あの人が戻ってきた

三島 至

【前編】あの人が戻ってきた

 

 夫が死んだ。


 長年連れ添った夫婦ではなかった。

 知り合ったのは早かったけれど、恋人として付き合うでもなく、見合いの話がきたから、結婚しただけ。

 結婚してからは、一年くらいしか経っていない。

 正直、恋愛感情はなかった。

 仲の良い夫婦かと言われれば、そうでもなかった。

 見合い結婚なんて、そんなものか、と思っていた。

 会話もあまりしてこなかったと思う。

 私は専業主婦で、夫は仕事で帰りが遅く、ほとんど一人で過ごしていた。

 子供もいない。私は人と関わるのが好きじゃない。だから、気楽で良かった。

 だけど、交通事故で夫が死んで、一ヶ月、二ヶ月と過ぎて、どうしようもない虚無感に苛まれている。

 私は、夫のことを好きではなかった。

 むしろ、話しづらくて、気をつかってばかりいたから、嫌いになりかけていたのだと、自分では思っていた。

 なのに、夫が、息を引き取るまえに言った言葉が、頭の中をぐるぐる回って、私は後悔している。

 死んでせいせいするくらいだったのに。

 私は好きじゃなかったのに。

 あの人を好きになってあげられなかったことが、こんなに辛いなんて。


 私と結婚して、あの人は幸せだったの?


 寂しくて仕方がなかった。

 私は空っぽだった。

 気が付くと私は、高いところを目指して階段を上っている。

 飛び降りたら、絶対に助からないような場所を探している。

 最近は、危険がないように、屋上は立ち入り禁止になっている事が多いから、探すのは結構大変だった。

 でも、案外あるものね。

 運良くビルの屋上に出る事が出来た。

 私は柵に手をかける。

 夫が、どこの世界にいるかは分からないけれど、私は天国にも地獄にも行きたくないわ。

 ただ、この世界から消えて無くなりたい。

 私は片足を持ち上げ、柵を越える。

 両足が、柵の向こう側に立った。

 あと一歩踏み出せば、私はこの世からいなくなる。

 もう、何も考えなくていいのだ。

 夫の最期の言葉に、胸が押しつぶされるような気持ちを、ずっと抱えていなくてもいい。

 さようなら、あなた。

 私は目を閉じて、体を傾けた。



「危ない!!」


 ぐん、と体を支えられて、私は落ちることが出来なかった。

 後ろから、誰かが私の胴体に腕を回している。

 余計なことをして……やっと見つけた場所なのに。

 がっちりと抱き込まれて、身動きが出来そうにない。

 いい迷惑だ。一体どこのどいつだと、恨めしげに首だけで振り返った。


「間に合って良かった」


 安堵したように笑顔を向けたその人は、


「そこから飛び降りても、ただ痛いだけだよ」


 死んだ夫と同じ顔をしていた。



 ※



 夢を見ているのかと思った。

 私を助けた男性は、器用に私の体を持ち上げ、柵の内側におろす。

 呆然としている私を他所に、色々話し掛けてくるが、何を言っているのか頭に入ってこない。

 おそらく、心配してくれているのは分かる。

 でも、何だか、この人は……


「あなた、なの?」


 私が話を遮って呼ぶと、彼はきょとんとして、不思議そうに言う。


「何処かでお会いしましたか……?」


 ……まるで初対面のように、私に接するのだ。


 どういうことだろう。

 この人は私を知らない。

 でも、夫と同じ顔なのだ。

 声も、体格も、全く同じに見える。

 ただ、そう、あの人はこんなに気さくに喋らなかった。

 私はやっぱり、夢を見ているの?

 それか、目がおかしくなってしまったのだわ。

 夫であるはずがない、あの人は死んだのだから。

 だとすれば、この人は、私の目が夫に似せて見せているだけなのか、本当に、奇跡的に、夫に瓜二つなのか。

 私の体を支えた感覚は、本物だ。これは現実の出来事。


 現実なら、どちらでもいいわ。


 私は彼に縋って、泣き崩れた。




「そうですか、旦那さんが亡くなっていたんですね……」


 彼は訥々とこぼす私の話に、耳を傾けてくれた。


「私……いい妻では、なかったわ。あの人のことも、好きになってあげられなかった。知らなかったのよ、あの人が……私のこと、愛していたなんて……」



 もう助からないと分かってか、死の間際に、夫は言った。


『初めて会ったときから、君が好きだった』


 私は何も言えなかった。

 どうして、死ぬときにそんなこと言うの?

 事故に居合わせた私は、夫の意識がある間、側にいた。


『ずっと愛している』


 それが夫の最期の言葉だった。


 結婚生活で、夫との少ない会話の中、私は一言、こぼしたことがある。

 幽霊になりたい、と。

 別に死にたいという意味ではない。

 いないようで、実はいるような、曖昧な存在になりたいと。

 夫は何も返さなかったけれど、どう思ったのだろう。

 まさか自分のほうが死ぬことになるなんて、思っていなかったでしょう。


「仲の良い夫婦では、無かったの。夫の気持ちを知って、どっと後悔が押し寄せてきて……私、もう、どうにもならなくて……だから、だから」


「自殺しようとした?」


 彼の声は、私を責めてはいない。

 ただ、ひたすらに優しい声に、ぼろぼろと涙がこぼれた。


「本当は、夫に、私もよって、言ってあげたかった……嘘でも、言えば良かった。でもあの時は、夫に対して、愛しいと思うことが出来なかった……」


 完全にあの人がいなくなってからだ。

 あの人のことばかり、心を占めてしまうのは。


「では、今は?」


「わからない……」


 罪悪感からくる涙なのか、愛情からくる悲しみなのか。

 自分ではもう、答えを出せない。


「わからないと言ってしまうことが、悲しい……」


 もっと一緒にいれば、分かったかもしれないけれど。


「あなたは、私の夫とそっくりだわ……中味じゃないの、外見が……」


「そうなんですか?」


「だから、こんなに話してしまうのね……あの人には、言えなかったから……」


「不思議ですね」


「ええ……私、貴方が夫にしか見えないの。いよいよだめね……」


「そんなことありませんよ」


 彼は両手で、私の頬を優しく包んだ。

 目を合わせてくる。

 どこまでも優しい瞳だった。


「旦那さんがくれた、チャンスかもしれないですよ」


 どういうことか分からない。

 彼は目じりを赤く染めて、照れくさそうに笑った。


「もう一度恋するチャンスを、くれたのかも。僕は、貴女に一目惚れしたんです。旦那さんと同じに見える僕のこと、好きになってみませんか?」


 彼に手を差し出され、迷うことなく手を重ねる。

 彼とそうなることを、望んでいたのかもしれない。

 優しいこのひとが、そう言ってくれるのを、無意識に待っていた。

 頭のおかしい私は、それを幸運だと思ってしまったのだった。




 私は彼と、お付き合いを始めた。

 夫とはしたこともないデートを重ねる。

 夫と趣味の話をしたこともなかった。彼は私が、本を読むのが好きだと知ると、僕も読みたい、とお勧めを聞いてきた。

 彼は夫と違って、私のことをたくさん知ろうとする。

 好きな本は? 今日は何が食べたい? この中ではどれが好き? 嫌いなものってある?

 家で料理を振舞えば、美味しいと褒めて、一緒に歩けば、歩幅を合わせて隣に並ぶ。

 目が合えば微笑んで、私が見ていなくても、彼はよく笑う。

 私と過ごしている間、彼はとても幸せそうにしている。

 初めての感覚だった。


 あんなに沈んでいたのに、嘘みたいに心が晴れていく。

 愛されていると感じることができた。

 重たかった体が、ふわふわと浮いているようで、気持ちも軽い。

 浮ついているとは、こういうことなのだろう。

 自分がまた笑えるなんて思わなかった。

 私が笑うと、彼は泣きそうな顔で、「やっと笑ってくれた……」と言った。

 一目惚れって、こんなに深く想ってくれるものなの?

 私はしたことがないから分からないけれど。

 でも、この人がずっと、私のことを好きでいてくれればいいのにと思った。


 私は夫にできなかった、恋を知った。



「最近、明るくなったね」


 最初の頃敬語で話していた彼は、今では砕けた口調で私と話す。


「そう?」


 自分でも、声が弾むのが分かる。

 確かに、明るくなったのだと思う。

 だけどたまに、ほんの少しの不安が滲み出て、胃の奥に蓄積されていくような感覚がある。

 自覚していた。

 夫と性格は違うけれど、私は彼を、夫として見ている。

 別の人間としてではなく、実は夫は死んでいなくて、私たち夫婦はやり直しをしているのだと、考えていた。

 私は壊れている。

 彼が私を愛してくれる、夫ではないけれど、彼は夫なのよ。

 私が愛しているのは、夫なのだから、彼も夫なの。

 心が、夫以外に思いを寄せることを拒んでいた。

 よく似た別人ではなくて、私は夫に恋したのだから、私は夫に罪悪感を持つことなんてないのよ、と……。


 あの人が、私の元に戻ってきてくれただけ。

 それでいいじゃないの。

 私はこの人と、幸せになりたいのよ……。




 ※


 現実感のない日常。

 私は壊れているけれど、あの人は変わらず笑ってくれる。


 付き合い始めた時、まだ彼を、あの人と別人として捉えていた頃。

 名前を聞いたら、こう返された。


「貴女の旦那さんと同じでいいですよ」


 彼は自分の名前を明かさなかった。

 頭のおかしい話だと思う。私はそれでいいと思ってしまったのだ。

 本名も知らない人と付き合うなんて、どうかしている。


「私の夫はね、アカリというの」


 その時久しぶりに、夫の名前を口にした。


 朱色のアカに、真理のリよ。

 女の人みたいで、夫は自分の名前があまり好きではないと言ったの。

 両親には申し訳ないが、って。

 だから私、あの人のこと、名前で呼ばないの。

 怒らせたくなかったから。

 でもね、本当は、名前を呼び合う関係になりたかったの。

 あなた、って呼び方、好きじゃなかった。

 あの人も、私のこと、君、としか呼ばなかった気がする。

 だから、距離が縮まらなかったのよ。

 ねえ、だから……


「あなたは、朱理さん。そう呼んでもいいかしら」


 今度は名前を呼ばせて欲しい。


 彼は頷く。


「旦那さんも、本当は名前を呼んでほしかったと思いますよ」


「そう思う?」


「ええ。きっと」


 彼がそう言うなら、本当にそんな気がしてくるから、不思議だ。


「私もね、名前で呼んで欲しかったのよ……」


 彼は私の望みを叶えてくれた。




 狂った日常。

 私の名前を呼ぶ朱理さんは、理想の夫だ。

 一瞬、我に返ると、朱理さんは朝も昼も夜も、一日中私と一緒にいる気がした。

 お仕事は? とか、他に用事はないの? とか、聞かない。

 離れて欲しくないから。

 朝起きると、あの人が先に起きて、食卓についている。

 テーブルには、出来立ての朝食が並ぶ。

 普段は私が作るけど、たまにこうして朱理さんが用意してくれた。

 二人で談笑しながら、朝食を食べる。

 昼は一緒に出かけて、買い物をする日もあれば、遊びに行く日もある。

 夜は夕食を一緒にとって、いつのまにか眠っている。

 気付いたら朝だ。

 その繰り返し。




 幸せな日常。

 今なら自信を持って言える。私は夫を愛している。

 この日々がずっと続けばいい。

 時間の感覚が薄れているようで、私はあの人とどれ位の時を過ごしたのか、分からなくなっていた。

 でも、あの屋上で出会ってから、もう長い年月が過ぎた気がする。

 あの人の見た目は変わらないから、実際はそんなに経っていないのかも。

 それとも、一緒に居過ぎて、変化に気付かないだけかしら。

 どちらでもいい。

 あの人がここにいることが、全てなのだから。




「遊園地に行ってみない?」


 朱理さんにそんな提案をされ、私は勿論了承した。

 私はもう、十代の若い女の子でもないし、遊園地に行きたいなんて言い出せなかった。

 結婚してからも、行ってみたいという気持ちはあったのだ。

 朱理さんはそれを全て分かっているように、早速準備を始めた。


 二人で電車に揺られ、目的地まで着くまで、心穏やかに過ごす。

 朱理さんは、いつも私を見ているので、あまり横顔を見ることが出来ない。


「ねえ、どうしていつも私を見ているの?」


 口には出さずに、これじゃあ、満足に朱理さんの横顔が眺められないわ、と思う。

 私は責めたつもりは無いのだけど、朱理さんは一瞬悲しげな顔をした。

 ごめん、と小さく呟くので、そんなに落ち込むとは思わず、少し慌ててしまった。


「見ていて悪いわけじゃないのよ。ただ、ずっと見てくるなあと、思っただけだから」


 私が不快に思ったわけではないと、理解したらしく、朱理さんは珍しく、私から目を逸らして言った。


「幸せなんだ。とても」


 そんな簡潔な言葉で言い表せる表情ではなかったけれど、紛れも無く本心だと、感情がこもった声だった。

 私もよ、なんて、言わなくても分かるでしょう?



 遊園地は、人が多すぎて、手を繋いでいないとはぐれそうになる。

 私と朱理さんは手を繋いだ。

 私は子供のようにはしゃいで、あれに乗りたい、これが食べたい、と、率先して朱理さんを連れまわしてしまった。

 不思議と疲れは感じなくて、それはどうやら朱理さんも同じようだ。

 途中、疲れてはいなかったけど、ゆっくり話したくなって、ベンチに腰掛けた。

 騒がしい音が遠くに感じる。

 両親に手を引かれた子供が、目の前を通り過ぎていった。


「子供……」


 私の言葉を拾った朱理さんは、「子供、欲しいの?」

 と聞いてきた。

 よくわからない。


「何となく、無理な気がする。欲しいとか、欲しくないじゃなくて……その選択肢が、最初から与えられていない気がする」


 自分でも、どうしてそう思うのかは分からないのだけど、朱理さんはそれ以上聞いてくることも無く、「そうか」と納得したようだった。



 また、あの感じだ。

 胃の奥に、不安が溜まっていく感覚。

 こういう時、私は現実に引き戻される。

 夫の死の瞬間を思い出した。

 彼といるのに、私は別人として、夫のことを思った。


「死ぬのって、どんな感じかしら……」


 屋上から飛び降りるつもりはもうないけれど、私が死んだらどうなるのか、少し気になった。

 私はぼんやり正面を見ていたので、視界の端に彼が映る。

 びくり、と、体が揺れたのを見た。

 何かあったのかしら。

 彼は俯いているようだ。

 もしかしたら、心配してくれたのかもしれない。私は彼の目の前で自殺しようとしたのだから。

 安心させるように、私は彼を見つめて言おうとした。

 もう、死にたいとは思っていないわ、と。


 ゆっくりと顔を上げた彼のほうが、口を開くのが早かった。


「まだ、幽霊になりたい?」


 私は笑う。


「そんな昔のこと、まだ覚えて………」


 途中で言葉を切る。

 あれ?


 現実の私が囁いた。この人は、夫じゃないよ、と。

 おかしいわ?


「私、夫にしか、言っていないわ」


 彼の表情が変わったのを、私は見逃さなかった。


「幽霊になりたい、なんて」


 夫との会話は、極端に少なかったから、覚えている。

 間違っても、楽しい会話じゃなかった。

 だから、彼には話していない。


 なぜ彼が知っているの。


 彼は、誤魔化すように、何か言おうとしたけど、大体分かる。

 以前話していただろう? とか、そんなところ。

 でもね、絶対ないわ。

 幽霊になりたい、と言った時のあの人の顔、悲しそうに見えたから……

 もう二度と言わないと、決めていたもの。


「あなた、なの?」


 屋上での会話を再現する。

 だって、もう心が納得しているのだ。

 この人は、どこからどう見ても、夫じゃないか………。




 彼はやはり、あの人だったのだ。

 彼は私の前で初めて、涙を見せた。


「お願いだ、僕から離れて行かないで」


 泣きながら、死んだはずの夫は胸の内を明かした。

 それは、最期の言葉から始まる。


 ……『初めて会ったときから、君が好きだった』


「一目惚れは嘘じゃない。

 君と上手く話せなくて、だけど君に好きになって欲しくて、結婚できた時は、夢のようだった。

 これから先も、ずっと一緒にいられると思っていた。

 君と一緒にいたくて、こんなところまで追いかけてきてしまったんだ。

 やり直したかった。今度こそ素直になりたかった。

 言い出せなくて、ごめん。

 僕はもう死んでしまっている。

 無理かもしれないけど、お願いだから、怖がらないで。

 気付かれたら、虚構が崩れてしまうと思った。

 君が目の前から、消えてしまうと思ったんだ……」




 夫の独白は、私に不安をもたらした。

 すでにこの世の者ではない夫に、恐怖はない。

 今まで楽しく過ごしてきたのだ。

 私が愛したのは、本物の夫だったのだから、怖がることはない。

 私が不安なのは、私が、彼が死者だと気付いてしまったこと。

 虚構が崩れるとは、どういうこと?

 夫は、いずれ消えてしまうの?


 こんなに愛してしまったのだ。

 もう二度と、失いたくない。


「貴方……朱理さん……」


 私も、夫も、泣いていた。


「もう、居なくならないで……」


 抱きしめると、感覚がある。

 腕をすり抜けることもない。

 死んだ夫に、何故実体があるのかは、分からない。だけど。

 幽霊だって、何だっていいから……

 ずっと一緒にいたい。


 私は、死者の夫を受け入れた。





 ※


 曖昧な日常。

 相変わらず、時間の流れがぼんやりしている。

 結局、あれから夫は変わらない。

 数年が過ぎたように思う。

 私たちは新婚夫婦のように、仲睦まじく暮らしていた。

 夫は、黄泉の国から、戻ってきたのだろうか。

 もう、あの世に行ってしまうことはないのだろうか。

 怖かったけれど、不安を口に出して聞いてみた。

 すると夫は、不思議な言い回しをする。


「死んでしまったから、もう、戻れないよ」


「? 貴方が死んでいるのは、知っているわ」


「うん。大丈夫だよ。僕たちは、ずっと一緒にいられるから。心配しなくても、僕は突然消えたりしないよ。君が望んでくれるなら」


「本当に?」


「うん」


「嘘じゃない?」


「本当だよ。もう帰れないから」


「よく分からないけど……ずっと一緒に居てくれるなら、何だっていいわ」


 何度も確認したけれど、夫は嘘をついているようには見えない。

 私はやっと安堵した。

 一度死んでしまったけれど、夫はずっと側にいてくれるのだ。

 落ち着いて、心に余裕が出来た私は、気になったことを聞いてみた。


「朱理さん、死後の世界って、どんなところなの?」


 夫はきょとんとして、テーブルの向かいに座る私を見つめる。

 何か変なことを言ったかしら?

 何と言ったものかと、少し悩んでいるようだ。

 やがて夫は、穏やかな笑顔で、答えてくれる。


「夢のように、幸せなところだよ」


 意外な答えだ。

 私は、夫といられて幸せだけど、夫は、ここにいて良かったのだろうか。

 死後の世界が夢のように幸せというのは、やはり、全ての苦しみから解放されたような場所なのだろう。


「……戻ってきて、良かったの?」


 尋常ではないこの状況を、私は受け入れているけれど、世界の理としては、よくないのではないか。

 不安げな私に、夫は何でもないことのように言う。


「ここが、夢のように幸せな場所だから、いいんだよ」


 常世でもどこでも、君といられるなら。


 そう言った夫は、永遠に私の側にいる。

 私の時間も進んでいないような気がするけれど、考えなくてもいいことだ。


 きっと。





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