9-5
んあーあ、と微かな鼻声をあげて、赤子がまぶたを開いた。
小さい目、丸い鼻、腫れたように膨らんだ頬。燭台の乏しい明かりの中に照らし出されたその顔は、決して器量がよいとは言えない。が、こちらをまっすぐに見つめる瞳は、岩から湧き出たばかりの清水のように澄んでいた。
「ほぉらルカ、ごらん。アモイにいさまだよ。あっ、ちがう。おじさまだよ」
ハルは腕に抱いた赤子を揺らしながら、細い目をますます細める。半年ほど前に産まれた娘のルカは、残念ながら父親似のようだった。
「申し訳ありません。このようなときに押しかけてきてしまって」
ウララは下座に手をついて、人形のようにつぶらな瞳でアモイを見上げる。もともと丸顔の美少女は、出産してから肉づきが増して、さらに柔らかな風貌になっていた。
「いや、そうお気になさらずに」
平静を装ってアモイは答える。
「でも、奥方さまのことがお気がかりでしょう」
「どんなに気がかりでも、男の私が産屋に立ち入れるわけでもなし、と言って仕事も手につかず、いたずらに時を過ごしていたところでした。むしろ、誰かいてくれたほうが気が紛れます」
というのは、もちろん本心ではない。しかし一面の真実と言えなくもなかった。
産屋へ移ったイセホの容態が急変し、気を失ったという知らせを受けたのは、今日の昼前のことだ。しばらくして意識は戻り、今は小康状態を保っているとのことだが、果たして母子ともに無事で済むのかどうか、予断は許さない。
そんな状況とも知らず、見舞いのためにと王宮を訪れた
さらに彼らには話していない、もう一つの重要な案件──テシカガの家を訪れた謎の二人組の捜索も、まさに進行中だ。ムカワ・フモンの手の者が
まして生後半年の赤子に夢中の、二十歳の赤子の相手をするような余裕など。来訪の知らせを受けたとき、そう思わずにはいられなかった。
が、いざ対面してみれば、やはり自分ももうすぐ父親になるという意識が働くのだろうか。ふくふくと丸い嬰児の愛嬌に、苛立つ心を慰められたのも事実だった。
「どうぞ、お気を安らかに。きっと御子さまも、元気にお生まれになりますことでしょう」
我が子に注がれるアモイの眼差しに気づいたか、ウララはそう言い添えた。それからしばし夫と娘の様子を愛おしそうに眺めた後、
「それでは、わたくしはそろそろ参りますわ」
「参る? どちらへ」
「もちろん、産屋ですわ。奥方さまの介添えに」
「いや、それは……。ウララどのに、産婆の手伝いをさせるわけには」
「そのために参ったのですもの」
おっとりとした口調ながら、ウララは決然と言い放つ。
「しかし、姫御の世話もあるのでしょう」
「ルカはいつもああして、殿に抱かれて眠ります。二人でいるのは慣れていますから、わたくしが少しばかり離れていても、大事はございませんわ。それに、乳母も連れてきておりますし」
確かにハルは、娘の扱いに慣れているようだった。父親の腕の中で、ルカは安心しきったようにとろとろとまどろんでいる。
「本当は、わたくしだけで参るつもりでしたけれど、お留守番をするのは嫌だと言って、ついてきてしまいました。今はお
ウララが少し声を低めて気遣ったのは寝入り端の娘か、それとも夫のほうか。
「ちがうよ。さびしいからじゃないよ」
珍しく会話を聞いていたらしく、ハルは口をとがらせて声をあげた。それでも腕の中の赤子は驚きもせず、たわいもなくまぶたを閉ざしたままだ。
「ややこがうまれるからだよ。それはとてもいいことだから、おいわいをしにきたんだよ。ルカもいっしょに、おいわいするんだよ。だって、そのややこはルカの、うーんと、ほら、なんだっけ?」
「
「そう、いとこなんだから、ちゃんとあいさつして、おいわいしなくちゃ」
「ええ、殿。ちゃんとお祝いをいたしましょう」
ウララはしずしずと夫のそばへにじり寄って、優しく諭す。
「けれど、もう日も暮れてしまいました。
「じゃあ、あしたにはあえる?」
「会えることを楽しみにして、今日のところはお宿へお戻りなさいませ」
「そうかぁ、あしたかぁ」
さすが扱い慣れたものだ、と感心しながらアモイは夫婦のやりとりを眺めていた。しかし、一度は納得したように見えたハルが、なかなか立ち上がろうとしない。
「やっぱり、もうすこし、ここにいるよ」
「殿。あまり
「だってアモイにいさまは、だれかいてくれたほうがいいって」
この義弟に、社交辞令は通用しない。娘とよく似た小さな目に無垢な光をたたえて、ハルは微笑んだ。
ウララは少し困ったような顔をして、アモイを見た。
「かまいません。ハルどのにはお気の済むまで、ここにいていただきましょう」
「でも……」
「ちょうどよい機会だ。先達であるハルどのに父親としての心得を伝授いただきながら、吉報を待つことにします。今の私には、他にできることはありそうもない」
アモイは立ち上がって夫妻の前に歩み寄り、床に膝をついた。ルカのあどけない寝顔が間近に見えて、自然と頬が緩む。
「ですから、ウララどの。どうか妻のことを、よろしくお願いします」
静かに頭を垂れると、ウララは少しの間の後に、かしこまりました、と答えた。
しかし彼女が部屋を出る前に、
「御嶺さま」
アモイを呼ぶ声と、廊下を慌ただしく踏む音が近づいてくる。その不穏な気配に、室内の空気が凍りついた。
「失礼いたします、御嶺さま」
戸口から姿を見せたのは、産屋に付き添った若い侍女の一人だ。ひどく青ざめている。
「どうした」
半ば腰を浮かせて急かすと、侍女は息を切らせながら、途切れ途切れに伝える。
「お産まれに……元気なお姫さまが、お産まれになりました」
「姫……」
「はい。女のお子さまでございます」
「そうか。無事に産まれたか」
だが喜びを実感するには、報告する侍女の顔色が悪すぎる。アモイは内心で半ば覚悟しながら尋ねた。
「妻の身に、何かあったか」
「……」
「申せ」
「血の止まりがお悪くて……姫さまを抱くことも叶わず、お呼びしてもお答えになりません」
アモイは瞑目し、イセホのやつれた頬や痩せ細った手首を思い出した。やはり、出産に耐えうるだけの体力が足りなかったか。
「今、産屋からお座敷へ皆でお運びするところでございます」
「わかった。すぐに行く」
では、と侍女はせわしなく告げて、もと来た廊下を足早に去っていった。
アモイが義弟夫妻を振り返って「すまないが……」と言いさしたところを、ウララが珍しく遮った。
「わたくしどものことはかまわず、早くおいでになってくださいませ」
「かたじけない」
そう言って立ち上がり、戸口へ向かおうとしたとき、「ややこが……」とハルがつぶやいた。いつものあどけなく甲高い声ではなく、あまり彼からは聞いたことのない、低くこもった声だった。
気になって足を止めると、義弟はうつむいたまま、何やらぶつぶつと独り言を言っている。上機嫌だった先ほどまでとは様子が違って、身体がこわばり、わずかに震えているようだ。腕の中の赤子が、窮屈そうに身じろぎをする。
「ややこは、くるしいね。ルカもくるしかったんだろうな。わたしも、くるしかったんだ。ずっと、ずっと、まっくらで、いきができなくて」
「殿。落ち着かれませ、どうなさったのです」
「ウララもくるしかったよね。かあさまも、くるしかったっていってたよ。くるしくて、さびしかったって。とうさまがきてくれなくて、くるしかったって。ウララはさびしくなかった? わたしもいっしょにいたかったのに、ちかづいちゃだめっていわれたんだ……」
「大丈夫、わたくしは大丈夫ですよ、殿」
「だけど、ルカがうまれたのはいいことだね。ややこがうまれるのは、いいことだよね。わたしがうまれたのも、いいことなのかな?」
何か得体の知れないものの気配に怯え、混乱しているようだ。ウララは夫の背中を優しくさすりながら、アモイを目顔で促した。
黙って頷きだけを返し、夫婦を残して急ぎ部屋を出る。──と、胸に何かが当たって跳ね返った。
見ると床の上に、女が尻餅をついている。先ほど報告に来た、若い侍女だった。
何か用があって戻ってきたのだろう、アモイを見上げて、口を大きく開いている。だが、わななく唇の間から、声は出ない。
最悪の事態が、脳裏をよぎる。
「どうした」
侍女は首を振った。ひざまずいてその肩をつかみ、揺すりながら重ねて問う。
「何があったのだ!」
「申し訳ありません」
ようやく発せられた声が告げたのは、しかし、想像とは異なる一大事だった。
「奥方さまとお姫さまが、……連れ去られました」
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