8-3

 懐めがけて差しこまれてくる手刀を紙一重でかわし、かわしたままの流れで間合いを詰める。突き出した拳は、相手の耳の横をかすめて空を切った。

 次の瞬間には、反射的に左肘を張って、相手からの攻撃を防いでいる。受けたその手をたたき落とし、背後に回りこもうとするが、向こうの動きのほうがわずかに早い。素早く一歩退き、間髪を入れずに跳躍する。砂が舞い、視界が煙る。

 横ざまに跳びすさり、頭上からの一撃は回避した。しかし勢い余って砂溜まりに滑りこみ、体勢を崩してしまう。その一瞬の隙が命取りとなるのは、剣術も島武術も変わらない。

 砂の沼に膝までを沈めた姿勢で、動きを止める。勝負あり、だ。

 敗れたマツバ姫が、砂煙の下から勝者の顔を見上げる。リシリは構えを解くと、白い歯を見せて彼女に手を差しのべた。

 木陰に座って勝負を見守っていた子どもたちが、歓声をあげて拍手をする。すごい、すごいとはやしたてているのは、勝利したリシリに対してではない。彼は師範なのだから、勝って当たり前だ。

「習い始めたばかりなんて、とても信じられないな。うちの父ちゃんと、あれだけまともにやり合えるなんて、島中を探したってそうそういないよ。普通は、型を覚えるだけで何か月もかかるってのにさ」

 サンルが隣で興奮してまくしたてるのを、ユウは無視する。代わりに、リシリの手を取って立ち上がる主人の様子を、瞬きもせずに見つめていた。二人の影は砂の上で一瞬だけ重なって、またすぐに離れる。

 マツバ姫とユウが島武術を習い始めたのは、半月ほど前のこと。アンシャペへのお礼参りをした後、この砂浜で稽古を見学したときに、サンルに強く勧誘されたのだ。習っているのは子どもたちばかりではあるが、ほとんど大人と体格の変わらない少年もいれば、ユウよりも小さな女の子もいる。二人が加わっても誰も不審に思わない、むしろ仲間が増えるのを皆が歓迎すると言うのだった。

 姫は乗り気というわけではなさそうだったが、「いい気晴らしになるかもしれない」とリシリも言いだし、半ば押しきられるようにして借り物の胴着に袖を通した。主人がやるとなれば、もちろん少女もやらない法はない。

 半年も怠けている間にすっかり体がなまってしまった、と本人は言うが、こうして見れば、やはりマツバ姫の上達ぶりは尋常ではなかった。ちなみにユウは、まだ基本の型を覚えるのに苦労している段階だ。

「ほら、やっぱり、試しにやってみてよかったじゃんか。顔色も前よりよくなったみたいだし。ねえちゃん、絶対向いてるよ、島武術」

 冗談じゃない、とユウは口の中でつぶやいた。マツバ姫が床を出て体を動かし始めたことは、もちろん喜ばしい。剣だけでなく馬も弓も何でもできる彼女だから、この独特の型を持つ伝統武術でも筋がよいというのは、少年の言うとおりだろう。けれど。

「あんなもんじゃないんだ」

「ん?」

「本当のマツバさまの強さは、あんなもんじゃない」

 たとえ素手だって、負けるはずがない。立ち上がるのに、男の手を借りる必要などない。ユウの知っているウリュウ・マツバであったなら。

──きっと、あの剣がないせいだ。

 恨めしい気持ちで海を見やる。青空を映す海面はあくまで青く、その上を白い海鳥がのんきに飛び回っていた。

「だとしてもさ」

 横からサンルの声がする。

「もしもねえちゃんが昔と違っちゃってるとしても、それはユウのせいじゃないよ」

「……え?」

「だって、ねえちゃんは病気なんだから」

 ユウはぎょっとして少年の顔を見る。病気、という言葉をしばらく反芻して、恐る恐る訊き返した。

「病気って、何の」

「何のって。名前は知らないけど。ここんとこが病気なんだよ」

 少年は、自分の胸の真ん中あたりを拳でたたいてみせる。

 その意味するところを、ユウははっきりとは理解できない。ただ、人が生きていくために大事な部分を指しているということだけが推し量られて、不安が募った。

 もしも胸の病を抱えているのだとしたら、あんなふうに、激しい運動をして大丈夫なのか。薬を飲んで、安静にしていなければならないのではないだろうか。

「うーんと、薬とかは効かないんだよ。ちゃんと飯を食って、ああやって運動したりして、たくさん寝て、とにかくのんびり暮らすのが一番いいんだって」

 口ぶりからすると、サンルも父親の受け売りで話しているだけで、詳しく知っているわけではないようだ。

「長い間、ずっと苦労してきた人とか、ひどくつらい出来事のあった後なんかに、かかる病気だからさ。そういうのみんな忘れて、気を楽にするのが大事なんだって」

「そうしてたら、治るの」

「ん?」

「病気なら、いつかは治るよね。元のマツバさまに戻るんだよね」

「さあ、どうかなあ」

「だって、リシリは医者でしょ」

「医者だからって、何でも治せるってわけじゃないもんなあ。うちの母ちゃんだって、結局、治らないで死んじゃったし」

 死、という言葉に、また少女はすくんでしまう。少年の母親が、彼の生まれて間もないころに病死したという話はすでに知っていた。まずいことを聞いたかと少し後悔し、同時に、相手の不吉な発言を腹立たしくも思う。

 当のサンルは亡母を想う気配も姫を気遣う様子もなく、ただの世間話のようにあっけらかんとしていた。

「いいじゃん、別に、今のままでも。ねえちゃんはねえちゃんなんだし」

「いいわけない」

「何でさ?」

「何でって……」

「前がどうだったのか、おいら知らないけどさ。今のねえちゃんだって、悪くないと思うな」

 ユウは絶句して、答えるのをあきらめた。この少年には、話してもどうせわからない。憮然として顔を背けると、まだリシリと何か話しているマツバ姫の姿が視界に入る。それでもっと遠くへ、青海原へと目を向けた。

 白い波、白い鳥。そのほかに、先ほどまでは気づかなかった黒い点のようなものが海面に浮かんでいるのが見えた。

 何かと思って目を凝らす間もなく、隣のサンルが立ち上がる気配がする。

「父ちゃん! みんな!」

 少年は大声で叫んで、指先を海へ向けた。

「帰ってきた!」

 次の瞬間には、木陰の子どもたちが一斉に砂を蹴り上げ、走りだしていた。サンルもユウに「来いよ」と促し、波打ち際のほうへ向かう。リシリと姫も同じ方向へ歩き始めたので、少女もしかたなく立ち上がった。

 浜辺に並んだ稽古着姿の子どもたちが、口々にわめきながら手を振る。その先には、一艘の小舟が浮かんでいた。ボロ切れのような小さな帆に風を受け、見る見るうちに近づいてくる。乗っているのは、薄汚れた服を着て、つばの大きな帽子をかぶった男が一人。

 浅瀬までやってくると、男は軽やかに舟縁から海へ飛びこんだ。すると子どもたちも飛沫を立てて波の中へ踏み入り、一緒になって舟を浜へ引き揚げる。リシリは腕を組み、にこやかな表情でその様子を見守っていた。

「オクシリ、お帰り」

「オクシリ、荷物降ろすの手伝おうか?」

「オクシリ、今度はどれぐらいいるの?」

 子どもたちが口々に話しかけるのを適当にあしらいながら、男は大きな荷を背に担いで砂の上を歩み寄ってきた。

「やあ、リシリ。わざわざお出迎えかい」

「いつ帰ってくるかもわからないのに、迎えに出られるわけがないよ。ちょうど、稽古中だったんだ」

「わかってるさ、冗談だよ。しばらくぶりだな」

「ああ、おまえも元気そうでよかった」

 サンルの叔父、リシリの弟。しかしどちらにも、あまり似ていないようだ。眉が薄く、一重まぶたで、どこかとらえどころのない顔つきをしている。若いような、年寄りのような。

 だけど、どこかで見覚えがある。ユウが首を傾げたとき、オクシリは兄の隣に立つマツバ姫に初めて目を向けた。

「おや、これは。またお会いできやしたねえ。ご無事で何よりでやす」

 その独特の口調に、あっと思い当たる。貝殻屋だ。会うのは三度目だというのに、なぜだか見た目では気づかなかった。不思議と影の薄い男だ。

「その節は世話になったな」

 マツバ姫が答えながら、ユウの肩に手を伸ばす。

「そなたの助けがなければ、今ごろは我ら二人とも、この世にはおらなんだ。心から礼を言う」

「へへ、あっしは商いをしただけで……。坊、しばらく見ないうちに大きくなりやしたね。いや、嬢、と呼んだほうがいいのかな」

 冗談めかしてそう言うと、貝殻屋は首に巻いた手ぬぐいで額の汗をふいた。

「何だ、オクシリ。もう知り合いだったのかぁ」

 父親と叔父の間で目を丸くしていたサンルが、隙をついて割りこんでくる。

「それにしても何なのさオクシリ、そのしゃべりかた」

「ところ変われば品変わる、相手が違えば話しかたも違うものさ」

「ふうん、変なの」

 周りの子どもたちは皆、釈然としないような顔をした。しかしもともと変わり者だという了解があるせいか、誰もそれ以上は追及しようとしなかった。

「とにかく、さっさと荷物を片づけて、親父に顔を見せてくるといい」

 リシリは弟にそう促し、

「さて、こうなると、今夜は島長しまおさの家で酒盛りだ。いろいろと準備もあるから、稽古はここまでにしよう」

 と、皆に告げた。子どもたちはその言葉を予期していたらしく、声をそろえて挨拶をし、それぞれの家路へ散っていった。

 サンルはその場に残ったので、ユウは小声で尋ねてみる。

「オクシリが来ると、島長が酒盛りをするの?」

「そりゃそうだよ。普段は放蕩息子だ何だってぼやいてるけど、実の息子だからさ。久しぶりに帰ってきたら、やっぱり喜ぶよ」

「実の息子?」

「言ってなかったっけ。島長って、うちの祖父じいちゃんなんだよ」

「え、じゃあ……」

 リシリとオクシリが島長の息子たちだということを、このときユウは初めて知った。

 しかし島長というのは、この島で一番偉い、王さまのようなものだろう。その息子が医者や行商人をしているというのは、どういうことなのか。ユウには不思議でならなかったが、少年は特に疑問を感じていないらしい。どうやら群島国むらしまのくに山峡国やまかいくにとでは、気候以外にもいろいろな違いがあるようだった。

「サンル、ひとっ走りして、祖父ちゃんに伝えておいで。これから、オクシリが行くからって」

「うん、わかった!」

 父親に二つ返事で答え、サンルは全速力で駆け去っていく。あっという間に小さくなっていく後ろ姿を、大人三人は目を細めて見送っていた。

「じゃあ、荷物を置いてくる。また後でな」

 オクシリは兄にそう言ってから、姫とユウに向き直り、

「あっしはこれで失礼しやす。旦那、またいい貝殻を仕入れてきやしたんで、もしお入り用ならお声かけくだせえ」

 貝殻屋の顔に戻って、ひょいと頭を下げた。

 ユウのことは坊から嬢と言い替えたが、マツバ姫のことは相変わらず旦那と呼ぶ。しかも、今は男装をしていないのに。そのことに、なぜだか少し安心した。

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