8-4
「そうさねえ、山の国で言うところの王さまだとか城主さまだとかいうのとは、一緒くたにはできやせんねえ」
相変わらずの商人訛りが、草の中から答える。
「
オクシリの住まいは、一面に広がる草原の片隅にあった。木立の間に蔓草を渡して幌をかけただけの屋根、枯れ草の束を積んだだけの壁。小屋と呼ぶのもためらわれる、ほとんど野宿と変わらないようなねぐらだった。
てっきり実家かリシリの家に厄介になるのだと思っていたが、この男はどうも寝台より
だけど土砂降りになったらどうするの、と素朴な疑問を投げかけると、水浴びするか洗濯するかですねえ、と大真面目に言う。この気候だから、多少濡れたところで風邪の心配などしなくてもよいのかもしれないが、それにしても変わり者には違いない。
「選ばれるって、誰が島長を選ぶの?」
「名指しするのは、一応、前の長ですがね。あんまり人気のない奴だと、必ずどこかから横槍が入りやすんで、まあ、島のみんなに選ばれるって言ってもいいんじゃないですか」
どうやら島長になるのには、血筋も身分も関係がないようだ。ユウには今ひとつ、その仕組みが理解できない。
「他の島も、みんなそうなの?」
「へえ、大抵、そんな感じで。もっとも、住む人の少ない島じゃ、親子や兄弟で長を引き継ぐ場合も多いようでやす」
「でも、リシリとかあんたは、島長を継ごうとは思ってないんだね」
「さあ、あっちのお医者さまは、どうだか。興味がないとか言ってても、周りにやれと言われりゃ、案外、引き受けそうな気もしやすがね。あっしのほうは、なりたくったって誰も選んじゃくれませんや」
からからと笑いながら、オクシリはねぐらから這い出してくる。今日は旅姿ではなく、島の男たちと同じように簡素な木綿の服を着ていた。顔もこざっぱりとして、若々しい壮年の風貌に様変わりしている。貝殻屋として会ったときの印象からすると少し違和感があるが、これが本来の彼なのだろう。
巣穴のような住居の外には焚き火の跡──ここがどうやら炊事場らしい──と、無造作に積まれた薪がある。ユウはその薪の上に腰かけて、オクシリが出てくるのを待っていた。正確には、彼に頼んだ作業が終わるのを。
「さぁて、こんなもんでいかがですかね」
差し出されたものを見て、わあ、と思わず声が漏れる。テシカガの鞘だった。ただし岩浜で見つけたときのような、錆だらけの黒い筒ではない。砂粒が丁寧に除かれ、金属の部分は磨き上げられて光沢を取り戻し、細工の美しさがいっそう際立っている。くすんでいた胴体の色も、泥や血糊が落とされて、本来の色味がよみがえっていた。
「しかし、
「剣はないんだ。戦の最中に折れたか、なくしちゃったかして、それでたぶん、この鞘で身を守ろうとして」
汚れが落ちると、鞘の表面に刻まれた無数の傷がかえって浮き立って見える。その凹みを指の腹でなぞりながら、ユウはテシカガの白くて細い腕を思い起こした。
「だからこの鞘だけは、何があっても、絶対に持って帰らなくちゃいけないんだ」
「ははあ。それで、そんなに大事にされてるんで」
「ほんとに、ありがとう。何か、お礼をするよ」
「いやいや、かまいやせんとも。どうせ、この島にいる間は暇なんでね」
その言葉のとおり、オクシリは帰郷してから毎日、これと言って何をするでもなく過ごしている。ふらふらと浜辺を歩いたり、昼寝をしたり。そこへ時々、サンルや他の子どもたちが握り飯やおやつなどを持ってきて、海の向こうの話をせがむのだった。
しかし今、草原には小鳥のさえずりや葉擦れの音ばかりが満ちて、子どもたちの騒がしい声は聞こえてこない。それもそのはずで、今日は島武術の稽古のある日だ。もう太陽は高く昇り、皆は砂浜に集まっている頃合いだった。
体調が優れないからと、ユウは朝のうちにリシリに断りを入れておいた。これはまんざら嘘でもない。下腹部の鈍痛と倦怠感──いわゆる月の障りがあって、運動をする気にはなれなかったのだ。
初潮を迎えたのは、島に来てまだ日の浅いころだった。最初は自分の身に何が起こったのか理解できず、もしや疫病にでもかかったのではないかとひどく狼狽したものだ。もっともそのときは、リシリがいかにも医者らしい目ざとさで、少女の顔色の悪いのにすぐ気づいてくれた。病気どころか健康に成長している証だと言われ──島では祝いの席まで設ける習わしがあるらしいが、それは頑なに拒否した──診療所の手伝いをしている近所の娘から始末のしかたを教わった。
今回でもう四度目となり、いくらかは慣れてきて、町外れの草原まで歩いてくるぐらいなら何でもない。オクシリは少女が一人でやってきても、咎めもしなければ理由をただしもしなかった。
「ねえ、訊いていい?」
ユウは鞘を丁寧に麻布で包み直してから、オクシリに言った。
「へえ。何でございやしょ」
「アンシャペの送り返しのことなんだけど……本当は精霊の仕業じゃないって話」
「ああ、あのおしゃべり小僧に聞いたんですかい。確かに、いつだったか、そんな話をしやしたね」
「本当なの。海流が、海に落としたものを浜に運んでくるって」
「このあたりは、海底の地形が複雑でしてね。おかげで潮の流れもいろいろで、陸へ向かっていくのもあれば、離れてくのもあるし、岸に沿って廻る流れもありやす。そのうちのどの流れに乗るかで、返ってくるかどうかも変わるってわけで」
「たとえばだけど、同じ時に同じ場所で落としたものは、その、同じ流れに乗って運ばれてくるものなのかな?」
「重さや形によって、流れに乗りやすいのもありゃ乗りにくいのもあるんで、必ずとは言えやせんが。まあ、見込みはあるんじゃないですかねえ」
それなら、テシカガの鞘と同時に失われたマツバ姫の剣も、同じ海流に乗って戻ってくるかもしれない。気まぐれな海の精霊に祈るより、よほど希望の持てそうな心地がして、いくらか気分が軽くなった。
ユウは鞘を入れてきた手提げ袋の中を探って、大きな夏蜜柑を取り出した。診療所の掃除を手伝ったとき、待合室にいた老人が駄賃代わりにくれたのを、残しておいたのだった。清々しい香りのする果実を男に差し出し、試みに尋ねてみる。
「あたしの全財産なんだけど。これと交換できる貝殻、あるかな」
かつてマツバ姫が貝殻一つに大金を支払うのを見ているので、まさか本当に買えるとも思っていなかったが、オクシリは意外にもあっさりと蜜柑を受け取った。
「ちょいとお待ちくだせえよ」
唇を横に広げてにかっと笑うと、すぐに住処の中から、古びた引き出し付きの木箱を持ってきた。
いつか
「ほら、この
「そっちの引き出しに入ってるのは?」
「こいつはものあら貝。こっちのは
オクシリはあえて小ぶりで地味な色味のものばかりを指さし、ひととおり箱の中を見せた後に、
「山峡で採れたものってえと、大体それぐらいですかねえ」
遠い故国で拾われてきたという田螺を指先で摘み上げ、手のひらの上に転がしてみる。この島の海岸で見かける華やかな色の貝殻に比べて、何とみすぼらしい造形だろう。しかし少女には、そのちっぽけな黒い抜け殻が不思議と愛おしく感じられた。
「そちらでよろしゅうございやすか?」
「うん。糸をつけてくれる?」
「お安い御用でさ」
いつかの
「この貝を拾ったころは、まだ山に雪が残っていやしたねえ」
貝殻屋の手元で、鋏がぱちりと鳴る。
「祝いの市が立って、
「祝い?」
「へえ、
「ちょ、ちょっと、待って」
御嶺の君、その奥方、というのが誰を指しているのか、そしてゴカイニンという言葉の意味に思い当たるまで、時間がかかる。ようやく思い当たっても、混乱はさらに深まるばかりだった。
──アモイの妻が、懐妊した?
そんなことがあるはずがない。アモイの妻とは、マツバ姫のことではないか。彼女は今、この島にいるというのに。
「さあ、できやした。いかがです、糸の長さはこんなもんでよろしゅうございやすか?」
「何かの間違いでしょ」
「へえ?」
「子どもが生まれるなんて……そんなこと」
「美浜国の衆も、そんな反応でしたねえ。深山の姫君は、地震のときに火事で死んだはずだ、公子クドオがはっきりそう言ったって。まあ、戦で揉めた国同士ってのは、大抵、話が食い違うもんですけどね」
「……」
「山峡の衆の言うには、姫君は戦の間、ずっと西の城で護りを固めてたと。そんでもって、見事に敵軍を追い返して帰った夫君を、東の城へ出迎えに行ったとか。大勢の兵士がその姿を見たってんだから、こっちの話が本当なんじゃないですかね」
「本当って……」
「おや、いかがしやした、嬢? 顔色がお悪いようで」
「本当のことなんて、わかるはずない」
たまらずにユウは立ち上がり、手提げ袋をつかんで草原を走りだした。
「嬢、忘れ物っ」
後ろでオクシリが叫んだが、振り返る気になれなかった。
固い茎が足の裏に突き刺さり、葉先がふくらはぎを傷つける。布草履がいつの間にか脱げて、裸足になっていた。でたらめに獣道をかき分けていくうちに町が近づいてきたので、ほとんど無意識に方向を変え、海へ向かう。
何もかも間違っている、と思った。
国のために命を危険にさらし、死地をどうにか生き延びたマツバ姫は今、この島で謎の病にかかっている。
それなのに祖国では、彼女の名を騙る別人が──たぶんイセホだろう──アモイとの間に子をもうけ、人々はそれを喜び浮かれているという。
そんなことがあっていいのだろうか?
いつしかユウは、波の打ちつける岩の上に立っていた。テシカガの鞘が見つかった、あの浜辺だ。
目の前に、青い海が広がっている。空は澄み渡り、やはりどこまでも青い。その青と青の狭間に、おぼろげに陸地の影が見える。
それらすべてが涙ににじむ。叫びだしたい気分だった。マツバ姫の魂であったはずの愛剣。美しい髪、鋭い眼差し、魅力的な笑み。そして不動のはずだった居場所。主人の大切なものを根こそぎ奪っていった何者かが、呪わしくてしかたがない。
海の精霊の笑い声が、海底から聞こえてくる気がした。やはり自然現象などではない。忌ま忌ましいアンシャペを、ユウは知りうるかぎりの言葉で罵った。
すると急に、下腹部を締めつけるような痛みに襲われた。耐えかねて、湿った岩場にしゃがみこむ。汗と涙が頬を伝って、はたはたと顎から落ちる。
「……たい」
痛い、と言っているつもりで、別の言葉を吐いていた。
「帰りたい」
島に来てから、口に出したことはなかった。自分のいるべきところは、マツバ姫のいるところ。姫が山にいるなら山、島にいるなら島が、自分の故郷だ。そう思っていた。
しかし、今は。
「帰りたい。帰りたい。帰りたい……」
どれだけの間、繰り返していただろう。いつしか空はかき曇り、激しい雨が降りだしていた。
南の島に特有のにわか雨。その轟音のせいで、すぐ後ろで人の気配がするのに、しばらくは気づかなかった。
貝殻屋が追ってきたのだろうかと、手の甲で目をこすって振り返る。しかしそこに立っていたのは、ほかならぬマツバ姫だった。島武術の稽古を抜けてきたのだろうか、胴着がびっしょりと雨に濡れている。
「マツバさま」
呼んでみたものの、それ以上、何を言ってよいかわからない。そもそもこの雨音の中で、相手に声が届いているのかどうかも怪しかった。
姫もまた無言のまま立ち尽くし、少女をじっと見下ろしている。
そうしているうちに早くも雨は上がり、嘘のように眩しい陽射しが降り注いだ。姫の耳朶から滴る水が反射して、まるで耳飾りのようだったが、もちろんあの銀の耳環はここにはない。
「帰りたい、と……」
やがて、姫がゆっくりと口を開いた。
「想うか、ユウ」
「え?」
「帰りたいと、想うか」
ユウはしばらく迷ってから、祈るような気持ちで訊き返した。
「マツバさまは、帰りたいと、思わないのですか」
「想わぬ」
どうして、という問いは声にならない。少女は口を開いたまま、マツバ姫の顔を見上げることしかできなかった。
姫はおもむろに足を踏み出し、ユウの横を通り過ぎて、水際へと歩み寄る。沖のほうは相変わらず晴れわたっていて、魚の群れでもいるのか、白い海鳥が海面近くを飛び回っているのが見えた。
「かつてわたしは、常に何かを想うていた。国のこと、民のこと、城のこと、家中の者のこと、あるいは敵のこと。無論、わたし自身のことも。一日のうちに、何かを想わぬ時など片時もなかった。だが今は、何も想わぬ。帰りたいとも、帰りたくないとも」
海原を望む長身の後ろ姿も、穏やかに沈んだ声も、姫のものであり、姫のものではなかった。彼女の身体の芯にあったはずの何かが、どこかへ消えてしまったかのような空虚感。まるで刃と離れてしまった空鞘のような。あるいは、貝殻のような。
「想わぬ者は、想う者には勝てぬ」
二人の頭上を、いくつかの鳥影が飛び過ぎていく。わずかに遅れて、海鳥たちの甲高い鳴き声が辺りに響きわたった。
そう言えば、この島に来てから、鷹を見ていない。
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