第2話 魔女の病



「――……はァ」


 深く、ため息をつく。

 憂鬱だ。

 すごく、すごく、憂鬱だ。


「……行きたくない」


 呻く。

 行かないわけにはいかないとわかっている。

 でも、行きたくないものは行きたくない。

 出来ることなら仮病を使ってしまいたい。

 否、すでに仮病は使ったのだった。

 仮病を使った数は実に三回。

 具合が悪くて、と誤魔化し続けたものの、さすがに限界だろう。

 森の番人である『魔女』が病に伏している、なんて情報がアセルリアの王都にまで伝わってしまったのなら、いろいろと面倒なことになる。

 だから、そろそろ仮病はダメだ。


「まだ諦めてないの?」

「うるさい」


 唇を尖らせた私に、背後で私の髪を櫛で梳く男が面白そうに笑う。

 日に焼けた褐色の肌に黒い髪。

 一目でこの辺りの者ではないとわかる男だ。

 

 なんでも先代の『魔女』であり、私の養母でもあるシンディアの古い知己であるらしく、義母が亡くなった後もこうして私を訪ねてきては世話を焼いてくれる。

 

 今も、せっかくの顔合わせなんだから少しぐらいお洒落したら、と余計なお世話――げふごふん――もとい、親切をしてくれているのだ。


 男の無骨な太い指先が、器用に私の髪を結いあげていく。

 色素を持たない限りなく白に近い銀の髪は、彼の褐色の指先との色の対比が鮮やかだ。

 目の前に据えた鏡には、半眼でこちらを見つめる紅い眼差しが映っている。


 ため息を、もう一つ。


 一般的なこの地方の民は、白い肌に茶系の髪を持って生まれてくる。

 一定の割合で金髪ブロンド黒髪ブルネット赤髪ジンジャーなど、さまざまな髪色の人間がいるが、私のような銀髪はとても珍しい。


 さらに言うなら、私の目は赤い。


 まるで、血の色を透かしたかのような色合いをしている。

 肌は幽鬼のように青ざめて白く、髪もまた生まれながらにして老婆のように白く、極め付けがこの赤い眼だ。

 

 白い雪のような銀髪、の人間なら他にもいる。

 北のレートレス地方の辺りでは珍しくないという話を聞いたことがある。

 かの地方の人々は白い肌に薄い翠や蒼の瞳に銀髪の髪を持つ者が多いのだと言う。

 柘榴石のように鮮やかな瞳を持つ人間なら、他にもいる。

 南のサシャグ地方の辺りでは珍しくないのだという話をやはり聞いたことがある。

 そちらには日に焼けた滑らかな褐色肌に、赤やオレンジの瞳を持つ人々が多く暮らしているのだという。

 

 だが、その両方を持つ者は珍しい。

 しかも私はレートレスにもサシャグにも所以を持たない生粋のアセルリア人だ。

 

 よって、私は生まれてすぐに森に捨てられた。

 もしかしたら母は、犯してもいない不貞の罪を咎められたのかもしれないし、もしかするとそれを恐れて私を手放すことを決めたかもしれなかった。

 

 とはいえ、養護院やら教会やら他にも選択肢があったにも関わらず、獣の跋扈する『森』に捨てたあたり、この子を生かしておくわけにはいかない、という殺意の高さが伺える。つらい。

 

 が、幸いなことに――両親にとっては残念ながら――私は生き延びた。

 『森』を守る『魔女』、先代のシンディアが私を拾い、世話をしてくれたのだ。

 

 シンディアは私を大事に慈しみ、育ててくれた。

 養母が『魔女』だったからといって、私まで森に住まなくても良いとも言ってくれた。

 後を継ぐ必要などないのだと。

 けれど私は養母のことを尊敬していたし――…何より森の外には私の居場所などないのだということをとてもよく知っていた。

 

 だから、私は『魔女』を継いだ。

 

 『魔女』として森に生きることを選んだ。

 その選択を、私は悔やんではいない。

 ただ、問題があるというのなら。

 

 ―――『魔女』には『騎士』がつきものだ。

 

「………………」


 鏡に映った顔色のよくない女が、ますます陰鬱な顔をする。

 

 『騎士』というのは正式名称は『森の騎士』という。

 本来の王に仕え、国を守護する騎士とは異なり、『魔女』の元で『森』と〝ひと”の境界を守るために武力を行使するものの総称だ。


 『森』はテッシウス大陸の中でほとんど唯一といって良い不可侵領域だ。

 〝ひと”の立ち入りを禁止するものではないものの、基本的に『森』における経済活動は許されていない。

 そんな『森』と“ひと”との境界を守るためにいるのが『魔女』なのだが―――こちとらかよわい女である。

 密猟者の類に一人で立ち向かえと言われてもなかなかに難しいものがある。

 よって、『森』に隣接するアセルリア王国から派遣されてくるのが『森の騎士』なのだ。


 『森』に国境線が隣接するばかりに『騎士』を派遣しなければならないアセルリア王国には悪いとは思うのだが、『森』には今では伝説となりつつあるような魔獣の類が今でも多く暮らしている。

 

 彼らのほとんどは『森』を生活の場とし、無暗矢鱈と『森』を出て人々を騒がせるようなことはない。

 が、『森』に何かあれば彼らはいともたやすく“ひと”に牙を剥く。

 

 確かに、“ひと”は魔物や魔獣、聖獣を克服した。

 彼らに怯え、戸惑うだけではなくなった。

 だがそれは彼らと戦い、勝つ術を見出したというだけで、“ひと”の全てが彼らとやり合えるわけではない。

 彼らに立ち向かえるのはそれこそ国を守るために戦う騎士たちぐらいだろう。

 騎士たちであっても、倒せる、というだけで無傷で、というわけにはいかない。


 ここに一つ、伝説がある。

 

 かつて『森』の傍には、レデシリアという国があったのだという。

 だがレデシリアの王は『森』を侵すという愚策に出た。

 『森』を領土と主張し、『森』に住む魔獣すらレデシリアの持つ“資源”として利用しようとしたのだ。

 

 美しい玉、角を持つ魔物の多くがレデシリア王によって送り込まれた騎士たちによって屠られた。

 

 騎士たちは『森』を侵し、略奪と殺戮の限りを尽くした。

 そして――ある夜、一匹の魔獣が騎士たちの前に姿を現した。

 それは巨大な三つ首の黒犬だったとも、巨大な黒竜であったとも言われている。

 その魔獣は騎士たちを前に凄まじい怨嗟の咆哮を上げ――まるでそれが合図であったかのように森の獣たちはレデシリアを襲った。

 騎士を殺すだけでは飽き足らず、獣の群れは津波のようにレデシリアの王都にまで及んだ。

 

 獣の群れの後には何も残らなかった。

 彼らは全てを蹂躙した。

 田畑を喰らい、焼き、踏み躙り、人は皆殺された。

 後に残ったのは多くの死体だけだ。

 獣も、人も、ただただ死体だけが残った。

 王都まで攻め上がった巨大な黒い魔獣は王の首を獲り、そしてレデシリアは滅んだ。

 

 そのレデシリアの後に興ったのが、今のアセルリア王国だ。

 

 確かに“ひと”の力を束ねれば魔獣を討伐することは可能だろう。

 “ひと”は前に進み続ける生き物だ。

 挑み続ければ、いつかはあの黒い魔獣を倒すことも出来るのかもしれない。

 だが、“ひと”はその道を選ばなかった。

 『森』との共存を選択したのだ。

 

 アセルリア王国が『森』と“ひと”との境界を守るために『騎士』を派遣するのもそのためだ。

 

 アセルリアの国境線は『森』に隣接している。

 『森』に何かあった際に、真っ先に被害にあうのはアセルリアなのだ。

 そんな有事を防ぐために人を出すのは、国としては当然のことだと言えるだろう。

 

 とはいえ。

 

 そんな緊迫した『森』と“ひと”の関係も今は昔。

 私が『森』で暮らすようになってもう二十年以上が経つが、その間に“ひと”と魔獣の衝突といえるような出来事は一度も起こってはいない。

 せいぜいが密猟者の摘発、といったところだ。

 

 それ故に『騎士』の立場も形骸化が進み、今ではほぼほぼ自警団といった程度に過ぎない。

 

 『森の騎士』たちのほとんどは近隣の集落から集められた男衆たちで、持ち回りで『騎士』として森の見回りを行っている。

 当然彼らは『騎士』として王から位を授けられたわけではないので、正式な騎士ではない。国からほんの少し、手当が出る程度だ。

 

 唯一、団長だけは王から特別に命を受けて派遣されてくる正騎士が務めることになっている。


 私は。

 その、正騎士が、苦手、なのだ。

 だから、出来れば顔を合わせたくない。

 どこか私の知らないところで『森の騎士』の務めを果たしてほしい。

 『魔女』と『騎士』が手を取り合って『森』を守るなんていう事態は滅多にないのだ。

 顔を合わせずとも――


「失恋の一つや二つ、乗り越えないと」

「ぶちころす」

「あ、まってまって動かないで、あと少しで結いあがるんだから!」


 視線だけで人を殺せるのなら、私の背後で楽しそうに笑う男を射殺してやりたい。


「お嬢が次の騎士団長に会いたくないのって、そのせいでしょ?」

「………………」


 憮然とした無言こそが、その解答めいている。

 はい、出来上がり。

 そう笑った男が、ポンと大きな掌で私の頭を撫でる。


「……だって」

「うん」

「王都での私の言われよう、知ってるでしょう」

「酷い言われようだよねー、笑っちゃう」

「笑うな」


 そろそろ本当に殴ってやろうと思って振り返った時には、男ははははと楽しそうな笑い声をあげながら私の手の届く距離から離脱済みだった。

 ますます憎たらしい。


 先代の騎士団長は、私より少しばかり年上の正騎士だった。

 私は都から来た伊達男の手のひらで面白いようにころころと転がされ――…まあ、手酷い失恋をしたのだ。

 

 は、とても誠実そうな騎士だった。

 優しく、紳士的で、女性の扱い方を心得た男だった。

 そんなに耳に心地良い言葉を日々囁かれ、その気になった。

 閉鎖的な森での生活の中に飛び込んできた青年騎士は、私にとってはまるで絵物語の王子さまのようだったのだ。

 きっと、ハッピーエンドが待っているのだと信じて、私はと甘やかな時を過ごし――…その王子様は、森での任期が終わればあっさりと王都へと帰っていった。

 

 それでも、仕事なのだから仕方ないと思っていた私は我ながら健気だし、愚かな子どもだったと思う。

 

 もしが本気で私を想っていたのなら、自分の任期が終わった後のことぐらい考えていて当然だったのに。

 私はそう遠くもない未来のことに考えが及ばないほどに甘い初恋に浮かれて、ただただその蜜月が今後も続くものだと思っていたのだ。

 からしてみれば、が森にいる間にそのことについて言及しなかった私も同罪なのだろう。

 森にいる間の割り切った関係なのだと、きっと私もわかっているとも思っていたのだ。

 きっとは、私が『幸せな今』がこれから後も続くのだと盲目的に信じているほど子どもだとは思っていなかった。

 

 だから、だろう。

 

 会いたくて、声が聞きたくなって、王都を訪ねた私を見たときのの驚いた顔は今でもトラウマものだ。

 驚いた顔を、していた。

 恋人が遠隔地から会いに来てくれた喜びを伴った驚きなどではない。

 まるで決別した過去に置き去りにした亡霊に突如追いつかれて肩を叩かれたような。

 驚きの中にどこかうんざりとしたような困惑が見える顔。

 その後に起きたアレコレについては、もう思い出したくもない。

 正騎士なんて、ロクなものじゃない。

 

 そんなわけで、私は王都から派遣されてくる正騎士に対してすっかり苦手意識を拗らせてしまっていたりする。

 どうせきっと、次も若くて適度に顔の良い爽やかぶった男が派遣されてくるに決まっている。

 

 いっそのこと年の離れた老騎士や、すでに家庭のある騎士が家族でやってきたら良いのにと思わなくもないが、なかなかそうもいかない。


 何故なら先ほども言った通り、『森の騎士』という役割はすでに形骸化しており、それ故に『森の騎士団団長』として王都から派遣されてくる正騎士も、経験豊富な騎士、というよりも今後経験を積む必要のある若手が多いからだ。

 

 今後出世の見込まれる若い騎士に与えられる形ばかりの閑職、と言えばイメージしやすいのではないだろうか。


 きっと今回派遣されてきたのも、そんな騎士だ。

 早く都に戻ることを目標に、手柄を求める若い騎士。

 そして、閑地での暇つぶしに彼らは割り切ったその場限りのロマンスを求めるのだ。

 

「……行きたくない」


 駄々を捏ねる。


「せっかく髪も結ったんだし、今日はローブやめたら?」


 男はといえば、聞いてすらいなかった。

 男はクローゼットを開けて勝手に服を見繕いだしている。

 マイペースにもほどがある。


「聞いてよ」

「でも、会わないわけにはいかないんでしょうに」

「うん」


 新しい正騎士が派遣されてきて、もう七日が過ぎている。

 度々こちらへと訪れては、丁寧に繰り返される挨拶の申し出を仮病で追い返したのが三度。そろそろ空気を読んで諦めるかと思いきや、四度目の申し出があったもので渋々と折れた次第である。

 

 これは? と差し出される比較的可愛らしいガウンは見えないふりをして、私は草臥れた真っ黒なローブを手に取った。

 手足の先まですっぽりと包むローブは、フードを目深に被ればこちらの様子は一切うかがえない仕様だ。

 ちらりと覗く白の髪は、相手には老婆のような印象を与えることだろう。

 

「せっかく結ったのに」

「どうせローブを着たら見えないのに、とは言ったじゃない」

「言ったけど」


 不満そうに男が唇を尖らせる。

 彼としては年頃の私にはもうちょっと着飾ってほしいものらしい。


「もう行く?」

「うん」

「じゃあ馬、用意しておくね」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 小さく男が笑って部屋を出ていく。

 さすがに三度面会を拒否しておいて四度目の挨拶に来いとは言えなかったもので、本日の顔合わせの場所は森の騎士団の詰め所だ。


 はてさて。


 今回の正騎士サマはどんな男なのだろう。

 出来れば職務に忠実で、私に一切の興味を持たないような男であってほしい。

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