかからかう為に呼び止めたってわけじゃないでしょ?」

「お二人が恋人だったら恋占いでも如何なものかと思ったのですが……相性占いでもなさいますか? 普通の占いとかもやっておりますよ」

「何アンタ、占術師? 昼に出歩いてないで星でも読んでなさいよ」


 追い払うような仕草をするヒルダに、少女は肩を竦めてみせる。

 その顔には、気分を害したような様子はない。


「占術師が見るのは天ばかりではございませんよ。人だって見ます」

「じゃあそういうの求めてる人のところに行きなさいよ」


 どっか行け、と全身で主張するヒルダの横をすり抜け、少女はアルフレッドの眼前までやってくる。

 アルフレッドを見上げるその瞳は見通す事を許さない深い海のような輝きを湛えており……それでいて、こちらを覗き込まれているような不思議な感覚に陥ってくる。


「……不思議な人。初めて会うはずなのに、貴方からはまるで……」


 風に吹かれ少女のフードが外れ、その顔が露わになる。

 ボブカットに切り揃えた青い髪がサラリと揺れ、少女はその瞳をアルフレッドへと向けたまま呟く。


「……沖に出るおつもりでしたら、お気を付けて。凶兆が出ています」

「覚えておこう」


 立ち去っていく少女の背中を見送りながら、アルフレッドはそう答えて。

 何アイツ、と不機嫌そうに呟くヒルダの肩を軽く叩き、坂を下りていくのだった。

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