第8章 凪

8-1

 目を覚ますと、そこはまったく覚えのない場所だった。

 梁の剥き出しになった天井。丸木で組まれた壁。格子も何もない筒抜けの窓には簾がかかり、生温い風が舞いこんでいた。

 そしてどこからか、にぎやかな話し声。しかしなぜか、その言葉が一つも聞き取れなかった。

 ユウは寝台の上に身を起こし、自分の身体をあらためた。大きな布袋に首や腕を出す穴を開けたような、ひどく簡素な服を着せられていた。帯もなく袴も穿いていなかった。

 頭がぐらぐらして、吐きそうだった。体中が焼けつくように痛く、目や鼻や喉の奥に棘でも触れているかのようだった。

 何があったのか。ここはどこなのか。いや、そんなことより。

──マツバさまは。

 寝台から下りて素足でそろそろと床を踏み、部屋の出口のほうへ歩いていった。扉がなく、暖簾が掛かっているだけの戸口の向こうに、人の気配があった。こっそりのぞいて、様子をうかがうつもりだった。

 ところが折も折、暖簾をくぐって一人の男が顔を出し、真正面から鉢合わせしてしまった。

 小柄ながら、がっしりとした体格の色黒な男だった。少女の身体は総毛立ち、弾け飛ぶような勢いで寝台の後ろへと逃げた。男が何か言ったようだが、獣の声のようにしか聞こえなかった。歩み寄ってこようとするので、枕を投げて威嚇した。

 すると隣の部屋から、さらに何人もぞろぞろとやってきた。こちらを指さして口々に何かしゃべっているが、どの顔も残忍な嘲笑を浮かべている──そのときは、そうとしか見えなかった。

 思い起こせば、ユウという名で呼ばれるようになる前は、いつもそうだった。野良猫のように泥水を飲んで生きる孤児にとって、この世のすべては自分の敵か、自分とは無関係なもののどちらかしかない。見知らぬ場所で目覚めて見知らぬ人々に囲まれた少女の心は、瞬時にしてマツバ姫と出会う以前に逆戻りしてしまったのだった。

 幸いなことに、その状態は長くは続かなかった。最初に部屋へ入ってきた男が他の者に何事か指示すると、そのうちの二人ほどが奥へ引っこんで、もう一人、別の人物を連れてきたのだ。

 頭に包帯を巻き、木綿の寝間着のようなものを着て、呼びに行った二人に両脇を支えられながらやってきた彼女に、目を奪われた。

 ユウ、という懐かしい声が、耳だけでなく全身に染みわたる。

 少女は寝台の陰から飛び出し、主人の細い腰に組みついて、ひとしきり泣いた。その間、マツバ姫は何も言わず、優しく背中をさすってくれていたのだった。

──あれから、もう、半年近くも過ぎてしまった。

 白波が浜を滑り、足裏の砂を削いでいく。土踏まずをなめられるような感触に、ユウは思わず踵を浮かせた。

 春の海は穏やかだった。沖のほうはぼんやりと霞んで、水平線に浮かんでいるはずの大陸の影も今日は見えない。見えるのは青い海と白い波と、水面からぽつりぽつりと顔を出している黒い岩肌ばかりだ。

 海風になびく衣の裾を膝のあたりで摘み上げて、ユウは波打ち際を歩いていた。この地の人々が着る衣服は、どれも袋のような大ざっぱな作りをしている。上衣うえぎぬがふくらはぎまで届くほど長く、代わりに袴をつけないので、下半身がどうにも心もとない。腰には帯ではなく細い紐を巻くのだが、それもあまり締めつけずに、ゆったりと結わえるのが普通なのだった。

 もっともこの風通しのよい形状が、温暖な当地の気候に適しているのは認めるしかなかった。何しろ冬の間に一度も雪が降らなかったし、春は春で汗ばむような陽気だ。これから夏になったらどうなるのか、見当もつかない。

 南の島だからしかたがない、とユウは思った。仕組みはわからないが、北よりも南のほうが暖かいということは何となく知っている。山峡国やまかいのくにより南にある美浜国みはまのくにの秋もやはり暖かかったが、ここはもっと南にあるという話だから、きっと経験のないような暑さになるのだろう。

 群島国むらしまのくに──という名は、どこかで聞いたことがあったように思う。しかし海すら知らないのに、海の向こうに浮かぶ島々が寄り集まってできた国など想像しようもなかった。

 まさか自分が、その島国に行き着くことになるとは。今でもまだ、実感が湧いてこない。もしかして、夢なのではないだろうか。今ここにいること、美浜の都でのこと、ヒダカと共に盆地を飛び出してきたこと。戦も、姫とアモイの結婚も、この三年に起こったことの何もかもが夢、だったらいいのに。

 しかし残念ながら、ユウはすでにこの島へたどり着いた現実の経緯を思い出してしまっている。川辺を遡って北湖きたうみへ向かう道が閉ざされてしまった逃亡者に、貝殻屋が教えてくれたもう一つの逃げ道。それは、計画とは反対に、川を下って海へ出るというものだった。

 彼は二人を上流の石切場まで案内した。そこには、切り出した石材を運ぶのに使う小舟が係留されていた。二人は舟底に伏せてむしろをかぶり、川の流れに身を任せた。地震の影響か山頂で雨でも降ったのか、濁流は轟々と勢いよく音を立て、瞬く間に孤蓬を下流へと運んでいった。

 海へ出るまでは順調だった。まさか追っ手も、山峡の人質が海を目指すとは思っていなかったのだろう。川はいくつかの集落のそばを通ったが、住民たちもまだ地震後の混乱状態にあり、流木に紛れて川面を下っていく小舟を見咎める者はなかった。

 問題は、潮に引き出されるように河口から海原へ出てからだった。舟に乗る前に、貝殻屋から向かうべき方角や目印となる地形を教わっていたが、波が荒くてとても思いどおりの方向へは進めなかった。さすがのマツバ姫も櫂の操縦は不慣れで、まして初めての海。他に道がなかったとは言え、随分と無謀な冒険をしたものだった。

 だから、命が助かっただけでも幸運だったと、そう思うべきなのだろう。けれど……。

 ユウは砂浜に屈みこんで、膝の間に顔をうずめた。恐怖と後悔と自責の念が、波のように繰り返し寄せてくる。命よりも大切なものを失って生き延びて、どうして幸運などと思えるだろう。

 ついに海上で日暮れを迎えようとしていたあのとき、ユウはついに舟酔いを抑えきれなくなった。舟縁から身を乗り出して、空っぽの胃からせり上がってくる酸っぱい液体を海へ吐き落とそうとしたのだ。すると次の瞬間、波にあおられた舟が斜めに大きく傾いた。

 ユウは頭から海面に落ち──おそらくその反動で小舟が転覆して──マツバ姫までも水中に身を投じる羽目になった。姫は波間にもがく少女のもとまで泳いできて、裏返った舟の縁をつかませ、身体を押し上げてくれた。おかげで空気が吸えるようにはなったものの、それ以上のことは何もできなかった。二人はそのまま、闇の中を漂流するしかなかったのだ。

 その先は、後で聞いた話だ。夜明け前、この島の漁師が、岩場に引っかかった小舟を発見した。ユウは完全に気を失っていて、マツバ姫も意識が朦朧とした状態だったようだ。すぐに医者のもとに運ばれて介抱され、姫は翌日に、少女は三日後に目を覚ました。つまり、あの寝台しかない素朴な部屋は診療所の一室で、暖簾の向こうから現れた小柄な男は島で唯一の医者だったというわけだ。

 島の人々は親切だった。聞き取れないと思っていた会話も、よくよく耳を傾ければ、ただ訛がきついだけで大半は知っている言葉だった。

 そこでユウは、目覚めたときからずっと気になっていたことを訊いてみた。自分たちが身につけていたはずの持ち物は、どこにあるのかと。

 答えは、想像していた中で最悪のものだった。二人が発見された時点で、所持品は一切、見当たらなかったというのだ。念のため、岩場の周辺を皆で見回ってくれたが、収穫はなかった。おそらくは漂流する前、海に投げ出されたときに、海底へ沈んでしまったのだろうと言われた。

 ユウが預かっていた、テシカガの形見の空鞘も。

 そして、マツバ姫が腰に帯びていた、あの紅の剣も──。

「あたしのせいだ」

 波の音に紛らわせて独りごちる。塩辛い匂いに、鼻の奥が痛んだ。

 と、そのとき、

「おい。おいってば!」

「うわっ」

 いきなり背中をたたかれ、ユウは体勢を崩して砂に手をついた。

「何遍も呼んでんだから、返事しろよぅ」

 振り返ると、日に焼けた少年の笑顔が間近にあった。円い眉に二重まぶた、あどけなさを残した頬。前髪が短いのに後ろ髪だけ伸ばして結った妙な髪型は、島の子どもの伝統だという。諸肌を脱いで、上半身を露わにするのも習わしらしく、ほとんどの男の子が真冬以外をその格好で過ごすのだった。

「サンル……」

 居候している医者の家の息子だった。身長は自分よりいくらか大きいが、おそらく年下だろうとユウは見ている。

「何だぁ、また泣いてたのか?」

「泣いてない」

「目が真っ赤」

「何の用?」

 不機嫌なのを隠そうともせずに、ユウは少年をにらみつけた。

「いいもの見せてやるから、ついてこいよ」

「嫌だ」

「何でだよ」

「どうせまたヤドカリとか、そんなんでしょ。興味ない」

「違うよ。絶対、見ないと後悔するって。いいから、ほら、こっち」

 サンルは返事も待たず、砂浜を駆けだした。幼児のうちから浜で遊んでいるだけあって足腰が強く、あっという間に岩場のほうへ遠ざかっていく。ユウはしかたなく、砂に足を取られながら後を追った。

 岬の手前にある岩場へよじ登ると、引き潮の後に取り残された海水があちこちの窪みに溜まって、小指ほどの大きさの魚や海老が跳ねていた。サンルはというと、岩の間に走った大きな溝の傍らに這いつくばって、隙間をのぞきこんでいる。

「ほら、あれ。見える? あそこの陰んとこ」

「何? どこ?」

「奥だよ、ほら、そこの出っ張りの下……」

 少年の指さす先の暗がりに目を凝らす。なるほど、右手から張り出している岩があり、その下はやや広い洞になっているようだ。影が濃くてはっきりとは見えないが、虫のような貝のようなものがびっしりと縁に貼りついている。おそらく満潮時には、底のほうから海水がせり上がってくるのだろう。

 その洞の真ん中を横切るように、引っ掛かっている細長いものが見える。木の枝かと思ったが、それにしては不自然にまっすぐだ。

 ユウは少年を押しのけて溝に手を差し入れ、顔を岩肌に貼りつけて懸命に腕を伸ばした。しかし見た目よりも奥にあるらしく、かすりもしなかった。

 するとサンルがどこからか、鉤状に曲がった木の棒を拾ってきた。それを手の代わりに差しこんでみると、今度はどうにか届いたが、岩の出っ張りが邪魔で思うように引き寄せられない。それから随分と長い間、岩の上に居すわって、子ども二人で四苦八苦した。

「届いたっ……」

 ようやく指先が、冷たい金属の先端をとらえた。落とさないよう慎重に、溝の中から引き上げる。そしてついに、黒っぽい色をした筒状のものが日の光の下に姿を現した。

 金属の部分に錆が浮いている。彫刻の目に砂が詰まっている。木部は傷み、藻に覆われている。ひっくり返すと、中に溜まっていた海水やら小さな生き物やらが岩の上に落ちてきた。

 それでも、間違いない。

「どう。おまえの探してたやつ? 違う?」

 サンルが目を輝かせて尋ねてくる。声が出なくて、ただ首を縦横に振った。

「どっちなんだよ?」

 ユウはその空鞘を裾で拭い、胸に抱きしめると、少年をその場に残して一目散に走りだした。

 一刻も早くマツバ姫に見せなければ、と、少女は思う。

 そうすればきっと、本来の彼女に戻ってくれるはずだ、と。

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